冬・第28話 不治の病②わたしは最初から、嘘つきだったんだよ
「真心がとても大切にしていた家族が……奥さんが、病気で、いなくなってしまったって」
それを聞いた途端、真心の指から力が抜けた。
表情に、明らかな変化はない。しかしどこか遠くを見ているような目になった。
「ああ……そうだな」
「だったらわたしは、相応しくないよね。もし、仮に、真心がわたしを選んでくれたとしても、いついなくなるか解らないわたしは、真心にとって恐怖でしかない。また同じ思いをさせてしまうかもしれないなら……傍に、いちゃいけない」
「ゆしか……」
「関わるべきじゃなかった。こんな風に、近くに、いたら駄目だったんだ。な、なのに」
ゆしかの声が震える。声が輪郭をなくし、瞼が震え始めた瞬間。
手をたらいから出して、代わりに顔面を突っ込んだ。
「うわっ」
真心が目を丸くする。ゆしかは飛沫と共に顔を上げた。
表情は、無理に作っているのが丸解りの笑顔だった。
「すっかりぬるくなっちゃったね、替えてくる!」
真心がなにかを言う前に、ゆしかはたらいを取り上げて、風呂場に持って行く。
しばらくすると湯を入れ替えて、戻ってきた。顔全体が濡れている。
「さ、まだ温まりきってないでしょ。もう一度」
促され、真心は人形のような動作で両手を浸けた。ゆしかも続き、沈黙が訪れる。
感情を失ったかのような表情の真心が、ぽつりと言った。
「……お前の、病状は、どうなんだ」
ゆしかは驚いたように真心の顔を見る。それから、目を細めて諦めたような口調で話した。
「今はね、まあ見て解ると思うけど……なんともないよ。薬は飲み続けてるけどそれくらい。
あの書類、見たよね。多分、聞いたことのない病名だったでしょ?
漫画みたいな話だけどさ、世界的に症例が少ない『極めて稀な疾患』なんだって。どれくらいかっていうと、患者が少な過ぎて難病指定されてないくらい。
もちろん、原因不明。比較的小さい子に多いみたいだけど、成人でも発症する。誰にでも一度は感染するくらい当たり前のウイルスが原因じゃないかって説があって、普通はちょっと酷い風邪くらいの症状で済むものが、理由も解らず重症化する場合がある。
わたしが突然発症したのは、中学二年のときだった。
症例が少ないから研究も進めにくいし、全患者に効く明確な治療方法が確立してなくて、とりあえずこれ試して駄目なら次、って感じでね。同じ病名でも、同じ薬が効くケースと効かないケースがあったりするんだって。副作用が弱い薬から試していって、投薬の行き着く先は化学療法……要は、抗がん剤。それすら効かない場合もあって、それもなんでだか解らないみたいなんだけど、最終手段は骨髄移植。
わたしは運良く、抗がん剤で症状改善した。
運良くって言っても、毛は抜けて、身体は骨と皮だけみたいになったけどね。リハビリと、その他色々で、二年中学をダブってさ。だから浪人はしてないけど、大学二年で今、二十二歳。
知らなかったよね? 真心が思ってるよりは、歳の差少ないんだよ。
そんなわけで、一応もう七年以上、病状は落ち着いてる。
でもね、完治って言わないんだ。寛解。とりあえず症状が見られなくなった、ってこと。
ウイルスが原因だとして、そいつが血中でおとなしくなってるのが今。この状態が何十年も続いてくれるかもしれないし、明日にでも再活性化するかもしれない。
将来どうなるかは『経過観察するしかない』だって。つまり『全然解らない』ってこと。
そりゃそうだよね。だって、原因不明なんだもん。
……ネットで調べるとね、同じ病名のひとが、少しだけいるんだ。
寛解して普通に暮らしてたのに、五年後とか十三年後に再発したり、前は抗がん剤で症状緩和したのに、二度目は効かなくて骨髄移植したり。
発見が遅れて、亡くなったり。
この前『いつ死ぬか解らない身体』って言ったのは、そういうこと。
物語でよくある、余命一年、みたいな状況ってわけじゃないの。それよりずっと希望のある状況で、本当に余命宣告されたひとには怒られると思うけど……わたしはたまに、いっそ終わりが見えてるほうがましなんじゃないかって思えるときがある。
だって、いつ、どうなるのか解らないのは……怖いよ。
普段は気にしないようにしてるし、だから真心にも普通に接してたけど……。
ごめん。自分を、誤魔化してたんだ。こんな奴が、ひとを好きになって、欲しがったら駄目なことくらい、わきまえろって感じだよね。
だからね真心。
わたしは、本当は全然『真っ直ぐ』なんかじゃないんだ。
もしそう見えたなら、自分の境遇から目を逸らして、一目散に逃げてるからだよ。
まあ『本物』しか要らないっていうのは本当かもね。だって残された時間が解らないのに、どうでもいいものに関わってる暇なんてあるはずないじゃん。
がっかりしたでしょ?
わたしは最初から、嘘つきだったんだよ。
だからさ、もう、いいんだ。わたしのことは放っておいて、忘れてくれれば。
ただ、ただね……騙すつもりじゃなかったってことだけは……それだけは」
そこでゆしかの声は途切れた。涙が喉に詰まって、続けられなくなっていた。そして同時に、真心がたらいから手を抜き、ゆしかの頭に腕を回していた。
「もういい」
ゆしかはなにも言えなくなって、かなり長い時間、静かにしゃくり上げ続けた。真心の腕の中で、すがりつくこともできず、平気なふりをすることもできず、泣いた。
真心もまた、気の利いたことはなにも言えず、強く抱き締めることもできず、さりとて突き放すことなどできようはずもなく、壊れ物を扱うように触れていた。
「……少しだけ時間をくれ」
たらいの湯がすっかり冷たくなったころ、僅かに落ち着いたゆしかに、真心は言った。
「今度は俺が、ちゃんと話すから。話せることは全て」
身体を離したゆしかが少しだけ顔を上げて、真心の顔を見る。
まるで迷子になった子どものように頼りなさげで、それなのに、沈みそうになりながら他の溺れているひとに手を伸ばそうとするような目をしていた。
「……うん」
なにも考えられなくなって、ゆしかは意識を失うように脱力しながら、首を縦に振った。
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