23

 くれないは、父と母を知らなかった。

 否、叔母から写真を見せてもらったことがあるので顔だけは知っていた。しかし、分かるのはそれだけで、生まれたばかりの紅を残して逝ってしまった両親との思い出は何一つ残っていない。

 古びて端がボロボロになった一枚の写真。その中で幸せそうに微笑む二人の男女を、自分の両親だと認識したことは一度もなかった。写真の中で母親の腕に抱かれている赤子が自分なのだと、頭では分かっていても。

 紅が生まれて間もない頃、フレイリア国の王都アルステトラスで一つの暴動が起きる。諸外国に波及することもなく、一国の内乱として収まった暴動はその規模の割に数多あまたの犠牲者を生んだ。

 運悪く、その犠牲の中に紅の両親がいた。

 紅自身は母親の腕に抱かれ、守られるように生き延びたのだという話を叔母から聞かされたが、記憶が無いので何の実感も湧かない。

 両親の死後、一人残された赤子の紅はそのまま母親の故郷であるエスタール島という場所に送られた。

 そこで母の旧知の友人であった一家と共に、幼少の時を過ごすこととなる。

 一家は父と母、姉、そして弟。

 およそ七年の月日の間、その中で紅は本当の家族同然のように育った。

 一つ年上の姉――寿弥とは所謂いわゆる幼馴染みであり、血の繋がらない姉弟のような関係だった。






「……あまりにも訳が分からないからつい家まで引っ張ってきちゃったけど、大丈夫だったかしら?」

「おれはもの凄く助かるけど……」


 寿弥の助けを借りて石積みの塀を乗り越え、彼女に腕を引かれて着いた場所は街の中央部にある宿の施設だった。

 おそらく裏口であろう扉から、人目をはばかるようにこっそり入る。施設の二階は宿ではなく住まいになっているようで、音を立てないように階段を上り、紅はようやく落ち着ける場所に身を置くことが出来た。


「……全然知らなかったよ。まさか、君達一家がエスタールを出てラストスに移住していたなんて」


 居間リビングのテーブルについて、紅は改めて目の前の少女を見遣った。

 癖の強い薄紅色の髪を一つに纏めたポニーテールは、記憶の中にある幼い彼女の姿よりも随分と長い。背も伸びた。それは当然で、彼女と会うのは実に十年ぶりだった。


「そうなの? あなたがガルゼおば様とフレイリアに行ってしまってからすぐの話よ。本大陸で宿屋の経営を始めるんだって、パパが言い出して。ガルゼおば様には伝えていたみたいだけど、聞いてないの?」

「初耳なんですけど……」


 叔母が教えてくれなかったのは、わざとなのか、ただ忘れていただけなのか。

 どちらもありえそうで真意は分からない。しかし知らなかったが故に、幼馴染みとの再会は突然訪れた。紅は驚きと、少しの安堵を覚える。この見知らぬ土地の中で、旧知の頼れる存在はとても心強かった。


「……で、フレイリアにいるはずのあなたが、一体どうして密入国なんて?」


 訝しげな様子を隠そうともしない寿弥の視線が、紅に突き刺さる。

 当然だよなと思いながら、どう伝えればいいのかと首を捻った。話すと長くなりそうだし、そもそも上手く伝えられる自信がない。

 紅が頭を悩ませていると、寿弥は傍らの窓硝子ガラスをこつんと叩いた。


「……もしかして、あのフレイリアにある黒いやつと関係があるのかしら」


 紅も、窓の外へと視線を移す。

 港町故に、二階からの景色は水平線がよく見えた。そして、遠く海を隔ているにも関わらずここからでも黒い柱が天を貫いている様がよく分かる。

 柱よりも一面の海に怖気おぞけを覚えて、紅はそっと目を逸らした。


「あの黒いのがフレイリアの方に現れてから、ラスティアードの人達が騒がしいのよ。でも何も説明してくれないから事情がさっぱり分からなくて。そんな中で更に街の出入りに規制がかかるなんて……きっととても大変なことが起こってるんだと思うの」

「大変なこと……うん、そうだね」


 少しだけ悩んで、話すと決めた。


「あの黒い柱の中に、ガルゼ叔母さんがいるんだ」

「どういうこと!?」


 寿弥が驚いて声を上げる。紅は静かに首を振った。


「まだよく分かってないんだ。ただ、あの中に叔母さんがいるのは間違いなくて……叔母さんだけじゃなくて、国王陛下も」

「そんな……皆、無事なの?」

「それも分からない。だからどうにか、はやく助けたいって思って……」


 やはり上手く説明ができない。

 分からない、分からない、そればかりで。そもそもの話、自分が何故ラストスにいるのかもよく分かっていなかった。ラストスに訪れたのはシスティナを訊ねるためで、そのシスティナは今、不法入国状態にある紅を帝都に入れるための手引きをしている。だからきっとこの先は帝都に行くことになるのだろうと思ったが、そこでシスティナが何をしようとしているのか、それはやはり分からない。


