第21話「身近な別世界」
集落の柵沿いに立っている小屋は、衛兵たちの泊まり部屋でした。
そこはただ寝るだけの空間で、ベッドが一定間隔で並んでいます。
そんな中、夜勤組の中では早く目覚めたアッシュはその小屋を出ていきました。
手にはくしゃくしゃになった一枚の紙がありました。
「……っ」
小屋を出ると、いつも通り眩しい光と空が広がっていた。
朝日を浴びたと同時に朝勤の仲間と交代し、窓のカーテンを締め切った小屋の中で睡眠を取った。
暗闇から明るい昼の外に出るのは、正直キツい。
しかし、やれる事はさっさとやってしまう方がいい。
寝起きの頭と体でフラフラと集落を歩き、途中軽食を買い食いしてから、山へ向かった。
足裏の感覚だけを頼りに道を探る。
昼間だというのに木が生い茂るこの山は集落近くの森と比べて驚くほどに暗い。
ただ、山の上から差し込む光が目印なだけで、周りはまるで分からない。
時々こんな噂を耳にする。
『あの山に入ったら、帰って来れない』『登る時は暁月がいた方が安全だ』『あそこは楽園だった』
事実な噂もあれば、気に食わない噂もあるし、頭の悪い噂もある。
俺自身、この山には途中までしか入った事は無い。
それは夜に抜け出して、友人と遊びに向かったからだ。
けど、その山への道中で会った一人の女性に『帰った方がいいよ』と促されたからだ。
夜だからどんな顔をしていたのか、小さい時の事だから、どんな声をしていたのかは覚えてはいない。
ただ匂いと優しいという事は覚えていて、匂いは今になっても集落でも稀にしていた。
匂いを辿ったことは無いけど、多分狭い集落の中でも見たことの無い人がいるんだろう。
優しいというのは、促されて帰ろうとしても帰れず泣いていると、再度その人に会ったからだ。
泣き声を辿ってきたんだと思っている。
その人と手を繋いで、一緒に山を降りた。
その人は陽気な雰囲気の歌を口ずさみながら、俺達を気遣っていたはずだ。
その後、その時は貴重だった甘味を貰って、こっそり食べたものだ。
まぁ…俺達にとってはその甘味を貰ったことの方が鮮明に記憶に残っている。
………ふと昔の事を思い出してしまった。
でも、そんなこと考えているとあっという間な道のりだった。
俺はその光に足を踏み入れた。
視界には目いっぱいの明るい緑色の草原が広がった。
一本の砂色の道が伸び、その真ん中には一本の木と木造建築の建物が立って、その草原をより広大に見せた。
そこは別世界だった。
夢を見ているかのような心奪われる草原だった。
爽やかな風が吹いた。
風を遮るものはほとんど無く、草は波打つように揺らいで、木の葉達は互いに擦れながら音を鳴らす。
呼吸をする度に体の中身が入れ替わるような良い空気だった。
そして、そこに吹く風が俺に付いてる悪いものを洗い流すような清々しい気持ちになった。
フラフラと面倒くさく山を登ってきたのに、ここに来た途端。頭はしっかり冴えてるし、体は凄くリラックスしている。
本当に集落近くの山とは思えない空気の綺麗さだった。
そんな空間を俺は道なりに進んだ。
木造の建物に近付くにつれて陽気で聞き覚えのある歌声が聞こえてきた。
声も女性らしく、好奇心にも似た思いで早足気味に建物に近づくと、建物の横、木の生えた反対側の土地で、洗濯物を干していた1人の女性が居た。
肩下まで伸びる長い茶色の髪とベージュのロングスカートは女性に合わせて流れるように揺れ動き、上半身はしっかりと軸を保って次々と洗濯物を干していく。
「──時々チラリと見える横顔は少し歳上のお姉さんのような顔立ちだった」
「………え?」
後ろを振り向くと、『俺』が居た。
背格好も服装も顔も髪型も何もかも俺と全く同じの『俺』がいた。
その『俺』の手には洗濯されたものが詰まったカゴを持っていた。そして『俺』は全く同じ声で「美雪~、お客さんだー」と言った。
その方向を見ると、さっき見ていた女性が振り向いて手を止めていた。
「あら、いらっしゃい!ここに良く来れたね。何か用でもある?」
「これを…」
俺はポケットに入ったクシャクシャになった手紙を渡す。いや、正確には紙切れの方が正しい。
「『鍛冶屋のエスメラルダと一緒に街へ行ってきます。長い道のりになるので、少しの間帰って来れません』なるほどねー……え?」
「エスメラルダって子は……ジェイドさんとこのお孫さんか…」
もう一人の『俺』もそれに反応する。
「あの子に限ってまさかね〜?まぁ…茶化すのはこれくらいにして、多分『護衛』って感じでついて行ったのかな」
「暁月の事だ。大方そうだろうな。しかも手紙を書くってことは深夜か明け方辺りに出ていったんじゃないか」
「ねぇ、アッシュくん。これはいつ受け取ったの?」
ふと、俺に女性が聞いてくる。
ただ、あの時は少し寝ぼけていて記憶があまりない。
「それは陽が昇る少し前に渡された気が……ごめんなさい、あまり覚えてないです…」
「いいよいいよ!じゃあ夜明け前くらいに行ったんだね。それにアッシュくんも夜勤で疲れてるのにわざわざご苦労さま」
「はい……?」
その時、微妙に感じた違和感の正体が分かった。
