7

「俺は君にお礼をしたかったはずなんだけどなぁ」


 そう言いながら、ティアは目の前の食卓に向かって両手を合わせた。


「助けてもらいましたし、一晩泊めてもらいましたし、十分過ぎると思います」

「いや、だって。よく考えたら本のことも記章のことも本来なら俺がマルタ村まで出向くべきだった気がするのに……こんな辺鄙な場所まで来てもらって申し訳ないし、ましてやこんな施しを受けるなんて……」


 黄金色のスープの匂いが朝の空腹の胃をくすぐるように刺激する。器に盛られたばかりのそれは人の体温以上に暖かい。

 スプーンで掬い、口へと運ぶと、ティアはしみじみとした様子で溜め息をついた。


「……誰かが作った食事なんていつぶりだろう。とても美味しい」

「……あの、お節介じゃなければいいんですけど……つい吃驚しちゃって」


 ――今朝方のことである。


 微かな木漏れ日がカーテンの隙間から差して、朝を迎えたことを知った。

 慣れない環境故に眠りは浅かった。気怠い身体を寝椅子ソファから起こすと、扉越しに人の気配があるのを感じた。

 軽く身なりを整えて居間リビングへ行くと、台所キッチンに向かって真剣に悩んでいる様子のティアが立っていた。


「あ、くれない君。おはよう。寝起きで申し訳ないんだけど、これってこのまま食べていいものなのか分かる?」

「……え?」


 唐突な問いかけに困惑しつつも、ティアの手に何かが乗っていることに気付く。

 大きめの球根に似たそれは、エンテージの露店街に行けば大抵の店で売っている食材の一種だ。


「……えっと、丸かじり出来るかという意味ならやめた方がいいと思います。刺激が強い作物なので」

「うわぁ、聞いて良かった。昨日職場の人から貰ったんだけどね、料理なんて全くしないからさっぱり分からないんだ」


 調理前の食材なんて見る機会がないとティアがぼやく。まるで叔母みたいなことを言うなと思った。


「えっと、食べられなくはない……ですけど、火を通すのが一般的かなと思いますね。生なら薄く切って……」

「……ごめん、ついでで申し訳ないんだけど、他にも色々あって」


 ティアが中身の詰まった袋を紅に差し出す。腕で抱えられる程の大きさの、よくある麻袋だ。

 そういえば彼とエンテージで会った時にも同じものを抱えていたのを思い出した。覗き込むと、どことなく既視感を覚える。彼の職場と言うからには受け取ったのはラストスでの事なのだろうが、海を隔てた本大陸でもフレイリアのように長雨でも続いていたのだろうか。

 港町の露天商に在庫処分で貰った、痛みかけの果実の存在を思い出した。

 それと同様、麻袋の中身はみんな食べ頃迎えている――もしくは熟し過ぎた――食材だったのだ。


「こういうの、よく貰うんだけどね。この家、料理する人がいないからさ。どうしていいか分からなくていつもは同僚の友人に押しつけちゃうんだ」


 なんて勿体ない、と。れた野菜達に哀れみを覚える。


「これはたまたま引き取り手がいなくてつい家まで抱えてきちゃったんだけど。このままだと腐らせるだけだし、紅君、もしよかったら持って帰らない?」


 なるほどと思いながら、改めて台所キッチンを見遣った。掃除は行き届いているようで埃が被っているわけではないが、逆に綺麗すぎる。ほとんど使われた形跡がないのだ。

 何故か最低限の調理器具は揃っているのでもしかしたら料理を試みたことがあるのかもしれない。しかし断念して今に至っているのだろうと察する。

 そんな勝手なことを想像しながら、食材を手に取って紅が訪ねた。


「少し、台所キッチン借りてもいいですか?」






 *






 森の中は相変わらず薄暗いが、初めて足を踏み入れた時よりは明るく感じる。気分的なものかと思ったが、そうでもないらしい。昨日は昼間でも灯火ランプともさないと視界が確保出来なかったが、今は木漏れ日の光で十分なのだ。

 昨日も今日も同じように晴れて陽が出ていたはずなのに、つくづく不思議な場所だ。


「一応ね、ちゃんとした道はあるんだよ」


 先導して歩いているティアが、おもむろに上を指差した。つられて視線を動かす。


「紐……?」


 長身のティアが腕を伸ばしてどうにか届くか、という高さの枝の根元に太くて赤い紐が結われている。よく見れば前方にある木にも同じものが確認できた。薄暗さでよく分からないが、この先も等間隔で結われているようだった。


「魔物除けの加護がある紐だよ。周辺の魔力も薄くなるから体調も悪くなりにくい。あれを目印に辿っていけば安全且つ最短距離で森を抜けることが出来るんだよ。やり方がだいぶ原始的だけど」