 ――『協力しましょ?』


 システィナの不敵な笑みを思い出す。協力とは、一体何なのだろうか。

 考えながら、ますます険しく歪む寿弥の顔を見て紅は溜め息をついた。


「……全然要領を得ないけど、あなたにこれ以上聞いても何も分からなそう、ということは理解したわ」

「……その通りです」


 頷いて、紅ははっとして頭を振った。


「いや、おれの話はどうでもいいんだよ。おれ、君に用があったんだ!」


 ようやく、当初の目的を思い出す。


「……私に?」


 きょとんと、寿弥は大きな目を丸くした。


「そう、この街の近くにある孤児院で君の名前を聞いたんだ。最初は同名の別人かと思ったけどエスタールの名前って珍しいし。でもまさか、本当に君本人だとは……」

「あ、あの孤児院を知っているの!?」


 詰め寄る寿弥に驚きつつ、紅は話を進めた。


「今夜一晩、そこで世話になる予定だったんだ。ただ、子ども達とお婆さんが君のことをとても心配していて。港町に行ったまま戻ってこないんだって」

「そう、なの。やっぱり……」


 酷く狼狽した様子で寿弥が俯く。


「お婆さんの娘さんの後を追っていったって聞いたけど」

「追って、というか……流石にフレイリアまでは行けないから、港にエリーゼさんが帰ってないか確かめに行っただけなのよ。ただ、私が街に入ってすぐ後、出入りの規制がかけられて門が閉められてしまったの。孤児院の皆、私の家がこの港町トスカテージにあるって知らないのよ。だから絶対心配かけてるって思って、少しでいいから街の外に出して欲しいって、入り口を塞いでる守兵さんにずっと頼んでいるんだけど全然話を聞いてくれないの」


 先ほど寿弥が番兵と争っていたのはその為だったのか、と納得する。

 ラスティアードの公人の頭の固さは、フレイリアでもラストスでもそう変わらないようだ。


 ――しかし、それならば。


「孤児院って、ここからすぐ側じゃないか。じゃあ許可なんてとらないでこっそり行って帰ってくればいいんじゃない?」


 改めて街の内側から周辺を見たところ、見張りの兵は出入り口の門にしかいなかった。おそらく港の方へ行けば見掛けるようになるのだろうが、孤児院に行くだけなら海に用はない。街を囲む石壁が低いので人目には付きやすいが、細心の注意を払えば抜け出すのは簡単なように思えた。

 現に今、余所者の紅が何の問題もなく街の宿屋に入れている。


「……え?」


 寿弥の、琥珀色の瞳が困惑に揺れた。

 そんな寿弥の様子に、紅が不思議そうに首を傾げる。


「……何かおれ、変なこと言った?」

「変も何も、どうしちゃったの? そんな悪いこと考えるなんてあなたらしくない」

 失望したと言わんばかりの寿弥に、紅はふと考えるように天井を仰いだ。


 ――悪い、こと。


「……」

「……」


 重苦しい、気まずい空気が流れる。


「……なんか、ごめん。最近色々あって、倫理観というか、そこら辺の感覚が麻痺してたみたいだ」


 死角から張り手を受けたような、そんな衝撃を受けた。確かに悪い。人目から隠れて行動するのがもはや当たり前になっていてそんな考えも及ばなかった。


「……」


 はは、と誤魔化すように笑ってみせるが、寿弥の目は腑に落ちないと訴える。

 イクセルに対して『大人の言い付けは守るように』といたことは記憶に新しい。自分のことを棚に上げて何て偉そうなことを言ったのかと、思い出して苦笑が漏れる。

 思わぬところで自分を戒める機会を得てしまい、紅は深く反省した。


「……ああ、でも、そっか。分かった!」


 閃いて、両手を叩いた。


「おれがこのまま孤児院に戻って、君の状況を伝えればいいんだよね。どのみち、おれが密入国者だっていうのは変わらないし」


 本当は本人が直接安全と無事を伝えるのが理想だった。しかし、現状の問題を考えれば致し方ない。

 あの心優しい老婆ならば、きっと、紅の言葉でも信じてくれるだろう。

 それにもうそろそろ孤児院に戻らなければならない時間だ。帰りが遅くなれば余計な心労をかけてしまいかねない。

 近距離とはいえあまりゆっくりもしていられないな、と。紅が立ち上がろうとしたその時。


「……待って!」


 寿弥の制止と共に、ガタリと椅子が音を立てた。


「私も行く!」

「寿弥……?」

「……やっぱり、直接会って伝えなきゃって思って」


 一転した寿弥の言動に、驚きつつも、どこか懐かしい心地を覚えた。

 思わず笑みが漏れる。


「それはいいんだけど、大丈夫? 『悪いこと』だけど」

「……」


 先の彼女の言葉を強調すると、寿弥はむっとして顔を歪ませた。


「意地悪言うのね」

「だって、人のこと悪人呼ばわりしておいてそれなんだもん」

「……そうね」


 くす、と寿弥が吹き出す。


「一人じゃないなら、いいの。それに私が悪人なら、あなたはもっと極悪人だもの」

「違いないや」


 つられて、紅も笑った。

 

 もう、十年――いや、きっとそれ以上前の記憶。

 フレイリアでも本大陸でもない、もっと東にある小さな孤島。

 自然豊かなその環境で、よく木登りをして遊んでいた。

 あぶないよ、と下からもう一人の幼馴染みが言う。

 お母さんに怒られちゃう、と、また、別の声が聞こえる。

 それは嫌だな、と思った。

 しかし。


『いいじゃない、一緒に怒られれば』


 脳天気に、彼女は言った。


『ひとりじゃないなら平気よ』


 怖くないわ、と。

 そう言って笑う彼女の顔を見たら、嫌だと思った気持ちが何処かにいってしまった。

 それからはずっと、何をするにも二人は一緒だった。

 過ぎ去った、平凡で、それでいてささやかな幸せに満ちていた時間。

 そんな戻ることのない遠い昔の記憶を、ふと思い出した。

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