§2 宵に飛ぶ鳥

8

 遥か遠方。大海を隔てた先の島国を臨みながら、少年は悔しげに舌打ちをした。


「魔力障壁……」  


 唐突に出現した、天を穿つ漆黒の柱を仰ぐ。


「出し抜かれたのか」


 遺憾の念が込められた呟きは潮騒に紛れて霧散する。

 絶え間なく吹く海風が焦る心を煽るように、少年の銀髪を絶え間なく掻き乱した。











 その日の夜は、村人たちと共に過ごした。

 普段はちょっとした集会に使われている広い平屋の中で、皆が不安を抱えながら寄り添い合った。


「ねぇ、くれない君。ガルゼさんの姿が見えないけど……」


 出入り口の傍に座っていた紅に一人の女性が声をかけた。イクセルの母親だった。家が隣り合っている為、紅が叔母と共にこの村に来た時からよく世話になっている。


「今朝、王都へ向かって……」


 取り繕う言葉が見つからず素直に事実を告げる。

 え、と声を漏らした女性の顔色が青ざめた。不安の種を増やしてしまっただろうか。上手くごまかせればよかったのに、と。沈んだ心が更に落ちていく感覚を覚えた。

 突如、王都の方角に出現した黒い柱は、空が闇夜に包まれて尚、その存在を色濃く主張していた。

 夜の闇は純粋な黒色ではなかったのだと、こんな形で知ることになるなんて。

 そんなことを考えながら、ぼんやりとカーテンの隙間から外を眺めていた。

 一体、この国に何が起こったというのか。


「気分が悪い……」


 一人の老人が苦しげに呻いた。起きているのが辛いといった様子で、力無く床に身体を横たえる。


「この魔力の中だ、仕方ない」


 側にいた青年が労るように老人の背を撫でる。


「まるで迷いの森の中のようだ」

「気を抜いたら頭がおかしくなってしまう」

「どうしてこんなことに……」


 堰を切ったように、不安を吐露する声があちこちから上がる。


(魔力……?)


 何のことだと不思議に思っていたら、ふらふらとした足取りでイクセルが歩み寄ってきた。


「イクセル、どうした?」

「頭……痛いよぉ……」

「っ!?」


 どさり、と。倒れ込んできた小さな身体を紅は慌てて受け止めた。


「うぅ……」


 安定するように膝の上で抱え込むと、支えを得て安心したのかイクセルの身体から力が抜けたのが分かった。


「ごめんなさい、紅君……」


 そう声をかける子どもの母親もまた、顔色が酷く悪かった。

 一体、何なんだ――。


(おれは、何ともない)


 周りの人々が苦しみを訴える中でただ一人、状況が理解できていない己の存在がぽっかりと浮いていた。

 魔力――という言葉を誰かが言った。

 迷いの森の中のようだという例えに、そういえばと思い当たった。

 村人が訴える症状はどことなく、程度の差はあれど、先日紅が森の中で陥った症状に似ている気がする。

 腕の中の子どもはいつの間にか意識を手放していた。一瞬ヒヤリとするも、幸いにすやすやと寝息を立てている。よかったと思った。これで彼は苦しみから逃げられるだろう。


「おばさん、大丈夫かな……」


 異様な事態の中で、ただ一人の家族の姿がない。

 際限ない不安に押し潰されそうになりながら、その日は眠れない夜を過ごした。






 夜明けと共に、整った軍服のような衣服を纏った一人の壮年の男が村へ訪れた。

 その出で立ちには見覚えがある。エンテージに常駐している、本国ラストスから来ている公人だ。不自然なほど伸ばされた背筋と、温和とは対極にあるような愛想のない面持ちに近寄りがたさが感じられる。


「いっ、一体何が起こっているんですか!?」


 村人の一人が、男へと駆け寄った。

 男が鬱陶しそうに舌打ちをする。そして、駆け寄ってきた村人が伸ばした手を粗雑に払いのけた。


「な、何を!?」

「喚くな、騒々しい虫ケラが」


 心底面倒だと言いたげな粗暴な態度で、男は村人を冷徹に睨み付けた。


「今からこの村を含め周囲一帯は我が帝国、ラストスの監視下に置かれる。怪しい挙動が見受けられた際には問答無用で拘束する。刃向かう者は容赦しない。痛い思いをしたくなかったら大人しくしているんだな!」


