行間

Before the Case

「生きるということは、諦めることよ」


 東雲しののめとばりが淡白にそう言ったのは、もう二か月も前、四月のことになる。


 まだ桜の香りが空気中のあちこちに残っていて。人も、世間も、漂う空気も、春の到来に浮き足立った様相を拭いきれていない。そんな中、東雲とばりとこの部屋は、凪いだ水面のように静謐せいひつだった。


 天文部の部室には俺と彼女の影が一つずつ。ゆえにその言葉は紛れもなく、俺に向けられたものであった。窓から差し込む夕陽が部屋中を染め上げている。その光に背を向ける東雲とばりの姿は、さながら映画のワンシーンを切り取ったみたいに美しく、同時に非現実的に見えた。


「諦めないと、私たちは生きていけないのよ」


 たかが十七年そこらしか生きていない少女が何を偉そうに――大人はきっとこう言って鼻で笑うのだろう。だけど、東雲とばりの病的ともいえる白い肌と、空気中に溶けていきそうな透き通る声のおかげか、不思議と説得力があった。軽くあしらうことなど、俺にはできなかった。


「俺は……そうは思いません」


 だけど、俺は反論することにした。はいそうですかと、受け入れられるかといえば、そうじゃない。俺だってただの高校生だけど、いろんなことを経験してきたつもりだ。


「そりゃ諦めることだってありましたけど、諦めなかったことだって、いくつもあります」


 自分の人生を振り返る。それを構成するものの中には、諦めなかったこともたしかに存在した。

 しかし、そんなものはまやかしとでも言わんばかりに、


「それは、晴人はるとくんの運がよかっただけよ」


 東雲とばりは、ショートカットのくせ毛と、首に巻いたストールを指先でいじる。この部屋で一緒に過ごすようになってまだ数日だけど、すっかり見慣れた彼女の癖だった。


「諦めるって、人生の中でありふれてるのよ。人は、生きていれば必ず諦めるときがくる。折り合いをつけるときが。最期の瞬間だって、そう。諦めないと、私たちは生きていけないのよ」

「だから……『諦め屋』なんてものをやるんですか?」

「そうよ」


 俺の問いに、間を置かずに答えてくる。


「ありふれてはいるけど、ちゃんと諦めることって、難しいことだと私は思うの。心に整理をつける、それは時には自分ひとりの力じゃ及ばないこともある。だから、私はその手伝いをしているの」


 君にも理解してほしいと思うけれど、難しそうね、なんて彼女は言う。


 日が傾く。東雲とばりの影が、少しずつ俺の方に伸びてくる。


 彼女の言っていることは、正しいように思えた。誰かにとっては、必要なことなのかもしれないと思った。だけど。


「結局は部長が諦めさせるってことですよね。どう言い繕ったって。諦めるとか、諦めないとか、他人がどうこうしていいことじゃないし、できることでもないと思います」


 簡単に、踏み入れるものじゃない。

 そもそも、諦めることがいいことのように言うのに、俺は賛成できなかった。できることなら、諦めない方がいいに決まっている。


「それに、ここは天文部ですよね。だったら、『諦め屋』よりも天文部としての活動をやるべきじゃないんですか?」


 こんなのは、後付けの理由だった。要は、東雲とばりが他人を諦めさせる活動を近くで見たくなかったし、俺も片棒を担ぐ真似なんてしたくなかったからだ。


「そう」


 気のせいだろうか、俺の主張を受け止める彼女がわずかに笑った気がした。


「じゃあ、こういうのはどう?」


 東雲とばりは、提案を持ちかけてくる。


「勝負をして、勝った方がこの部を好きに使う。敗者はそれに従う」

「賭け?」

「賭け条件は、そうね……」


 ゆっくりと考えるように目を閉じ、開いてから、


「君が諦めなければ、君の勝ち。

 君が諦めれば、私の勝ち」


「それって……」

「もちろん、君自身のことについて、ね。『諦め屋』の依頼のことや他人のことまで含めるつもりはないわ。条件は依頼のことを除いて、君が自分のことを諦めるかどうか。期限は……、夏休みが始まるまで、なんてどうかしら?」


 軽い口調で、訊いてくる。


「そんなことで、いいんですか?」

「あら、不服かしら」

「そういうわけじゃないですけど……」


 俺に有利すぎやしないだろうか。逆に不安になる。俺が諦めなければいい。そんなことは、普通に過ごしていれば達成できる。だというのに、この人の方からが提案してくるなんて。


「ああそれと、勝敗が決まるまでは私も好きにさせてもらうわ。もちろん晴人くんも天文部の活動をしてくれてかまわないわよ」


 猶予ゆうよ期間、というつもりだろうか。それに、好きにする、ということは部長は『諦め屋』をするということだ。


「……」

「どうかしら?」


 逡巡する。自分がどうすべきなのかを、考える。


 だけど、答えは明白だった。俺のやりたいことは一つだった。


 また屋上で、星を見る。

 そのためにはちゃんとした天文部を、取り戻さないといけない。


 諦めることが大事で、それを理解してほしいなんて言うけれど。

 諦めるばかりがいいことじゃないと、この人に知ってほしい。


「わかりました」


 俺は答える。


 夕焼けは遠くなり、二人の影が重なった。


 こうして、俺と東雲とばりは『約束』をした。


「じゃああらためて、これからもよろしくね」


 再び笑みが向けられる。ともすれば夕焼けの中に消えていきそうな、笑みが。


 今思えば、この時俺はこの表情の理由と真意を、欠片も理解していなかったんだと思う。

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