5

 それは夢だった。

 何故、夢だと分かるのか。それは、昔からよく見ているからだ。

 静寂に満ちた、一面に広がる白とも黒とも認識できない空間の中で、己の意識だけがぽっかりと浮いている。

 ただ、それだけ。

 それだけの意味のない夢を、幼い頃からよく見続けている。

 それを叔母に話すと、それがどうした、といつもあしらわれた。

 どうした、と言われても、さぁ、としか答えられなかった。自分でも意味が分からないのだから。

 分からないけれど特に不快に思う理由もないので、この夢が一体何なのか、深く考えたことはなかった。

 ただ受け入れて、じっと、目が覚める時を待つ。

 いつもそうしていた。だから今回も、そのつもりだった。けれど。


 ――?


 何かが、違う。そう感じた。


 ――だれ?


 声が聞こえたような気がした。


 声、と断定するには不明瞭な、しかし決して無機質ではない何者かの声のような、そんな音を聞いたような気がした。


 ――だれ?


 問いかけようにも、適わない。

 そこには意識しか存在せず、自身の声を出すことは適わない。

 この聞こえてくる声――のようなもの――は一体何なのか。

 思い通りにならない不自由の海の中で、懸命に正体を探ろうとした。

 しかし、それが適わないまま、覚醒の時間を迎えたようだった。

 そう悟った刹那、《虚無のセカイ》は閉ざされた。











 ぼんやりとした酩酊感の中で最初に見たものは、小さな灯火ランプ

 天井に吊された小瓶越しに、魔力で灯ったであろう小さな光がぼうっと浮かんでいた。

 次に本棚。

 薄暗い小部屋の壁の一面を埋め尽くすかのように本が敷き詰められている。

 視覚に次いで嗅覚が働く。少し、埃っぽい。

 ようやく頭が働いて、くれないは慌てて上体を起こした。


「……え?」


 落ち着けと、混乱する気持ちを制して己の状態を確認する。

 今ほど横たわっていたのは寝台ベッド、とは言い難い、こぢんまりとした寝椅子ソファ

 身体には薄い、しかし柔らかで肌触りのよい毛布が掛けられていた。

 着衣に乱れはないが、森の中で倒れたせいか乾いた泥がついていた。


 ――そう、倒れたのだ。


 ここは何処なのだろうか。

 灯火ランプのほのかな光だけが頼りの、静かな部屋。

 よくよく見てみれば、本棚だけでなく床にも棚に入りきらなかったであろう書物が幾重にも積み重ねられていた。まるで本の絨毯のようで、足の踏み場に困る。

 書庫か何かに使われている部屋なのだろうか。

 手を伸ばして、閉められたカーテンをそっとめくる。

 窓の外はやはり暗い。灯火ランプの光が漏れて、うっそうとした木々の様子が確認できた。


「森……?」


 まさか――と思うと、同時。


「あ、起きてる?」

「ぎゃあ!」


 ノックもなく部屋のドアが開かれ、紅は驚いて声を上げた。


「あ、ごめんね。驚かせてしまった」


 扉の前には、一人の男が立っていた。


「あ、あなたは……」


 跳ね上がった心臓を落ち着かせるように深呼吸しながら、まじまじと男を凝視する。


「確か、エンテージで」

「うん。また会ったね」


 穏やかな声色。にこりと男が微笑んだ。

 昨日、港町エンテージで会ったばかりの人物だった。男が落とした紙切れを紅が拾っただけの、ほんの短い間の邂逅だったが。

 何故彼が、と戸惑う紅の心中を察して、男が話し出す。


「ここは俺の家。怪しくもなんともないただの小屋だから安心していいよ」

「家……? じゃあ」


 森。その中に建つ家。やはりここは――。


「この森は特別強い魔力の力場でね。慣れない人が入るとちょっと大変なことになってしまうんだ。意識障害はよくある症状だね」


 君みたいに、と付け足す。


「慣れちゃえばどうってことないんだけどね。まあ、命や健康に支障はないよ」

「す、すみません……」


 萎縮して、紅が頭を下げた。


「あ、いや、君が悪いわけじゃない。こんな所だから人なんて滅多に見かけないんだけど、迷い込んできた野盗がたまに落ちてたりするんだよね。だからまたかって思ったんだけど、よく見たら君だったから驚いたんだ。ガルゼに何か無茶を言われて無理矢理使いに来させられたんでしょう?」