 正式な道のりルートは存在するだろうとは思っていたが、こんな印があったのか。


「言われるまで全然気付きませんでした」

「足場も視界も悪いからね、こんな場所で上を見て歩く人はいないんじゃないかな」

「知らないと見つけられないと思います……」

「簡単に侵入されるのも問題だし、それはそれで悪くないね。でも入り口の場所さえ覚えれば今度からは迷わず来れるよ」


 それは確かにと思いつつ出来ることならあまり来たくないな、とは口に出せず、紅は乾いた笑いを漏らした。


「でもすみません、わざわざ送って貰ってしまって」

「俺もちょうど王都に向かうところだから丁度いいよ。マルタ村とは逆方面だから、入り口までになるけど」

「街道にさえ出ればあとは知ってる道なので。ティアさんは仕事ですか?」

「うん、いや、どうなんだろう。……多分、そうかな」


 返ってきた返事は歯切れが悪かった。


「……いや、今朝方急に相談したいことがあるっていう知らせが届いてさ。フレイリアの王とは個人的に親しくさせてもらってるしこういうのは初めてではないんだけど。ただ何の前触れもないのは珍しいから、なんだろうなって」

「お、王様と知り合いなんですか……」

「まあ、職業柄、ね。ラストスとフレイリアは繋がりが深いし」


 ぎょっとする紅に、大したことではないという風にティアが笑った。


「本当はこの間紅君と会った時、エンテージからそのまま王都に行くつもりだったんだけど、予定外の大荷物だったからさ。でも、一度帰って正解だったね」


 ティアが、紅が抱えている荷を見た。


「押しつけがましかったらごめんね。でも、残っても俺じゃ腐らせてしまうから」

「いえ、助かります。すみません色々と……」

「朝食まで作ってもらったからね。お礼になってれば嬉しいよ」


 ティアが職場から貰ってきたという食物は、今朝の朝食として消化されたもの以外はそっくりそのまま紅の腕の中にあった。軽い食事を作っただけでは使い切れず、残りを全て引き取ることになったのだ。届け物が目的だったはずなのに、行きよりも荷物が増えているのは想定外だ。

 料理はしないから、という理由で半ば強引に押しつけられた麻袋を抱えながら不思議に思ったことを尋ねる。


「ラストスで働いているのに、どうして家はフレイリアに?」


 ティアの、肩口でゆるく結われている長い栗毛の髪の色はフレイリアでは珍しくない。彼自身はフレイリアの出身なのかもしれないが、職場との間をいちいち海を渡って行き来するのは手間のように思えた。


「……そうだね、正確に言えばこの森にある小屋は別荘みたいなものなんだ。普段はラストスにいることが多いよ。寮もあるからね」

「じゃあ何でわざわざ……あ、そうか」


 何故海を越えた異大陸に別宅なんて――と思って、あの小屋はティアだけの家ではなかったことを思い出す。


「まあ、あんな場所で女の子を一人きりにさせているのもどうかと思うしね。一応、時間が出来たときはなるべく帰ってくるように心がけてるけど。でも、彼女は森の外には出ないからそこまで心配する必要はないんだよね」

「……」


 昨晩、お願い――もとい、口止めに紅を訪ねた少女を思い出す。

 その森の外で会っているんだよなぁ、とぼんやり思いつつ約束もあるので口には出さず、そうなんですか、と当たり障りのない返事をした。

 今朝、朝食を取る二人の前に少女が姿を現すことはなかった。ティアは「人見知りだから気にしないで」と苦笑いをしていた。


 人見知り――果たしてそうなのだろうか。


 少女の赤い瞳はまっすぐ紅を見ていた。その怜悧な視線は確かに人懐こさとは対極にあるものだったが、人見知りのそれとは少し違うように感じた。

 彼女の希薄な感情の中に敵意のようなものは無かったと思うのだ――が。


(――もしかしたら、あまり快く思われていないのだろうか)