 辺りに響き渡らせるように、男が高らかに声を上げた。

 どういうことだ、と、再び村人が公人へ掴みかかろうとしたところで、紅が慌てて止めた。

 男の高圧的な態度には当然紅も不快感を覚えたが、今、感情に任せて手を出すのは悪手のような気がした。

 落ち着いて、と村人を宥める。冷静さを取り戻した村人は、クソ、と悔しげに吐き捨てた。下ろした拳は、未だ力強く握られている。彼の気持ちはよく分かった。


「……せめて、事情を教えてもらえませんか?」


 恐る恐る問うと、公人の冷たい目が今度は紅を睨み付けた。


「説明の義務も必要性もない」

「……っ!」


 必要性が無いわけがない。

 只でさえ、一晩得体の知れない不安と不調に見舞われて村全体が疲弊している。そんな状態で、更に本国ラストスから理由の知れない圧力を受けるという話をされているのだ。


「どうして! 何が起こっているのかさっぱり分からないのに、いきなり監視下になんて言われても納得できない!」

「……子どもとはいえ、無駄口は反抗とみなすぞ」

「そんな……」


 取り付く島がまるでなかった。少なくとも村には何も非はないはずなのに、どうしてこんな事態になってしまっているのか。


「許可のない外出は禁止とする! 全員ただちに家へと戻れ! 外をうろついている者は不審者と見なし、見つけ次第拘束する!」


 酷い話だったが、これ以上の抵抗は村全体の立場を悪化させる可能性があった。

 文句を言いたい気持ちをぐっと飲み込んで、家へと踵を返す。

 端から見れば公人の言葉を聞き分けたかのように思えただろう。が、扉を閉めて外からの視線を遮ると、紅はすかさず愛用の長剣を手に取った。鞄と一体になっている革製のベルトに帯剣すると、カーテンの隙間からそっと公人の様子を窺う。

 やたらと偉そうな態度をとっているとはいえ、男は一人だ。村は小さくて狭いが、壁や塀に囲まれているわけでもない。見える範囲ではあるが、周囲に兵が配備されているという様子もない。つまり、男の目を盗んで村を抜けることはいくらでも出来るのだ。

 家族の安否が不明の中で、大人しくじっとしてなんていられなかった。

 半ば衝動的に、紅は勝手口からそっと人目ひとめを盗んで、外へと駆け出した。

 軽率な行動をしているという自覚はあった。先程村人に落ち着けと諭していた自分は何だったのかと自嘲する。

 ふと、家屋の窓からそっと外をのぞき見ているイクセルと目が合った。

 紅を見た彼が、驚いて大きい目を更にまん丸にしているのは当然のことで、紅は慌て身振り手振りで「静かに」と伝えようと試みる。

 それがどう伝わったのか定かではないが、イクセルはどこか決意を固めたような表情を浮かべて両手の拳を頭上へ掲げた。


(やばい……イクセルが何を言っているのかさっぱり分からない)


 とはいえ、今はこれ以上もたついている時間はない。

 意図は不明のまま、紅もイクセルに倣って彼へと拳を掲げる。

 いずれ紅の不在に気付くであろう村人達に、イクセルは何と言うのだろうか。

 何となく、次に村へと帰ってくるときが怖いなと思った。






 村の裏手はちょっとした藪になっていた。元は畑だったが、村の高齢化と共に長らく手入れがされないまま今では草木の群生地と化している。

 この藪の中を少し遠回りすれば、身を隠したまま迷いの森の近くまで行くことが出来る。


 このまま一体、何処へ行こうとしているのか――。


 憎らしいほど晴れ渡った空に、漆黒の縦線が一筋。距離感に自信はなかったが、王都がある方角に間違いない。

 あの、黒い柱を目指すべきなのだろうか。

 いや、と頭を振る。その前に港町エンテージだ。叔母はまず、馬車を手配するべく港町に立ち寄ったはずだ。そこで何らかのトラブルが起こり手続きが滞っていたら、もしかしたらまだその場にいる可能性もある。

 叔母が村を立って数日が経過している今、極めて低い確率だと分かってはいるが。

 街道まで出れば一本道だが、それではひとについてしまう。マルタ村以外の場所の状況を知らないが、きっと、そこら中にラストスの兵が配備されていると推測される。

 ならば、森の中を経由して――と考えて、否定するようにかぶりを振った。

 流石に、再び一人であの森に入るのは腰が引けた。

 万が一また倒れてしまったら今度こそ命がないような気がした。この間はたまたま見つけて貰えたから――と考えながら、しかし誰かに見つかるのも不味いと一先ず木々の影に身体を隠す。