「はい、あの、そう……って、あれ?」


 ガルゼとは叔母の名だ。

 何故そのことを――と紅が言う前に、男が口を開く。


「実は、君のことは知っているんだ。知ってるというか、一方的に見かけたことがあるだけだけど。マルタの村にはあまり行く機会はないけど、エンテージやこの森の近くはよく通るしね。ガルゼから話も聞いてる。彼女の世話をしている子だよね?」

「じゃあ、あなたが!」


 エンテージで紅の顔を見た彼の妙な反応に合点がいった。


「ティア。普段はラストスで学者をやっているよ。ガルゼとは……なんだろう、友人、になるのかな。ちょっと違う気もするけど、まあ、多分似たようなものだと思う。彼女には長年世話になっているんだ」


 男が名乗る。紅は身の上に起きた状況を理解し、ようやく安堵した。

 どうやら無事に――と言っていいのかは分からないが――目的地へと辿り着けたようだ。

 ……着いた、というか、運ばれたというか。

 この広い森の中で魔物に喰われる前に見付けて貰えたのはとても幸運だった。

 魔力の力場だか何だったか――紅にはよく分からないことだったが、とにかく噂通り、迂闊に立ち寄っては危険な場所だったようだ。

 まさか叔母がこのことを知らなかったはずはないだろうと恨めしく思う。


「あ、そうだ」


 叔母の無愛想な顔を思い浮かべて、ふと当初の目的を思い出す。


「おれ、あなたに届け物があって……あれ、そういえば鞄……」

「おっと、ごめんね。居間に置いてあるよ。この部屋を出た先なんだけど立てる? それとも持ってこようか?」

「だっ、大丈夫です。起きます!」


 慌てて寝椅子ソファから飛び降りる。頭痛の余韻で軽い目眩はしたが、気にする程度でもなかった。


「足下気をつけて。散らかっててごめんね。片付けなきゃとは思ってるんだけど」

「凄い量の本ですね」


 日常生活で使う程度の簡単な文字しか読めない紅にとって、書物は縁遠いものだった。散らばっている本はどれもこれも難解そうで、いかにも学者が住む家という雰囲気だなと思った。


「職場からくすねまくってたらいつの間にかこんなに増えちゃって」

「……大丈夫なんでしょうか、それ」


 そんな会話をしながらティアの先導で部屋を出ると、一際眩しい光で視界が晴れた。

 広いとは言いがたいが、一般的な家庭の居間リビングのような空間。隅に簡素な台所キッチンが見える。薄暗くて埃っぽかった書庫とは違い、生活感がありつつも綺麗な部屋だ。階段があることから、階上にも部屋があることが窺える。

 壁際の棚の上に自分の荷が置いてあるのを見つけた。剣帯も兼ねられる、帯革ベルトと一体になっている鞄だ。側には長剣も鞘に収められて立て掛けてあった。


「あの、おばさんからの預かり物なんですけど」


 鞄の中から一冊の本を取り出す。倒れた拍子で表紙や頁が折れたりしていないか心配だったが、幸いその形跡はなかった。


「……本? ああ、それか! そういえばガルゼに貸してたんだっけ」


 紅から受け取ると、ティアは本の頁をぱらりとめくった。


「すっかり忘れてたな。貸したのなんて何年も前だよ。古代の民族の文化をまとめた本なんだけど、確か新しい占いを考えたいから資料にって言われて渡したんだよね。わざわざ紅君にここまで届けさせることないのに」


