§4 望郷

21

 いきなり胸ぐらを掴まれたと思ったら、次の瞬間は視界に青空が広がっていた。

 長らく日の当たらない地下にいたため、突然の陽光に身体が吃驚する。

 いつの間にか傍にいたシスティナが心配そうにくれないの顔を覗き込んでいた。逆光で見るプラチナブロンドは地下の暗がりで見るものより一層綺麗だし、鮮やかなスカイブルーの瞳はまるで空を透かしているようだと、ぼやけた頭で思った。


「……お願いなんですが、こういうことは予め言っておいて欲しいなって」

「君に魔法の蘊蓄うんちく説いたって分からないかなぁって」


 それは確かに分からない、けれども。


「その、蘊蓄うんちくはいらないのでせめて起きる現象を……。今回だったらこの絵を踏んだら場所が移動する、みたいな、それだけでいいので」

「あらそう」


 ぐったりとする紅に、システィナは軽い調子で「分かったわ」と返事をした。

 一瞬の出来事に脳の処理が追いつかず、アスカもこの場に来ているのだと認識するまでしばらく紅は放心状態だった。


「さて、本大陸に入ったはいいんだけどぉ」


 ぐるりと一周、辺りを見回した後、アスカを一瞥し最後に紅に視線を向けてシスティナが言った。


「あんた達、ちゃんと諸々の準備出来てるんでしょうね?」

「……準備?」


 あんた達――と言いつつ、システィナは紅から視線を逸らさない。何となく自分だけに言っているのだろうなと察しつつ、何のことか分からずに紅は首を傾げた。その横でアスカが、あ、と声を漏らす。


「……そうか、完全に失念していたな」


 気まずそうな面持ちで、アスカも紅を見遣る。


「な、何が……?」


 自分だけが事情を把握していないと思われる状況に耐えきれず、紅は不安を隠せないままシスティナを見つめた。

 迷子の子犬のような視線を向けられ、システィナはわざとらしく溜め息をつく。


「気にしないで。想定の範囲内よ。紅君、本大陸に来たの初めてなんでしょ?」

「はい……」


 恐る恐る頷くと、システィナは「でしょうね」と言った。


「フレイリアは島国だから想像し辛いと思うんだけど、この本大陸はいくつもの国が陸続きで連なっている巨大な大陸なの」


 それは知っている。さすがに地図くらい見たことはある。

 頷いて、話の続きを急かした。


「で。その殆どが帝国ラストスの傘下なんだけど、それらの国々を行き来する為にシステム上やらなくちゃいけないことがあんのよ。所謂、《出入国しゅつにゅうこく手続き》っていうものなんだけど」

「出入国……?」


 何となく、テレサが持っていたフレイリア城の入退記録を思い出した。


「かれこれどういう人物がこの国から出国してあっちの国に入国しましたよっていう履歴を、ラスティアードが記録して管理しているわけ。じゃあ、紅君。君がここまでどうやって来たか、思い出してご覧なさいな」

「あ」


 そういうことかと、血の気が引いた。


「分かった? 海で隔たれてはいるけどフレイリアもラストスの一部。行き来する手段は空路か海路なわけだけど、通常なら船に乗る前にラストスの関係施設と手続きを交わすの。でも君、やってないでしょ」

「そう、ですね……」


 当然、海底隧道すいどうから地下を通じて来たのでその通りだ。

 とはいえ、エンテージや王都では街の出入りすら規制がかけられていたのだから、手続きをしようにも国外への出国が許可される状況ではなかった。

 だからこその海底隧道すいどうだ。


「ということはね。今、君がそのまま帝都へ無言で入ろうとしてしまったら、どこからも出国した記録が無い完全な不審者になっちゃうってことよ」

「で、でも、それはアスカも同じでは?」

「いや」


 アスカが考える間も置かずに否定した。


「この出入国管理には《穴》があってな」

「……あな?」

「そ。超大穴よ」


 アスカの台詞を引き継いで、システィナが説明を続ける。


「管理されるのはあくまでラストス以外に属する人間だけなの。つまり、ラストスに住んでいれば面倒な縛りはない。ま、本国民ほんごくみんの特権みたいなものよね」

「……特権、ですか」

「理不尽に感じる? でもラストスとその他大勢は対等な関係ではないのよ。多少の不自由はあって当然でしょ。その不自由と引き換えに恩恵を受けているところも多々あるんだから」


 政治的な話は分からないので、そう言われてしまえば納得せざるを得ない。が、納得できない部分もある。


「そのことと、アスカが大丈夫な理由の関係性が分からないんだけど」


 王室付きの庭師である彼は、正真正銘フレイリアの人間だ。そこは紅と変わらないはず。だった。


「……外国に行く機会がないと分からないことだが、出入国管理っていうのは少々手間なんだ。出国許可を取るのも入国審査もそれぞれ時間がかかる。俺は陛下の使いで度々海を渡ることも多いんで、その度に足止め食らってたら時間が勿体ない。だから《穴》を利用しているんだ。ラストス国民なら免除されるっていう《穴》をな」

「……」


 つまり、どういうことだ。しばらく考えて、紅は仰天した。


「えぇ!? アスカはラストスの人ってこと!?」

「身分の籍だけ本国に移している、というだけだ。便宜上の話だよ」

「……えっとぉ、紅君が知らないだけで、王都やエンテージに常駐してる商人とかも大体同じことしてるわよ? もちろん、誰でも簡単にとはいかないけど。籍を移すにはそれなりの審査があるし、定期的に更新しなきゃなんないからね」