 そこで、紅ははっと目を見張った。

 前方の岩陰に、座り込む一人の少女の人影に気付く。


「あっ……」


 驚いて声を漏らすと、少女も紅の存在に気付き、視線が合った。

 こうなると無視するわけにもいかず、紅はおそるおそる少女へと歩み寄った。

 何故、彼女が――という戸惑いと、不安の中で知っている人物に会えた安堵が混沌と入り交じる。知っているとはいえ友人でも何でも無く、あの青銀髪の少女とは、ただ森の中で知り合ったばかりの赤の他人という間柄に過ぎないのは分かっているが。


「こんにちは」


 紅の姿を認めると、少女は特に驚くという様子もなく淡々とした態度で会釈した。

 深紅の瞳には相変わらず感情の色がなく、困惑しながら紅が問う。


「なんでまたこんなところに――」


 言いかけて、思い出す。

 そういえば、彼女の父――ティアも昨日の今朝、王都へと向かったはずだ。


「……丁度良かった。教えて貰っていいですか」


 口籠もった紅に次ぐように、少女が紅に尋ねた。


「アルステトラスって、ここからどう行けばいいんでしょうか」

「……え?」


 岩場から腰を上げて、少女は手に持っていた一枚の紙を差し出した。

 地図だ。一般的に普及している、フレイリア全体が示されている地図。


「そもそも、ここがどこなのかも分からなくて」

「えぇ!?」


 何事かと地図を受け取り、一緒に覗き見る。


「……えっと、今はこの辺り、かな。ここが迷いの森で、南端の……。で、アルステトラスは……王都は逆側の北にあるんだけど」

「つまり、北に歩いて行けばいい?」

「あ、歩きっ!? いや、それはちょっと……?」


 否定する紅に、少女は不思議そうに小首を傾げた。


「遠い? 距離が全然分からない」

「……ここから歩いて行くのは、ちょっと……」


 なんせ、馬車を走らせて三日かかるのだ。屈強な足腰を持った旅人であればいざ知らず、小柄で痩せっぽちの少女が挑戦するには流石に無理がある。

 そう、と。一言呟いて、少女は考え込むように手元に戻った地図をじっと見た。


「……仕方ないか。北ってどっちです?」


 こっち? と少女が指さす方角は真逆で、紅はぶんぶんと首を振った。


「あれ?」

「……地図がね、逆なんだよね。ひっくり返してみて……」

「そっか。あ、というか、あれを目指していけば着くのかな」


 不意に少女が視線を上げる。その先には、遠くにそびえる黒い柱。


「……もしかして、歩いて王都へ行くの?」


 ぎょっとする紅を余所に、少女は涼しい顔色で肯定した。


「うん」

「やっぱり、ティアさんが王都にいるから……だよね」


 無言で、少女が頷いた。


「えっと、まずエンテージに向かった方がいい気がするんだけど」

「エンテージ……?」

「フレイリアの港町でここからすぐの、地図上だと……」


 ここ、と指で示す。


「もしかして、土地勘無い?」

「森の周りしか分からない」


 そういえば、彼女は森からは出ないのだとティアが言っていたのを思い出す。

 しかし土地勘が無いどころか地図も禄に読めていない様子から察するに、いわゆる、方向音痴、というやつだろうか。

 何にしろ、このまま彼女一人で向かわせるには、あまりにも――。


「……そういえば、紅君はなんでこんなところに?」


 考えていたところで問われ、びくりと肩を揺らした。


「えっと、いや、あれ、何でおれの名前……」

「父さんがそう呼んでいたから」

「あ、そっか」


 些細なことだが、彼女の記憶に残っていたことに嬉しさを感じた。


「……えっと、おれは……」


 ――おれ、も?


 あの黒い柱を、目指すべきなのかと思った。

 ただそれは思っただけで、ちゃんと、行くと決めたわけではない。

 叔母が心配なのは本心だ。それ故に衝動的に村を飛び出した。

 しかし、あの得体の知れない黒柱の元へ行くには、もう少し覚悟が必要な気持ちもあった。

 そもそも、自分のような子どもが行ってどうなるというのか。


 冷静に考えれば、一度、村へ引き返したほうがいいのだろう――けれど。


「みーちゃん、あの」


 ティアが呼んでいた少女の名を思い出して、いやこれ名前じゃなくて愛称だなと心の中で突っ込みを入れながら、覚悟を決めて言った。


「おれも丁度、王都へ行こうとしていたところで」


 今、そう決めた。

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