何故かこの女性は俺の名前を知っていたんだ。
「あれ、なんで…俺の名前を……」
それを聞いた女性も何故か驚いた。
「あれ?私の事は覚えてない?私からすると小さい頃より良い顔付きになったなーって前々から感心してたんだけど…あぁでも、そっか。あの時以来ちゃんと会って話してないもんね」
女性は俺の事を幼い時の俺を知っていて、幼い俺は女性に会っていた。けど記憶に全くない。
「えっと、それはいつ会いましたか。それによっては覚えてるはずなんですけど」
「いつだったかな…。でも私が覚えてるのは夜中に幼い君ともう一人のお友達が一緒にこの山に登ろうとしてて、大泣きしてた事は覚えてるよ?その時以来私は集落で時々見かける位だったからねー」
それを聞いた時、どんな偶然かと思った。
この山に登ってる時に思い出した小さい頃の思い出。
それは土地そのものから思い起こされたものと思っていたが、それはここに至る為に紡がれていたものなのではとそう感じた。
「あの時のお姉さん……?」
「あ、思い出した?そう、あの時のお姉さんです!」
"ムフーっ"と嬉しそうに胸を張る『お姉さん』。
顔こそ覚えていないが、やはりあの陽気な歌声と……風に吹かれて僅かに漂うお姉さんの匂いは俺の知ってるものだった。
「──あの…ありがとうございました。あの時助けて貰って…」
「いいよいいよ!あの時はちょっと遅いお散歩してただけだから」
お姉さんと話していると、まるで数年という時間が最近のように感じるほど話しやすくて、なんだか子供の頃に戻ったような気がした。
まだ15の歳で何を言ってるんだとは言われそうなことだが、衛兵の仕事で気疲れはするし、日々何かしら疲れを感じて生活してる。
でも、今は凄く気が楽だった。
とても不思議な感覚に陥っていた。
「お姉さんねぇ……」
もう1人の『俺』がそう呟くと、お姉さんは反応して素早く指に伸びる紐を引っ掛けて『俺』に対して指差していた。
「あらー?後ろのアッシュくんは良くない子ですねぇ?いい加減その変装解いたらどうかな~?」
「─悪かった。悪かったからその輪ゴム構えるのやめてくれ、地味に痛いんだからそれ…」
俺は手を下ろしたお姉さんを見届けた後、後ろを振り向いた。
そこにはアカツキに似た長い髪をしている背の高い男が立っていた。
髪は後ろで束ねていて、女子達が言う『ポニーテール』って髪型のやつだ。
男は俺の横を通って、物干し竿の下に洗濯物のカゴを置く。
「あとはやっとくから、アッシュくんに一息つかせてやったらどうだ。せっかく登ってきたんだから」
「そうだね、じゃあアッシュくん。中に入ろうか?」
男と入れ替わりでお姉さんが近づいてきた。
「え、いや、俺は別にもう用は無いですし…帰ります」
「そう?でもわざわざここに来てくれたのに、何も返さないのはこっちも悪いからね。飲み物だけでも飲んで帰りなよ。甘いのがいい?」
「あっ、はい…甘いので……」
そうして俺はまるで甘いものに吊られるように、お姉さんに付いていってしまった。
中は年季の入った店のような空間だった。
集落にはこういうものは無いが、街の店ではこんな場所を見た事がある。
そしてそんな店のような空間の隅に、眼帯を付けた銀髪の女性、小さな赤い男の子…───昨日アカツキと一緒にいた女子が居た。
銀髪の女性は瞳だけをコチラに向け、そして目が合った。
その眼はまるで獣にも似た鋭い目つきで俺を見据えていた。
傍の小さい男の子は一度だけチラッと目を配らせ、女は男の子が話しているのを聞きつつも、時々目をコチラに向けていた。
「さぁさぁ、こっち座って」
お姉さんに呼ばれて、俺は目を逸らした。
「ごめんね?あの席は風通しも良いし、椅子も柔らかいものだから、人気なんだ。こっちの椅子は弾力があるけど、背もたれが無いからごめんね」
「いえ…」
俺は少し高い椅子に座った。
確かに弾力があるといえばいいのか、沈み込むけれどそれに反発するような柔らかさがあった。
初めてこんな椅子に座ったが、自然と気が引き締まって、体勢良く座れている気がする。
「何がいいかなー…紅茶にジュース…ケーキにチョコレート…お饅頭…」
お姉さんは色んな単語を呟きながら考えていた。
それにコウチャなんて、集落では色の付いた綺麗な水だなんて言う。
街で飲んだ事はあるが、まるで美味しさが分からなくて普通に水を飲んでいた思い出がある。
「……あれでいいかな。お湯は~…うん。まだ温かいね」
お姉さんはせっせと準備を始めていく。
陶器のティーポットに深緑色の葉っぱのようなものを入れて、鉄製のティーポットからお湯が注がれる。
漂うのは甘い匂いではなく…なんというか深みのある良い香りだ。
お姉さんは、2つの小さな陶器のコップに交互にその中身を注ぐ。
その中から注がれていたのは透き通るような黄緑色のお湯、コウチャの赤とは違う色と香りをしていた。
中身を注いだ陶器のコップを俺の前に差し出した。
「はい、どうぞ。熱いから気を付けてね。」
「はい…いただきます」
息を吹きかけてから、ゆっくりとその中身を啜った。
──ほんの僅かな甘みを感じた。いや、なんだ。味が変わった…?
