20

 最近、くれないは良質な睡眠について考えることが増えた。

 枕が変わると眠れないなどという繊細な神経は持ち合わせていないので、基本は何処でも眠れる。しかし、どこでも眠れるということと常に質の良い睡眠がとれるということはイコールでは無いのだと、マルタ村を出てから今までの経緯で嫌というほど学んだ。

 まず野宿。これは駄目だ。意識の無いうちに獣や魔物に襲われるリスクがある場所ではまず眠ることすら出来ない。何処でも眠れると言ったことは訂正しよう。安全な屋内に限り、という言葉を付け足す。

 次に藁の上。草の匂いは嫌いじゃないし、藁の感触も悪くはない。状況によっては許容範囲だが藁の上にシーツを引かないとどことなく自分が家畜になる夢を見そうである。

 そして板の間。硬い木の感触と底冷えする床はそのまま寝るには適さない。せめて薄手でもいいから上掛けが欲しい。

 結局のところ、何をどう考えたところで清潔な布団や寝台ベッドに勝るものはないんだよなぁ、と。久方ぶりのマットレスの感触に身を埋めながら延々と考えた。

 本能のままに真っさらな布地に頬をすりつけると、どことなく陽の匂いがした。

 ここは海底隧道すいどうの中。太陽の光なんて差し込むはずの無い場所なのに不思議だなと、現実と夢との狭間でぼんやり思う。

 微睡みの夢の中は、酷く幸せな空間だった。

 が、その貴重なひと時は長くは続かない。

 たった一晩すら――。


「――っ!?」


 紅が飛び起きた時、アスカはすでに起きていて扉の外の様子を内側から窺っていた。


「……寝ぼけてんならそのまま寝てていいが」

「いや、大丈夫!」


 慌ててベッドから飛び起きる。

 起きたらすぐに出る、と言われていたので身支度を済ませていたのが幸いだった。

 強烈な音が聞こえた。無数の硝子ガラスが一斉に割れたような、そんな耳を劈く音だった。

 物音が反響しやすい混凝土コンクリート隧道トンネルの中で、音源の場所の特定は困難だったが――。


「食堂だと思う。おれがカレンさんとご飯を食べた部屋」

「耳が良くて助かる」


 かつての詰め所として作られたこの空間はさほど広くない。戸を開ければ、その先ではすでに異変が起こっている可能性がある。

 アスカが慎重に、音を立てぬように取っドアノブに手をかけた。


 ――その、直後。


「きゃあああああああ!」

「ぎゃあ!?」


 扉が外側から唐突に開き、強烈な叫び声と共に質量のある塊が紅の上に覆い被さって、そのまま地面へ押し潰した。


「――っ」


 後頭部を打ち付けた激痛と、何かとてつもなく柔らかいものが顔面を覆っているせいで息をすることもままならず、どうにか抜け出そうと紅はその場で懸命にもがいた。


「ち、ちょっと、一体なに――っ」


 身体を覆う質量ごと上体を起こすと、目の前にはまなじりに大粒の涙をためたカレンの顔があった。


「え、カレンさん!?」

「いやああぁあ怖いいぃいい!」


 再び正面から、今度は紅の頭を抱えるようにしてカレンが抱きついてきた。


(この顔を覆うやわらかいもの……って、まさか、む――)


 思考が停止する。胸だろうが腹だろうがそれどころでは無かった。カレンの両腕が首に力強く絡みついて、今度こそ紅は完全に息が出来なかった。


「寝ていたところを誰かに急に襲われて……っ必死で逃げてきたのぉ!」

「っ!!」


 力くで引き剥がしたいところだが、このような状況で尚、理性が邪魔をして女性の身体に触れるのを躊躇ためらってしまい紅は混乱パニックに陥った。


(やばい、死ぬ)


 意識が遠のきかけた瞬間、視界の端で大きく溜め息をつくアスカの顔が見えた。


「ああもう! 今すぐその三文芝居をやめろ!」


 アスカの怒鳴り声を伴った制止で、ようやくカレンの腕の力が緩む。身体が離れ、ようやくまともに息が出来るようになり、紅はその場で大きく咳き込んだ。正直本気で死ぬかと思った。