「知らなかった……」


 国の外に出ないのであれば必要のない知識だった。が、しかし、いかに自分が無知のまま生きてきたかを思い知る心地だった。


「じゃあ、システィナさんもラストスの人なんですね」

「そういうことになってるわ」

「……こと」


 表現の引っかかりに、この人も便宜上なんだな、ということを悟る。それ以上深くは考えなかった。


「……よく分かりませんが、今、おれだけラストスには入れないっていう状況になってるということですよね?」


 すでに入国はしている。ただ、不法入国という状態になってしまっているということだ。フレイリア国内での一時的な規制を無視することとは訳が違う。完全に法を犯してしまっている。


「やだぁ、そんな不安な顔しないで。大丈夫じゃないなら君をこんな所まで連れてきたりしないわ」


 努めて明るく、システィナが言った。


「お姉さんがなんとかしてあげるから」

「す、すいません……」


 それはとても頼もしい言葉だった。が。

「いいってことよ。じゃあ早速だけど、紅君。君の《身分証》をちょっと貸して?」

「……は?」

「持ってるでしょ、身分証。フレイリアの人間ならさぁ」

「あります、けど……え?」


 システィナの言う《身分証》というのは、持ち手の生まれや住まい、歳から諸々の個人情報が詰め込まれている媒体のことだ。手のひらよりも小さい無地のカード型をしており魔力器具の一種らしいと言うこと以外、紅はよく知らない。

 そういえばラスティアードの記章も身分証を兼ねているという話だったな、という話をふと思い出した。

 記章ほどの価値はないだろうし、普段日常生活で使うことは全く無い。しかし、それでも貴重品であることには違いなかった。

 それを軽々しく「貸して」と言われても――と、紅は鞄に手を添えながらどうしようかと狼狽えた。


「入国手続きは身分証を使うのよ。だから、その中の情報をちょこぉっとだけ弄らせてもらいたいんだけど」

「ど、どうやって!? というか、それ、違法……」

「馬鹿ねぇ、今更気にすることじゃないわよ。不法入国の時点ですでに違法なんだから。泥の上から泥塗ったって何も変わんないでしょ?」


 それは暴論では。と言いたいところだったが、システィナから感じる圧があまりにも強くて口を噤んでしまった。


「ほらぁ、さっさとよこす! じゃないと置いていくわよ」

「……はい」


 急かされて、紅はおもむろに鞄の奥底からカードを取り出した。今まで全く使ったことがなかったので、うっかり家に置きっぱなしにしていなくてよかった。


「……悪用とかしないで下さいね」

「あたしのこと何だと思ってんのよ」


 何と言われても、正体不明の謎の女性――という認識しかなかった。ラストス国民だと言うが絶対嘘であるし、もしかしたら《システィナ》という名前さえ本名であるかも怪しく思える。テレサから紹介を受けていなかったら共に行動など絶対出来ないと確信できるほど、謎に満ちた人だ。

 ――と思ったが、やっぱり口には出さなかった。些細ささいなやり取りで分かったのは、決して紅が口で勝てる人ではない、ということだ。


「あら、紅君。君、本当にフレイリアの生まれなの?」

「……はい?」


 システィナが、紅の身分証を見ながら驚きを交えて言った。


「名前の響きが東の方っぽいから、てっきりフレイリアには移住してきたのかと思ってたんけど」

「えっと。母親がエスタールの出身で、移民だったそうです。おれの生まれ自体は確かにフレイリアですね」

「エスタールか……フレイリアの東にある孤島のことね。ラストスの従属国ではないけど、確かフレイリアとは親交があったはず」


 なるほどねと頷きながら、システィナは手の中のカードを弄んでいた。


「十七歳かぁ、いいわね、若くて」

「……あの、それ、見ただけでそんなことまで分かるんですか」


 次々に教えていない個人情報を口に出されるのでもはや恐怖しかない。いったい彼女の目には何が見えているというのか。


「見るだけじゃ分かんないわ。魔術式に記録されてる情報を読まないと。普通はセキュリティがかかってて読めないけどね」

「……今、読んでましたよね」

「勝手にロック外したからね」


 だってこれから中身いじるんだもの、と。当然でしょと言いたげにシスティナが笑って言った。


「……システィナさんって何者なんですか」

「やだぁ、気になっちゃう?」


 でも秘密――と、軽くあしらうようにウインクをしてみせた。


「さてと、無駄話はここまでにしましょ。この雑木林を真っ直ぐ抜けた先に小さな施設があるわ。孤児院なんだけど、旅人向けに宿泊設備もあるから明日までそこで休みましょう。付いてきて」


 システィナが先導して歩き出した。

 慣れない土地ではぐれでもしたら不味いと、慌てて紅も後を追う。


「……アスカ、さっきからずっと黙ってるよね」

「悪いな。あの女とあまり関わりたくないんだ」

「おれだって……」


 そうだよ――と続く言葉は、背後を顧みたシスティナの一瞥により声に出されることはなかった。

 マルタ村を出てから一転、王都を経て、流されるままの現状に紅は一抹の不安を覚えた。

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