行間
Before the Case
「生きるということは、諦めることよ」
まだ桜の香りが空気中のあちこちに残っていて。人も、世間も、漂う空気も、春の到来に浮き足立った様相を拭いきれていない。そんな中、東雲とばりとこの部屋は、凪いだ水面のように
天文部の部室には俺と彼女の影が一つずつ。ゆえにその言葉は紛れもなく、俺に向けられたものであった。窓から差し込む夕陽が部屋中を染め上げている。その光に背を向ける東雲とばりの姿は、さながら映画のワンシーンを切り取ったみたいに美しく、同時に非現実的に見えた。
「諦めないと、私たちは生きていけないのよ」
たかが十七年そこらしか生きていない少女が何を偉そうに――大人はきっとこう言って鼻で笑うのだろう。だけど、東雲とばりの病的ともいえる白い肌と、空気中に溶けていきそうな透き通る声のおかげか、不思議と説得力があった。軽くあしらうことなど、俺にはできなかった。
「俺は……そうは思いません」
だけど、俺は反論することにした。はいそうですかと、受け入れられるかといえば、そうじゃない。俺だってただの高校生だけど、いろんなことを経験してきたつもりだ。
「そりゃ諦めることだってありましたけど、諦めなかったことだって、いくつもあります」
自分の人生を振り返る。それを構成するものの中には、諦めなかったこともたしかに存在した。
しかし、そんなものはまやかしとでも言わんばかりに、
「それは、
東雲とばりは、ショートカットのくせ毛と、首に巻いたストールを指先でいじる。この部屋で一緒に過ごすようになってまだ数日だけど、すっかり見慣れた彼女の癖だった。
「諦めるって、人生の中でありふれてるのよ。人は、生きていれば必ず諦めるときがくる。折り合いをつけるときが。最期の瞬間だって、そう。諦めないと、私たちは生きていけないのよ」
「だから……『諦め屋』なんてものをやるんですか?」
「そうよ」
俺の問いに、間を置かずに答えてくる。
「ありふれてはいるけど、ちゃんと諦めることって、難しいことだと私は思うの。心に整理をつける、それは時には自分ひとりの力じゃ及ばないこともある。だから、私はその手伝いをしているの」
君にも理解してほしいと思うけれど、難しそうね、なんて彼女は言う。
日が傾く。東雲とばりの影が、少しずつ俺の方に伸びてくる。
彼女の言っていることは、正しいように思えた。誰かにとっては、必要なことなのかもしれないと思った。だけど。
「結局は部長が諦めさせるってことですよね。どう言い繕ったって。諦めるとか、諦めないとか、他人がどうこうしていいことじゃないし、できることでもないと思います」
簡単に、踏み入れるものじゃない。
そもそも、諦めることがいいことのように言うのに、俺は賛成できなかった。できることなら、諦めない方がいいに決まっている。
「それに、ここは天文部ですよね。だったら、『諦め屋』よりも天文部としての活動をやるべきじゃないんですか?」
こんなのは、後付けの理由だった。要は、東雲とばりが他人を諦めさせる活動を近くで見たくなかったし、俺も片棒を担ぐ真似なんてしたくなかったからだ。
「そう」
気のせいだろうか、俺の主張を受け止める彼女がわずかに笑った気がした。
「じゃあ、こういうのはどう?」
東雲とばりは、提案を持ちかけてくる。
「勝負をして、勝った方がこの部を好きに使う。敗者はそれに従う」
「賭け?」
「賭け条件は、そうね……」
ゆっくりと考えるように目を閉じ、開いてから、
「君が諦めなければ、君の勝ち。
君が諦めれば、私の勝ち」
「それって……」
「もちろん、君自身のことについて、ね。『諦め屋』の依頼のことや他人のことまで含めるつもりはないわ。条件は依頼のことを除いて、君が自分のことを諦めるかどうか。期限は……、夏休みが始まるまで、なんてどうかしら?」
軽い口調で、訊いてくる。
「そんなことで、いいんですか?」
「あら、不服かしら」
「そういうわけじゃないですけど……」
俺に有利すぎやしないだろうか。逆に不安になる。俺が諦めなければいい。そんなことは、普通に過ごしていれば達成できる。だというのに、この人の方からが提案してくるなんて。
「ああそれと、勝敗が決まるまでは私も好きにさせてもらうわ。もちろん晴人くんも天文部の活動をしてくれてかまわないわよ」
「……」
「どうかしら?」
逡巡する。自分がどうすべきなのかを、考える。
だけど、答えは明白だった。俺のやりたいことは一つだった。
また屋上で、星を見る。
そのためにはちゃんとした天文部を、取り戻さないといけない。
諦めることが大事で、それを理解してほしいなんて言うけれど。
諦めるばかりがいいことじゃないと、この人に知ってほしい。
「わかりました」
俺は答える。
夕焼けは遠くなり、二人の影が重なった。
こうして、俺と東雲とばりは『約束』をした。
「じゃああらためて、これからもよろしくね」
再び笑みが向けられる。ともすれば夕焼けの中に消えていきそうな、笑みが。
今思えば、この時俺はこの表情の理由と真意を、欠片も理解していなかったんだと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます