第6話 笑顔の商会主
翌朝、門が開くと直ぐに王都に入った。
詰めていた衛兵に日を確認したが、山中で死にかけたその晩にここに移動していた事になる。
あの魔狼に追いかけられた事が夢だったと思いたかったが、傷だらけになった荷馬車を見れば嫌でも現実と向き合わざるを得えないし、何より自分の指に嵌る真っ赤な指輪は『忘れるな!』と言う様に存在を主張し続けていた。
あのシャイロックとの契約については昨夜のうちに確認している。
あれ程の奇跡の対価がどれ程になるのか想像すると手の震えが止まらなかったが、この手の事は先延ばしにすると取り返しがつかなくなる事が多い。
暗闇の中でシャイロックの名を呼んだ。
暇つぶしだと言っていたし、あの洞窟で指輪を手に戻したことからずっと見ているのではないかと思ったのだが、独り言を呟く悲しい男が出来ただけで返事が返ってくることもあの美貌の持ち主が現れる事もなかった。
あれこれ試している内に指輪に右手の2指を添えた状態で
どちらかと言えば文字、文書なのだろう。
頭の中の事ではあるが書類と同じように一文字づつ読む事も、前後に移動して内容を確認する事が出来た。
その上、契約の内容やその場でやりとりした事についても履歴として残っており、アントニオが言った事も文書として見る事が出来る様だった。
結論から言えば、それぞれの契約の対価は『ライフ』と言う謎のモノで支払う事になる。
最初、何か分からなかったがアントニオと題されたページを見るとライフと言う項目があり、残りのライフは32,391,000ある事が分かった。
何を表しているのかは分からないが、残りがあるという事はアントニオが既に持っているものから支払われたらしい。
支払ったライフも9,000だったので全体から見れば大した事にはならないと思われた。
問題は主契約の中に在った最後の一文だ。
『・・・これにより人間アントニオと悪魔シャイロックの手続き代行サービスに関する契約が締結されたものとする。』
「何が古代の神だ!しっかり悪魔じゃないか。だが拙い事に俺は悪魔と契約したことになってしまった。もし、これがばれたら・・・商売に支障が出るじゃないか。」
商売どころの話ではない。
この世界では神が実在しており、教会は強力な権威と力を持っている。
特段の理由がある場合には王権さえ教会に従わざるを得ない上に、国家を超えた世界的な組織として君臨しているのだ。
そして、神と悪魔が関係していれば明らかにその“特段の理由がある場合”に当たる。
事が公になったらアントニオは超国家組織から敵として追われる事になるのだが個人的には金を稼げなくなる事の方が優先度は上らしかった。
「とにかく、あの神殿の事は人に知られる訳にはいかないから情報を売って金を稼ぐ事が出来なくなった。せめてフェアリードロップの納品契約分だけでも稼がないとな。」
期日は今日の午前中までなので余程の事が無い限り充分間に合う。
これ以上問題に巻き込まれない様に祈りながら、アントニオの荷馬車は夜明けの街中をゆっくりと進んで行った。
「アントニオ!君だけでも間に合ってくれて助かったよ。」
依頼をした商会に着くと、意外なことに商会主自らやって来てアントニオを労ってくれた。
まだ夜が明けてそれ程たってはいない時間だ。
流石に商人にとってはそれ程早すぎる時間ではないが、商会主までこんな時間から詰めている事は滅多にない。
面識はあったものの、あくまで仕入れ先の一つと言う以上の付き合いはなかったのでここまで熱烈に歓迎される理由が分からなかった。
気が付けば応接に通されて差し向かいでお茶を勧められるまでになっていた。
「今回は本当に助かった。輿入れされるご令嬢がフェアリードロップを大層楽しみにされていてね。私も君の他に二つ程大きな所へ仕入れを依頼していたので安心していたのだが、例の大雨とがけ崩れでどこも期日に間に合わなくなってしまっていたのだよ。」
「あの大雨ではどうしようもありませんよ。私もお役にたてたなら苦労した甲斐があります。」
「これでお世話になっている侯爵様にも面目が立つ。数は少なくなってしまったので大盤振る舞いと言う訳にはいかないが、これだけの品質のものであれば返って希少価値が付くと言うものだ。いやあ、本当にありがとう。今回の取引には当商会からも色を付けさせてもらうし侯爵様にもしっかりと君の貢献を伝えておくよ。」
満面の笑みを浮かべた商店主は、退出するアントニオを態々馬車まで送って行った。
もっとも、商人の笑顔は奇術師の手に在るカードと同じ位信用できない。
自分の感情とは関係なく自由に変えられる物だからだ。
搬入口に止めた荷馬車まで来ると改めてお礼を言われ、握手を交わした。
アントニオが荷馬車に乗り込む間も商店主は話し続け、ボロボロになった荷馬車を見て買い換えるなら相談に乗ると申し出るほどだった。
「こんなになってまで期日をまもってくれたのだなあ。ありがたい事だ。」
笑っていた顔に殺気にも似た鋭さが一瞬
「ところで誰も間に合わなかったのに君はどうやってここに来ることが出来たんだね。聞けば大雨の時は川の向こうで足止めされたと言っていたが、あの山脈に秘密の抜け道でもあるのかい。」
(そうきたか。)
いくら助かったからと言ってこの歓迎ぶりはあり得ないと思っていた。
仕入れの責任者が出て来て色を付けると言えば済む話なのだ。
使えそうなルートがあるなら握っておきたいと言った所だろうか。
もちろんアントニオは真実を教える訳にはいかない。
「川向こうの古老から古い間道があると聞きましてね。ダメ元で夜を徹して走ったんですよ。しかし道は狭く荒れている上に、途中で道に迷って行ったり来たりしている内に気付いたら麓に出ていた次第でして。偶然辿り着けたから良い様なものの、一つ間違えば崖の下か魔物の腹の中でしたよ。」
ハハハと笑いながらお互いに相手の様子を窺っていた。
商店主が今の話を信じたとは思わないが、嘘だと言うには真に迫り、それを裏付ける様に傷だらけの馬車がある。
それに商人が一度隠した以上それを引き出すには金が掛かるものだ。
普段であれば通常の街道で十分間に合うし、こんな事は早々ある事でもないのでそこまでして知る必要がある訳でもない。
要は商店主の興味を引いたと言う以上の意味はないのだ。
商店主はフッと息を吐くと張り付けた笑顔を解いて取引用の普通の笑顔に戻した。
「次も良い取引ができる事を期待しているよ。」
軽く手を振って建物に引き返すのを見てアントニオも馬車を発信させた。
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