 嫌われるようなことをした覚えはない、けれど。しかし。


「あ、もうそろそろ外に出るよ」


 確証の無い漠然とした思い込みで勝手に不安になっている紅を余所に、ティアが明るい声色で前方を指差した。

 木々の隙間から、一際眩しい光が差し込んでいるのが見える。


「……」


 霞がかった思考を振り払うように、ゆるゆるとかぶりを振った。

 考えても紅の中に答えはない。もし、また、会えることがあったなら、その時に聞いてみればいい。

 差し込む光から目を背けて、紅は来た道を――森の奥を顧みた。

 近いのに、とても遠い場所だと思った。






 *






 森を抜けた先にある街道から、マルタ村までは目と鼻の先だ。

 馴染みのある道を辿り真っ直ぐ自宅に戻ると、朝に弱いはずの叔母が珍しく身支度を調えた状態で起きていた。


「朝帰りか。そんな不良に育てた覚えはないぞ」


 もしや帰ってこない自分を心配して夜通し起きていたのかと思ったが、どうやらそんな様子でもない。


「……よく言うよ、おれがどこに行ってたか知ってるくせに。大変だったんだから」

「その様子だと無事に届けられたな。よかった。よくよく思い返せば歴史的に貴重な書物だったもんでな。お前に預けたのは軽率だったかと心配していたんだ」

「本よりおれの心配をして欲しかった……」


 溜め息をつく紅を、叔母が怪訝そうに見た。


「心配? 何のだ。道にでも迷ったのか?」

「迷ったよ。めちゃくちゃ迷ったけど、でもそれ以前の問題だよ。あの森がどういう場所で、慣れない人間が入ったらどうなるか、おばさんは知ってたんでしょ? ならせめて事前に教えてくれたってよかったじゃないか」


 つい、溜め込んでいた不満を吐露する。過ぎたことを言っても仕方ないが、この程度の苦言は許して欲しい。現実、酷い目に遭ったのは確かなのだから。


「……何を言っている?」


 しかし紅の思いも空しく、叔母は不思議そうに小首を傾げた。何故か、訴えの本意が伝わっていない様子だった。


「お前なら、あの森なんて……いや、こんな無駄話をしてる場合ではなかった」


 いそいそと、叔母が外套ケープを羽織った。


「……出かけるの?」


 身支度を整えていたのはそのためだったようだ。


「ああ、忘れ物をしたのを思い出したんだ」

「忘れ物って……もしかして王都に?」

「そう。商売道具の水晶を置いてきてしまった」

「また? それ、これで何度目?」

「聞くな。あまりにも食事が舌に合わなくて早く帰りたかったんだ」


 数日は戻らないと言い残して、叔母は忙しなく出て行った。

 王都までは港町から馬車を走らせる。手配が滞らず、天候の乱れがなければ三日後の今頃には着くはずだ。


「忘れ物か……」


 自分で取りに行くだけ偉いなと思うのは常々雑用を押しつけられ続けているせいだろうか。

 人使いの荒い叔母だが、仕事が絡む時だけは自身の足で動く。忘れ物は占術師である彼女が愛用している水晶だと言うが、紅にはただの透明な石にしか見えない。どうやら魔力器具の一種で大層高価な物らしいと聞いている。

 それ故に、自分以外の手に委ねることが出来ないのだ。叔母もきっと、本心は他人に押しつけたいと思っていることだろう。

 忘れたのは彼女自身のせいなので自業自得だ。


 また数日間は一人きりか――と。


 抱えていた麻袋をテーブルの上にどさりと置いた。

 一人でいることには慣れているが、久しぶりに人と食事をとったばかりなせいか、普段以上に寂しさを覚えた。

 イクセルに声をかけようかとも思ったが、まずは今日までに仕入れた痛みかけの野菜や果物をどうにかしてしまいたい。


 そうこうしている間に時間は過ぎ、日が落ちかけて空が赤く染まる。


 そんな日常を何日か送った後、その《異変》は、突然、空を覆った。


 その日もよく晴れていた。日差しを遮る雲さえ見当たらない、快晴の空だった。

 そのはずなのに。

 日が陰った、という表現では足りないほど、真っ黒な塗料をぶちまけたような暗闇が空を、否、セカイ全体を前触れも無く覆い尽くした。


 それはほんの数秒。


 え、と不思議に思う間に、闇はたちまち跡形も無く霧散した。

 あまりにも短い一瞬の出来事だったので気のせいか、もしかしたら意識を失いかけて視界が暗転したのか、とも思ったが、ざわざわと困惑でどよめく周囲の村人たちの声を聞いてその《異変》が現実であることを知る。


「あれ、何だ!?」


 子供の大声が響き渡った。イクセルの声だった。

 民家の二階の窓から身を乗り出しながら、イクセルが興奮して空の彼方を指さす。


「あれはっ……」


 思わず息を呑んで、絶句する。

 まるで先ほど空を覆った闇を一カ所に凝縮させたような真っ黒い柱が、遙か北の空、天を突き抜けるようにそびえ立っていた。

 村の近くではない。

 港町よりももっと先、しかし距離感が分からないというほど遠くでもない。


「もしかして、王都……!?」


 鮮やかな青の空が、黒い線によって鉛直に分断されているような、異質な光景。

 それを眺めながら、紅は呆然と立ち尽くした。

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