「何、もう終わり? つまんないの」


 その声は確かにカレンのものだったが、先ほどまで泣き叫んでいたとは思えないほど落ち着いた調子トーンだった。


「外に盗賊役用意してるけど、どうする?」


 涙すら綺麗さっぱり消え失せた顔で、カレンが親指を扉の外の方へ向けた。


「いらん。片せ」

「えぇ!? せっかくここまで来させたのに?」

「俺の知ったことか」

「信じらんない! あんたがんの遅いせいで彼らのギャラ跳ね上がってんのよ!?」


 一体何が起こっているんだという混乱と、この茶番は何なんだという冷めた感情が入り交じる。呆然とアスカとカレンのやりとりを眺めながら紅は恐る恐る口を挟んだ。


「あの、どうか、諸々の説明を……」


 懇願にも似た紅の言葉に、カレンはきょとんと目を丸くした。


「あら、分かんない?」


 分からないも何も、さっぱり何も分からない。分かっているのは先ほどまでこの目の前に居る女性に首を絞められていたことだけだ。

 アスカが深く溜め息をついて、カレンを一瞥した。


「……お前が《システィナ》だな」

「えっ!?」


 女性が答える前に、紅が驚いて声を上げた。


「本当に?」

「お前、俺達の目的を忘れたのか。名と、女である、という情報しかない人間に呼ばれている以上、目の前に得体の知れない女が現れたらまず疑うだろう」

「……それは、たしかに……」


 いやでも、と紅はかぶりを振った。


「システィナさんってラストスにいるんでしょ? まだ着いてないよ」

「お前の頭の中でどこまでがフレイリアの領域になっているかは知らんが、この女が言っていただろ。ここはかつて関所だったと。つまりもう、俺達はラストスに入っているんだよ」

「……そういうこと!?」


 思い込みで陸地にいることを想像していたため、全然考えが及んでいなかった。

 当然、女性の存在を怪しんではいた。ただ、こんな場所で生活しなきゃいけないなんて色々深い事情があるんだろうなぁ、というとぼけたことを思っていた。


「ていうか、そこの男。今、得体の知れないって言ったわね。失礼しちゃうわ。そこの赤毛君にはちゃんと身分明かしたじゃないの。没落貴族の可哀想な娘だって」

「全部嘘なんだろ」

「ふふ、まぁね」


 アスカの剣幕を鼻で笑って一蹴する。


「ま、流石とでも言っておきましょうか、フレイリアの庭師君。よく来てくれたわ」


 晴れた日の空を思わせる青い瞳も、美しいプラチナブロンドの髪も、彼女を取り巻く全てが今までの可憐な印象から一転して、圧の強い不遜の色を纏っていた。






 端的に言うと、試されていた、という話だった。

 清楚なドレスを脱いだ女が、不貞不貞しい口調で語る。


「騙したことは悪かったけど、こっちにだって事情ってもんがあんのよ。それこそ得体の知れない男共に協力を仰ぐなんてあたしだって抵抗があるわけ。ちょっとくらい試させてもらってもバチ当たんないでしょ?」


 悪かった――と言いつつも、絶対罪悪感など微塵も抱いていないのだと、誰が聞いても分かる強気な佇まい。


「協力って……あのフレイリアの黒い柱に関係あることですか」

「そ。あたしはあれが現れた当時、ラストスに……この隧道トンネルじゃなくて、陸地のラストスにいたの。魔力障壁、つまり紅君の言うところの黒い柱は、ラストスの沿岸からでもよく見えたわ。でも、当然ながら状況が全く分からなかった」

「そういえば食事の時におれ、あなたに柱のこと聞かれましたね」


 食事の席でカレン、もといシスティナと会話を交わす中で、どうやら外が騒がしい気がするという彼女の言葉があった。それに対し、紅はフレイリアで起こったことを知っている限りで説明したのだ。


「情報提供、ありがとね」


 いたずらっぽく笑うシスティナに、どことなくだまし討ちにあったようなもやっとした心地を覚えた。


「ま、聞かなくても大体分かってたんだけど。ただ、あの障壁が城全体を覆ってるって聞いた時は流石に気が遠くなったわ」

「……お前は、フレイリアの関係者なのか」


 アスカが問う。

 探るように厳しい目を向ける彼を、システィナは冷めた瞳で一瞥した。


「……身内が、城の中にいるって言えばいいかしら」

「!」


 驚いたのは紅で、まさかと思いシスティナに詰め寄った。


「もしかして、システィナさんの家族も……まだあの、城に?」


 ――あの柱の中に、とは言えなかった。

 それを察してシスティナは「そうよ」と肯定する。


「紅君も言っていたわね。あたしも、君と同じ立場なの」


 息を呑む。システィナに冗談を言っている様子はなく、嘘ではないと思った。


「あの障壁の出現後、城下のラスティアード支部に連絡を取ったけど、身内があの城に取り残されているのは間違いないわ。その際、念のためと思って城の侍女にあんたを呼び寄せるように言ったんだけど、正解だったみたい」

「俺を、知っているのか」

「……こちとら、色々と伝手つてがあってね。あんたのことも、あんたがくだんの日に王都にいなかったことも全部知っていてよ、庭師君?」


 怪訝に顔を顰めるアスカに、システィナは不敵に笑って見せた。


「あの障壁、なんとかしたいって思ってるんでしょう。つまり目的は一緒。じゃあ仲良く協力しましょ?」





 システィナが二人を一つの小部屋へ招く。地下の、しかもこんな海中の隧道トンネルの中に一体いくつ部屋があるのか。この隧道トンネル自体、船を造る技術が無かった時代のものだとアスカは言っていたが、地下を掘る技術もとんでもないと紅は感心した。


