4
目まぐるしい一日だった。
いつも過ごしている穏やかな日常とは異なる、良く言えば刺激的であった。が、本音を言えば少し疲れた。
結局自宅に戻る頃には日がすっかり暮れていて、同居人の空腹を訴える冷たい視線が痛いほど刺さる。本日二度目。慣れているとはいえ、流石にしんどい。
「ああ、洗濯物取り込んでない……」
「それなら私がやろう。仕方なく、な。お前は晩飯の準備を急げ」
やってくれるなら日が暮れる前に動いて欲しかった――と思うも、言っても無駄なので閉口する。
はいはい、と。おざなりに返事をしながら、仕入れた大量の荷物を整理しようと麻袋を床にどさりと置く。常温で置いておいても構わないものと、冷暗所へ移動させなければならないものをざっと分け、最後に鞄に詰め込んだ細々としたものを取り出していく。
「……結局、持って帰ってきてしまった」
鞄の底にあったそれを手に取り、どうしたものかと
叔母ならこれが何なのか知っているかもしれない――。
日常生活における最低限の生活能力は若干劣っている――と紅は日頃思っている――叔母であるが、この手の魔力器具や魔術・魔法の知識には長けている。少なくとも何も知らない紅よりはよっぽど詳しい。占術師という職業柄、そういった道具を扱うことが多いからだ。
訊かない理由もないだろうと紅が動く前に、叔母が洗濯物の山を抱えながら目敏く
紅の手元を覗き見て言った。
「妙なものを持っているな」
「……妙?」
神妙に目を細めた叔母の様子から、やはりこれがただの石ころ、もしくは安物のガラス細工の
「外で拾ったんだけど、何だかそのまま捨てておけなくて」
「外か。もしや迷いの森の近くに落ちてたんじゃないか?」
え、と紅は驚いて声を上げた。
「なんで分かるの!?」
「それの持ち主であろう男が、あの森に住み着いているからだ」
「持ち主……?」
そうだ、と叔母が言った。
「それはおそらく本国……ラストスの統治組織である《ラスティアード統制機関》の所属を証明する記章だろう。ならば、ここらでそれが落ちていたというのなら、持ち主は一人しかいない。学者風情の若い男だ」
「……おばさんの知り合いなの?」
「ご近所だからな」
「いや……てか今、森に住み着いてるって言った?」
確かに森は近所であるが、人が住んでいるなど聞いたことがない。そもそも誰も近寄らないくらい忌避されている
「記章って、よく分からないけど、大切なものなんだよね?」
「そうだな。身分証も兼ねている。それに稀少な鉱石を使っているし特殊な術式が刻まれた魔力器具の一種でもある。売れば市街に家が何軒か建つ金が手に入るぞ」
「えぇっ!?」
驚いて、うっかり落としそうになったところを必死で
散々迷ったが拾っておいて正解だったようだ。決して野ざらしにしていい
「ど、どうしよう……早く届けないと」
「なら丁度いい。ついでにあれも届けてくれ」
しめた、と言わんばかりに叔母が自室へと入っていった。何かを取りに行ったようだった。その際、彼女の手に抱えられていた洗濯物は無残に床に放り投げられた。
結局こうなるのか、と。散らばった衣服を拾い集める。
やがて戻ってきた叔母が紅に差し出したのは、一冊の厚みのある本だった。随分と古めかしい装丁で、中を見ずとも難しそうな本だ。
「用があって奴から借りてたんだが返しそびれていてな。ついでに頼んだぞ」
「いいけど……」
と言って、紅は首を傾げた。届けないと、とは言ったし届けたいとも思う。
――しかし。
「え、もしかしておれにあの森に行けって言ってる?」
「それは当然だろう」
げ、と紅が呻いた。
「だって、あの森には行っちゃいけないって村の皆が……」
「あそこは魔力の溜まり場故に魔物がわんさか沸いている。不用心に近づくと危ないからそういう話があるんだ」
「……それでも行け、と?」
「届けないとって言ったのはお前だろう?」
「……」
心底嫌そうな面持ちを浮かべつつも、しかしそれ以上の拒否が紅には出来なかった。この女性に対して抵抗は無意味だと、長年の密接な付き合いでこれでもかというほど分かっている。
紅が叔母と暮らすようになったのは今から十年前――紅が七歳の時であった。
王都の内乱で両親と死別した紅が育ったのは、このマルタ村ではなく母親の故郷であるフレイリアとは別の小さな島国だった。そこで母親と旧知であった一家と共に幼少を過ごし、家族同然の生活を送っていた。
そんなある日、それは突然、母親の妹であると名乗る見知らぬ女――叔母が紅を迎えに来たのだ。
有無を言う間もなく連れてこられたのは海を渡った先の別大陸、フレイリア。更にその外れに位置する辺境の小さな村――マルタ村で、訳が分からないまま新しい生活を始めることを強いられた。
早いもので、それからもう、十年の月日が過ぎていた。
「もうこの話は終わりだ。私は空腹で死にそうだと何度言ったら分かる!」
「……承知してますよ」
十年もの間、紅は専ら我が儘で傲慢で暴君な叔母の世話係だった。
『歴とした血の繋がりがある身内が共に暮らすことに意味が必要なのか?』
――かつて、何故自分を引き取ったのかと叔母に尋ねたら、そんな答えが返ってきた。否、それは答えではない。逆に問われ、紅は答えることができなかった。きっと、意味など必要がないからと、幼い頭でその当時は納得したからだ。
しかしその
もしそうだとしたなら叔母にとって随分と都合のいい話だが、それならそれでいいと、紅は思った。
どんな扱いであれ、紅にとって、誰かに必要とされるのはとても嬉しいことだった。
せめて叔母に人生を共に歩く
先ほどエンテージで仕入れた菜っ葉を手に取りながら、そんな不躾なことを考えた。
さて、今日は何を作ってあげようか――。
*
本当におれが行かなきゃならないの? ――と、家を出る間際まで叔母に訴えたが、相変わらずの白けた眼差しで、彼女は粗雑に言い捨てた。
「届けたいと言ったのはお前。別に行きたくなかったら行かなくてもいい。ただ、このままだとお前、拾得物横領で罪に問われることになるぞ」
「……えっ!?」
「知らないのか。このフレイリアでは価値ある遺失物は
「も、もちろん横領するつもりなんてないよ!