 何を考えているんだか、とティアが呆れたように呟いた。

 紅が、あ、と声を漏らす。


「えっと、それ、ついでに頼まれただけなんです。おれ、これを届けたくて」


 更に、鞄の奥を探って目的の石を取り出す。


「村からエンテージに行く途中で拾ったんですけど」

「……何?」


 手渡されたものを、ティアは訝しげに見つめた。


「ラスティアードの記章? これは……」


 怪訝に眉をひそめるティアの様子に、紅は不安を覚える。


「おばさんがあなたのだろうと言っていて。貴重なものみたいだったので……」


 しばらくの無言の後、ティアが問う。


「……村とエンテージの間で拾った、と言ったかい?」

「あ、はい」


 正確に言えば街道から森寄りに外れた場所だったが、そう大差は無いだろう。

 紅が頷くと、ティアはふと頬を緩めて、そう、と言った。


「どうやらここに帰ってくる途中で落としたみたいだ。全然気が付かなかった。凄く助かったよ、ありがとう。君とは落とし物で縁があるみたいだね」

「あ、いえっ、あの、こちらこそ」


 ぶんぶんと首を振って、紅が慌てて言った。


「あの、おれ、森の中で行き倒れてたと思うんですけど、助けて頂いてありがとうございました。この森のこと全然知らなくて」


 つい礼を述べるのを忘れていたことに今更気付く。


「助け……? あ、そっか」


 ティアは一瞬目を丸くしたあと、それは、と言葉を続ける。


「君を助けたのは俺じゃないよ」

「え?」

「ええとね、あ、丁度よかった」


 ティアの視線が上を向く。それと同時、背後の階段が軋む音がした。


「みーちゃん」


 ティアが呼びかける。その対象を追うように紅は後ろを振り向いた。

 見上げた階段上の先。そこに立つ少女の人影を見て、紅は思わず声を上げた。


「……あっ!」


 君は――と、言いかけて。


「ぎゃあっ!?」


 一瞬、視界を何かが遮った後、頭上に強烈な痛みが走った。


「いてて……」


 突然の激痛に頭を押さえながら足下を見ると、先ほどまで無かったはずの一冊の本が落ちているのを見付ける。

 これが上から落ちてきて脳天に直撃したのか。


「こら、気をつけないと!」

「……」


 ティアの叱責に言葉を返さないまま少女は無愛想に紅を一瞥して、再び階上へと上っていった。

 どうやら、本は少女が落としたものらしかった。


「大丈夫? ごめんね、後でちゃんと謝らせるから」

「あ、いや、全然……」


 本を拾う。これもまた随分と厚くて表紙がしっかりしている。もしかしたら瘤が出来ているかもしれないと頭を摩りながら、紅は再び階段の上を仰ぎ見た。

 すでに人影は消えている。


 あのは――。


 背の中程まである長い青銀髪。

 見間違いでなければ、彼女は昨日、紅がエンテージに向かう途中で出会った少女だ。


「あの、彼女は……」


 何故こんな場所に、という思いで呟く。ティアは小さく溜め息をついた。


「娘だよ」


 その発言に、紅は驚いてティアの顔をまじまじと見た。


「え……?」


 つい、怪訝な顔をしてしまった。

 少女はおそらく紅とそう変わらないであろう年頃だと思ったが、ティアの容姿も二十代半ば程に見える。到底、親子になりえる年の差には見えなかった。


「はは、もちろん血の繋がりは無いよ」


 困惑する紅の心中を察して、ティアが笑って言った。懐疑的な反応に慣れているような様子だった。


「そう、ですよね……びっくりした」

「色々と事情があってね、親子ということになってるんだ。……便宜上ね」


 そうなんですか、と。頷いて、それ以上は問わなかった。

 最初は驚いたが、受け入れることは簡単だった。紅自身、共に暮らしている女性は血縁関係ではあるものの実の母ではないからだ。

 家族の形なんて様々であるということを身をもって知っていた。


「ところで紅君、用事は全て済んだのかな」

「あ、ええと……」


 問われて、冷静になって考えた。記章と本はどちらともティアへ渡し終えている。


「実はね、ここは常に暗いから分かりづらいんだけど、外はもう夜なんだ」


 ティアが窓の外を指さして言った。

 ぎょっとして、慌てて壁時計の数字を確認する。

 ティアの言っていることは本当で、ほぼ丸一日、意識を失っていたことになる。

 強ばった紅の面持ちを見て、ティアはふと笑みを漏らした。


「君さえよければ今夜はここに泊まっていって。夜は魔物も活動的になるからね、ここに住んでる俺だってこの時間は滅多なことじゃ出歩けないよ」

「す、すみません……」

「君が謝ることなんて何一つないよ。迷惑でも何でもないし、そもそも大事なものを届けてもらったんだ、このくらいはさせてほしい。エンテージでの件のお礼もしたかったしね」


 人の優しさに触れてつい感動してしまった。普段、叔母の横暴さに慣らされているからか、ティアの柔らかな声色が余計に身に染みる。


「ありがとうございます……お世話になります」


 深々と頭を垂れる紅に、ティアは笑ってうんと頷いた。

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