冬・第29話 幸せなんだよ①名作は何回読んでも、読む度新しい気付きがあるのさ

 真心らの住む地は、冬、ほとんどの日で晴れ間が見えない。

 雪が降りっぱなしというほどでもなく、たまに降り積もり、それが溶けて消えるころにまた降る、の繰り返しだ。その間もずっと空は濁った灰色の絵の具を溶かしたような色味である。


 その空が、三月も半ばになるとようやく薄い青空になってくる。

 しかしまだその頻度は時々で、休日に重なる可能性は地方都市で芸能人を見かける確率よりはまし、という程度だ。気温は氷点下を僅かに上回り、暦はどうあれ未だに冬である。


「梅林を見に行こう。そして梅干しを買おう」


 ゆしかがそう言い出したのは、その珍しく晴れた休日の午前だった。

 真心の「少しだけ時間をくれ」から早二ヶ月が経っていたが、その間ふたりは蟹汁をすすり、鰤しゃぶを頬張り、のどぐろの塩焼きにむしゃぶりつき、つまりはのうのうと冬の味覚を堪能しながら、それまでの季節と同じように遊び呆けていた。


「梅ならその辺の家に咲いてるだろ。梅干しならスーパーにある」

「風情の解らない男だな、真心」


 すっかり自分のものにしてしまった半纏を羽織り、ソファで漫画を読むゆしかは言った。


「咲き誇る梅を見て梅干しを買うのは、釣りたての魚をいただくのと同じくらいの贅沢だよ」

「どうせ意外と、海外産の梅干しとか売ってんじゃねえのか。ビジネス的には」

「なんてこと言うんだ!」

「大量生産と安い人件費による低コストの波は、もはや食品産業にまで及ぶのであった」


極めて適当な口調で言い放つ真心の目もまた、漫画に吸い込まれている。こちらはテーブルの椅子にだらしなく座り、もう一つの椅子に足を乗せていた。


「じゃあ、それを確かめに行こうじゃないか」


 ゆしかは漫画を閉じ、立ち上がる。行きたがっているのは隣県の、数万本と言われる畑としての梅林が広がる地域である。高速道路を使っても車で一時間半くらいかかる。


「でもなあ。今、いいとこだしなあ」

「それもう何回読んだんだよ。昔の作品じゃないか」

「名作は何回読んでも、読む度新しい気付きがあるのさ」

「ドヤ顔うざい。帰ってから読めばいいじゃん」


 ゆしかがテーブルの傍らに立っても、真心は視線を向けない。


「馬鹿だな。この貴重な小春日和に敢えてインドアで読書、というのが、昼間から酒を嗜むのと同じくらい価値のあることだと何故解らん。あ、いっそ呑みながら読むかな」

「駄目ぇえええっ」ゆしかはしゃがんで真心の足の裏をくすぐる。「運転できなくなるじゃん!」

「くすぐってえわ!」たまらず真心は足を椅子から下ろす。

「行ーこーうーよー。どうせいつも連れてってくれるんだから、抵抗は時間の無駄じゃない?」

「身も蓋もねえ! だとしても、そこへ至るまでのやり取りを楽しむのが乙というものだろう」


 時間稼ぎのために言っただけだったが、ゆしかはその言葉に頬を染め、口元を押さえる。


「……どうした?」

「わたしとの会話が楽しいとか……照れるじゃんか」

「……お前、耳詰まってんの? 掃除してやろうか?」


 呆れて半分目を閉じるも、ゆしかはさらに舞い上がる。


「ひざまくらみみかき!? 嬉しいけどさすがに恥ずかしいよ」

「皮肉で言ったんだよ! 忖度しろ!」


 そんな機能が、ゆしかについているはずもない。

 真心は結局五分後には身支度をさせられ、ゆしかの衝動のままに梅林を目指した。




 結論、梅干しにはちゃんとその場所の生産地表記があった。


「おお、この蜂蜜梅、うめえな」

「……オヤジギャグ」

「ち、違えよ! たまたまだ」


 沿道に広がる梅林の中に、こぢんまりとした物産館があった。そこには梅干しを中心に、梅ゼリー、梅ジュース、梅酒などの梅食品が陳列してあり、試食も可能だった。


「鰹梅もいいけど、蜂蜜の甘みが酸味を中和してるこっちのほうが、単体で食うにはいい」

「異論はないよ。つぶれ梅が安いから、大きいのを買って分けない?」

「おお、そうしよう。で……お前はそれなに飲んでんの?」

「梅昆布茶の試飲。めっちゃ落ち着く」

「よし、それも買おう」


 腰は重いが、一度外出してしまえばはしゃぎ出すのが真心という男である。普段スーパーで意気揚々と適当にカゴへ突っ込んだ挙げ句、買い過ぎたと後悔する姿はもはや様式美だ。

 物産館の外には一面の梅が広がっており、全て同じ白梅だった。小粒な花がところどころ塊になって、連なっている。空の薄い青と、まるでグラデーションのようになっていた。

 その後ゆしかが一眼レフで写真を撮るのを、真心は買った梅アイスを食べながら眺めた。

 真心も「撮って」と頼まれれば、梅アイスを口にくわえながら、梅とゆしかを撮ってやった。

 帰りの車の中で、ゆしかはその、真心の撮った写真をカメラの画面で確認しながら言った。


「前から思ってたんだけどさ……真心の撮るわたしは、『いい』んだよね」

「はあ」運転する真心は前方を見たまま相手をする。「どう、いいんだよ?」

「なんか、幸せそうだ」ゆしかは目を細め、噛み締めるように呟く。「……幸せなんだよ」


 よかったな、と言うのは違う気がして、真心は黙った。ゆしかは顔を上げてその横顔に


「奥さんのことも、こんな風に撮ってた?」


 と訊いた。何気ない口調だった。


(……来たか)


 と真心は思った。いささか唐突だが驚きはしなかった。覚悟は決まっていた、とは言い難いが、忘れていようはずがない。きっかけはいずれ来ると思っていた。


「ゆしか」


 一瞬だけ、真心はゆしかに目を向けた。


「この前の話だけどな。元日の」

「うん」

「多分ひとつ、勘違いしてる。北地の説明も、正確じゃなかったんだろうな。恐らく、俺に話させるように、わざとそうしたんだろう」

「どういうこと?」

「『家族が病気でいなくなった』……確かに、そうだ。それを聞いてお前は、自分の病気の再発を気にしないわけにはいかなくなった。だよな?」

「……そうだよ」

「だが俺は、誰かと死に別れるのを恐れてるわけじゃない」

「……え」


 真心は声色から感情が抜け落ちていくのを自覚しながら言った。


「俺の元家族は、死んでない。今も生きてる」


 ゆしかが息を呑んだ。

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