第4話 悪魔シャイロック

その声は憂いを帯びて優しく響き、若者の様にも老人のようにも聞こえた。

ただ、甘く心地よい声音には些かの悪意も感じられなかったので壁際で身を固くしていたアントニオは少しだけ力を緩めた。


「だ、誰かいるのか。」


『ああ、そんな所にいたのかい。今は余り動きたくはないのでね。もう少し奥に来てくれないか。』


「嫌だ。直ぐに出て行くからここを開けてくれ。」


『おや、閉じ込められてしまったのかい?今度の来訪者はとんだ間抜けの様だね。』


「うるさい。何の目的か知らないがお前の思い通りにはならないぞ。」


『はぁ~酷い言いがかりだ。その扉を閉めたのは僕ではないのだよ。ここは祈りの場でもあるから時間が経つと勝手に閉まる様になっているのさ。君が出たいならその祭壇の前でケーラに祈れば扉は開くよ。』


「ケーラ?ケーラと言うのは正面のその女神のことか?」


『おや?ケーラを知らないのかい。泡沫とはいえ割と人気があったと思っていたが。』


「騙されんぞ!そんな名前の女神は聞いた事がない。」


『ふむ・・・どうやら大分寝過ごした様だ。ちょっと待ちたまえ、今確認する。・・・2千万Gライフか。文明も2~3替わっている様だしケーラ如きでは忘れられていても仕方がないか。』


声の主は淡々と事実を語っている様で、少なくとも今は謀ろうと言う様子はない。


(他に情報が無いし、待っていても変化があるか分からない。ここは奴の言葉に乗ってみるのも仕方がないか。)


「今からそっちに行くから妙なことはするなよ。」


周囲を警戒しながら前に出るが、祠の正面には立たずにその手前で立ち止まる。

横を見れば祠の扉は重々しく閉じられ、周り中に禍々しい程に黒い紋様が描かれている。


「おい、祈るのはどうすればいい。」


『目の前の床に色の替わった所が見えるだろう。そこに跪いてしばらくすれば扉は開くよ。』


知らない神に祈るなど冗談ではなかったが、どうやら形だけでいいらしい。

いつでも逃げられるようにしながら跪いていると、程なくして扉が開く音が聞こえてきた。


「嘘は言っていなかったみたいだな。疑って悪かった。約束通り直ぐに出て行く。」


ホッと安堵の息を漏らしたアントニオは手早く立ち上がって後ろを振り向くと―――


『まあ、そんなに急ぐこともないだろう?少し話をしないか。』


いつの間にか目の前にはさらさらした金髪を揺らす若い男が立っていた。

白磁の肌は滑らかに匂い、そこに鮮やかな紅い瞳が美しく輝いている。

『やあ』と笑った顔はこんな場合でなければ男女を問わず虜にするだろう。

だが、だからこそ警戒しない訳にはいかなかった。


(“悪魔の声は優しく響く。それは食虫花の蜜が甘いのと同じで哀れな獲物を呼び込む為に他ならない。”)


幼い頃、教会でよく語られた言葉をアントニオは頭に浮かべていた。


(まさか、こんなにそのままな場面に出くわすとは思わなかったよ。)


それを語った神父も、もっと抽象的な人の悪意などを意図していたはずだ。

だが今のアントニオにはこれ以上に確かな教訓は無かった。


(絶対に心を許してはいけない。)


固く心に決めて拳を握りしめた。


『やあ、初めまして。僕はシャイロック。遥か昔にこの神殿に祀られた神だよ。忌神いみがみとか呼ばれた事もあるので僕の寝所はこんな事にされたけど、まあ気にしないでくれ給え。意見の相違は何処にでもあるものだからね。因みにこの模様はセンスが悪くて不愉快になる以外の効果はないよ。現にこうして自由に出入りできるのだから。』


(無駄に爽やかでむしろ腹が立ってくる。くそっ、こいつ商売したら成功しそうだ。)


アントニオは自分の話し方が余り人好きするものではないと密かに気にしていた。

しばらく話をすればそれも受け入れてもらえる自信はあるが、最初の印象が如何に大事なのかは身に染みているだけにシャイロックの話し方は妬ましく思う程だった。


「その古の神さまが俺なんかに何の用があるんだ。できれば放っておいて欲しいんだが。」


『結論から言うとね、僕と契約をして欲しいんだ。」


「断る。」


『いやぁ、そこは少し考えようよ。実の所、少し暇を持て余していてね。今の人間の暮らしと言うものを実際の生活の中から見たいんだ。まあ因果律の関係でタダにはできないけどエントロピー的にはマックスウェルのバカが悪戯をしているかと思えるほど一方的に出来るよ。』


「何の事だか分からないが次の奴に言ってくれ。俺には関係ない。」


『そんな事を言わないで・・・僕の利益は情報だけでいいから実際の収支で言えばほとんどこちらの持ち出しなんだよ。その分、君の方は暴利もいいところなのに断るのかい?』


「暴利!?」


『そうさ。君が支払うのは僅かなライフのみで後は労せずして利益を得る。後の事は僕が何とでもしようじゃないか。』


「利益!」


商人として利益と言われて無視する事はできなかった。

しかし悩みに悩み、最後まで迷いながらも、結局は目先の甘い話に飛び付く事はなかった。


「・・・い、いやダメだ。悪魔はみんなうまい事を言って騙すものだ。」


『ふぅ~。そこまで嫌われているんじゃ仕方がないね。分かった。僕はもう少し寝て次の来訪者を待つことにするよ。それじゃあね。』


シャイロックがすっと横に動いて道を空けたので警戒しながら出口に急ぐ。

急がなければ自分の決断を後悔しそうに思えた。


扉の前までたどり着いて振り向くとシャイロックは元の位置から動く事なく静かにこちらを見ていた。


「じゃあな。」


身を切る思いで背を向けて歩き出す。


『ああ、さようならアントニオ。しかし残念だよ。僕なら君が陥っている悩みを解決してあげられるのに。』


外に踏み出そうとしたアントニオの足がピクリと止まった。


「何!」


「君の悩みを解決できると言ったんだよ。実際、行き詰っているんじゃないかい?人生に・・・」


「何を知っている!」


『僕は神だよ。すぐ外で起こっている事くらい、状況もこれから起こる事も分かるさ。だから“さようなら”と言ったんだよ。もう会わないだろうからね。』


肩をすくめて見せたシャイロックはゆっくりと奥に向かって歩き始めた。


「こ、この洞窟に他の出口はないか。」


一方のアントニオは現実を思い出して苦しそうだ。


『ないよ。君が入って来た所だけさ。』


ニガヨモギを噛んだ様に口の中に不快な感覚が広がった。

奥歯を噛みしめて考え込んでいると、立ち止まったシャイロックが何かを投げた。

咄嗟に受け取った物は幅広の紅い指輪だった。


『迷っているならそれを持って行きなよ。それは契約の指輪。もし僕と契約する気になったらそれを左手の薬指にはめて僕を呼び給え。それで主契約が交わされた事になる。なに、要らなかったら捨ててくれればいい。指に嵌めるまでは何の効力もないからね。』


背中で手を振ったシャイロックは欠伸をしながら霧の様に消えて行った。

アントニオは逃げる様に神殿を出ると出口に向かって駆けて行った。


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