「じゃ。さっそく行きましょうか」


 小部屋に入る。奥には更に扉があった。


「あんた達はここまで歩いて来たけれど、あたしはそんな非効率的なことはしないわ。置いて行かれたくなかったらちゃんと付いてきてよ」


 先導するシスティナが奥の扉を開けると、そこには照明の無い暗闇が広がっていた。小部屋から漏れる明かりでかろうじて中の様子は窺えるが、混凝土コンクリートで固められた地面と壁以外は何も無い。

 ――と思ったのは、紅だけであった。


「何なんだこの異様な魔力は」


 不快そうに顔を歪めて、アスカが呻いた。


「あの黒い魔力障壁ほどじゃないし、我慢してよ。ここは魔力の溜まり場スポットなの。フレイリアで言うと、アルステトラスとか、エンテージ近くにある森とかと同じね」

「迷いの森!」


 知っている場所を例えに出されれば分かりやすい。

 しかしここにきて紅はようやく理解した。どうやら自分には魔力を感じ取る力が欠けているようだった。だから柱が出現した日、苦しむ村の人たちを余所に自分だけがなんともなかったし、王都に近づいてもアスカの言う魔力の濃さという意味が分からなかった。

 これはきっと、魔力がないという自身の体質のせいなのだろう。が、しかし。


(じゃあ、それならなんで、迷いの森の中だけ――)


 ひとり首を傾げている紅を余所に、システィナは話を進めた。


「そしてこの魔力を利用しつつ、古代の英知を駆使して完成させたのが、これ!」


 システィナが小気味よい音を立てて指を鳴らすと、薄暗い部屋の中で床が途端に青白い光に染まった。

 突然の光に、眩しくて生理的に目を瞑ってしまった。

 少しずつ光を取り入れるように、恐る恐る瞼を上げていく、と――。


「……絵?」


 その紅の呟きに、システィナはふふと笑みを零した。


「そう、絵ね」


 床には一面、青白い光を帯びた絵――のようなものが浮かび上がっていた。図形なのか、言葉なのか、幾何学的な文様で紅には理解が出来ない。


「これは魔力を物理現象に変換する魔術式を簡略化、且つ可視化したものよ。そうね、魔法陣、とでも呼べばいいかしら」

「……いや、逆だな。術式を簡略化したのではなく、これを煩雑化したものが現代の術式。つまり、これは今では使われなくなった古代魔法の一種だな」

「ご名答。よく知ってるわね、庭師君」


 風が吹くはずのない海底隧道すいどうの中で、魔法陣を中心に気流の流れが発生している。

 爽やかな、初夏の風のようだった。


「その昔、まだ術式なんていう技術が存在していない太古の時代、創世の英雄が大地の精霊と契約を結び、精霊の持つ魔力を魔法陣によって使役したっていう古代史があるでしょ。まあ、つまりこれはそういうことね」

「術式を物理的な絵と文字で表現しているのか……魔力器具が普及してる今となっては古代魔法が廃れた理由がよく分かるな」

「いちいち書くの、めちゃくちゃ面倒なのよねぇ。時間もかかるし」


 無駄話はここまでにしてそろそろ行きましょう、と。

 くい、とシスティナが魔法陣の中心を指さした。同時に、逆の手で紅の肩を抱く。


「い、行くって?」

「当然、海の向こう岸、よ!」


 言って、システィナは唐突に紅の胸ぐらを掴み、そのまま力任せに魔法陣の中へと彼の身体を放り投げた。


「――っ!?」


 完全に油断していた紅は抵抗すら叶わず、思い切り体勢を崩したまま陣の中央へと倒れ――込む前に、姿が消えた。


「……なんだ?」


 一瞬の出来事に、アスカが驚いて目を丸くした。


「いわゆる《転移》よ。超高濃度魔力は時空を歪める作用があるの。だから、この魔法陣を使って一時的に場の魔力を強めて、こことは別の場所へ通じる空間を作り出しているってわけ。ここが溜まり場スポットだから出来る芸当ね」

「紅は何処へ?」

「本大陸。ラストスにある港町の裏手にある雑木林に彼は飛ばされたはずよ」


 近場に限り、転移先の位置はある程度調整出来るのだとシスティナは語った。


「……最初からそう説明しておけよ」

「経験すれば説明なんて必要ないでしょ。そもそもあの子、頭で理解するより身体で覚えるタイプだと思うのよね」

「無茶苦茶な女だな……」

「あら、褒めてる? 普通とか無難とか、嫌いなのよねぇ」


 呆れた様子で、しかし状況を理解したアスカは躊躇無く魔法陣へ足を踏み入れた。


「お前も来るんだよな」

「……当然でしょ。まだ何か疑ってんの?」


 システィナが溜め息をつく。


「安心して。あたし、後味悪いの嫌いなの」

「……そうか」


 そして、紅の後を追うようにアスカの姿も消えた。

 それらを見届けて、システィナぽつりと、しかしどこか楽しげに呟いた。


「ほっんと……相も変わらず、可愛げのない男だこと」

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