─もう一口啜ってみた。
確かに口当たりは甘みがあるけれど、舌の上を流れ喉を通る時に浸透するような苦味があった。
これは確かに苦味だ。口に残った味がそう感じている。
けど、薬を飲んでるみたいに不吉な味じゃない。甘味やコウチャのように極端に甘い訳でも味が分からない訳でもない。
不思議な飲み物だった…。
でも、この苦味と温かさが心を落ち着かせる。
「どうかな、口に合う?」
「うん……不思議な味……なんて飲み物なんですか?」
「緑茶だよ。緑色のお茶、紅茶とは違って、ほんのりと苦味のあるのが特徴なものだよ」
「リョクチャ…俺はこれ好きです……」
「そう?良かった!じゃあその苦みの口直しにこれをどうぞ」
それは見慣れたもの…見慣れてはいるがせいぜい月一程度でしか味わえないもの。それは確実に餡子だが、餅に包まれたの訳でもない餡子の塊がでてきた。
「あんころ餅っていう餡子の中に餅がある甘味だよ。アッシュくんの集落だと餡子はまだ見るでしょ?」
「えぇ。見ますけど…餡子塊の中に餅?そんなに贅沢なもの良いんですか?」
「いいよいいよ!遠慮せずにどうぞ!」
「──っ、頂きます」
俺はフォークでその餅を一突きして、口に運んだ。
「ふふっ、喉詰まらせないようにね」
お姉さんに気を遣われたが、そんな事は口の中の甘さが溶かしていった。
──とても甘い。だけどしつこくない。
サラサラとした甘さが口の中を満たしていく。
頬が落ちていきそうなくらい、美味しくてついつい笑みを浮かべてしまう。
餅の食感で噛みごたえもあって、餅の素朴な味で甘さを和らげる。
口の中はもう甘さでいっぱいだ。
けど、それと同時に口の中の甘さの塊も消えていく。
惜しくもそれを飲み込んで、食感も甘さの根源も無くした。
リョクチャを啜って喉を潤す。
また─この苦味が甘さで満たされていた口の中では絶妙に美味しかった。
「あはは、そんなに急がなくてもいいよ。もう一個あるからゆっくり食べなよ」
「っ……ありがとうございます」
今度はゆっくりと味わおう。
フォークで餡子だけを掬おうとすると、横に銀髪の女性が座ってきた。
「美雪、私にもあんころ餅をくれ」
「え…あぁ…ごめんルナさん。アッシュくんに出してるのでこれは最後だったんだ…他のものでいい?」
「……あぁ、それでいい」
──目線は合わせていない。
けれども、その威圧感と甘いものの恨みというやつか、それで押し潰されそうな気分だった。
いや…ただでさえ、貴重な甘味を贅沢に食ったんだ…これは譲るべきだ。
俺は目線を合わせずに横にその皿を流した。
「俺はいいです。どうぞ」
視線を感じる…先程見た獣のような鋭いものだ。
視線に気を取られている間に、頭に女性の左手が置かれた。
「これはお前が食え。お前が受け取って感謝を述べたものだろう」
頭を軽く撫でられたあと、左手の裏で皿は俺の目の前に戻された。
そこにあったのは呆気ない感覚。
畏怖していた本能の糸はその拍子抜けした行動と言葉でほつれていった呆気なさ。
頭を撫でられた感覚が心地よいと感じる前に終わってしまった呆気なさ。
ここに居ると、子供になった気がして仕方がない。
楽園とは言わない。けれども、とても良かった。
15歳になればもう大人だ。
でも大人になりきれていない15歳の俺には、この空間は本当に…心地よかった。
その後、アッシュは甘味を食べた後で別室で眠りについて、その身体を休ませて貰っていました。
彼らにとっては彼は子供です。
しかし、子供扱いというほど甘くしませんし、だからといって大人扱いで厳しくもしない、程よい距離感と接し方がアッシュには心地良かったのです。
アッシュが目覚めた時には衛兵達の泊まり部屋でした。
周りには数名寝ていて、1人だけという訳では無いようです。
先程まで出来事を夢かと思ったアッシュでしたが、暁月から貰った手紙はもうポーチにはありません。
「凄く休めた気がするな…」
体は軽く、頭もスッキリしています。
万全な状態で今夜も集落の為に夜の警備に立つのです。
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