「組織の支部だ。王都に行けばあるぞ」
「……それはちょっと遠過ぎる」
このマルタ村はフレイリア国内で一番王都から離れている村落だ。王都、アルステトラスまではエンテージから馬車で行くのが通例だが、それでもおおよそ三日、天候によってはその倍かかることもある。勿論その分、金もかかる。
「森ならすぐそこじゃないか」
「そう言われたらその通りなんですけど……」
気が乗らないのは、昔から行ってはいけないと言われている場所に足を運ぶという未知への不安と、昨日、森へ行きたいという子どもを
「てか、おばさんの知り合いの人なんだよね? 顔も知らないおれが行くよりおばさんが行った方がいいじゃないの?」
通じないと分かりつつ、抵抗を試みる。
「残念だが私はあの森が大嫌いだ。魔物もウザいが虫も多い。何より日が当たらないせいで湿気が不快だ。というかただ単に面倒くさい。よって、これはお前の仕事だ」
「拒否される前提で言ったけどもうちょっと言い方あるんじゃないですかね……」
「素直なのは私の美徳だぞ」
「……その通りですよ」
そんな不毛なやりとりの後、紅は重い足取りで昨日も通った街道を歩んだ。港町への道中、傍らに臨む、一面に広がる深々と覆い茂った木々の海。
「……そもそも正確な目的地が分からないのにどうしろっていうんだ」
手持ちの地図をバサリと音を立てて開いた。古い地図で正確性は不明だが、絵で見る限りは決して狭いとは言えない規模の森だ。その森の上に、赤いインクでバツ印が記されている。叔母
『昔、いつでも遊びに来てくれと言われて渡された地図だ。それ以上の情報はない』
という叔母のありがたい言葉で、彼女が森に行きたがらない明確な理由が分かった気がした。あまりにも説明が雑すぎる。本気で迷い込んでしまったら、一体誰が責任を取ってくれるというのだろうか。
一度足を踏み入れれば最後、二度と戻ってくることは出来ない――かつて、幼い紅におどろおどろしく語った村長の面持ちが脳裏をよぎる。
このまま素直に王都に向かった方が賢明なのでは――そう思いながら、再び眼前に広がる森を見据える。
「こんなところに住んでいるなんて、どんな変人なんだろう……」
実のところ、興味がない、わけでもなかった。
心中は複雑であったが、仕方ないと覚悟を決める。今一度地図を見ながら現在の位置と、目的の方角を確認する。森の中の歩き方など何も知らないが、なるようにしかならないし、きっとどうにかなるだろう。
「……なるかなぁ」
楽観的過ぎるという自覚はあった。半ば、
完全に開き直って、紅は鬱蒼と覆い茂る草木の迷路へと、重い足を前に進めた。
*
外から眺めていただけの印象とはまた違う。良い意味で――であったならよかったのだが、残念ながら逆だ。
鬱蒼と多い茂る緑の天井は想定以上に日の光を遮っている。僅かな木漏れ日だけが視界を照らす。それでも心許なく、まだ日中だというのに
「燃料、大丈夫かな……」
――一抹どころではない。やはり気が進まないと、紅の心中は淀む一方だった。
人が住んでいるというのなら踏み均された通り道があってもおかしくないのだが、それを見つけるのはこの悪い視界では極めて困難だった。
早々に諦めて前へと進む。
もし迷い込んでどうしようもなくなった時のために、来た道を戻れるようにと短い間隔で幹に印をつける。傷をつけるのは
森に入ってからというものの、考えること全てが
四方八方、どこを見渡しても草と木と、魔物の気配しかない。
森の周辺も魔物が多く出る傾向にあったが、中はそれ以上だ。尋常でない数の気配、その割にまだ襲われてはないが、念のために剣は鞘から抜いたままでいた。
そして、歩いても歩いても変わらない景色は、気を抜けば方向感覚を狂わせる。
――いや、気づかないうちにもう狂ってしまっているのかもしれない。
その可能性が否定できない。
自分が今、正常であるという自信が――全くない。
「……っ」
そう思った瞬間、足が動かなくなった。
ぐらりと、地面が歪む。いや、歪んでいるのは自分の視界か。
唐突に、脳天を叩き割られたかのような頭痛と、強烈な吐き気に襲われた。
立つこともままならず、力無くその場で膝を折る。
生理的にこみ上げる不快感を必死で堪えた。
これは何だ――。
今まで経験したことのない、身体の異変だった。混乱と同時に、何故か冷静な思考が問いかける。これは何だ――と。
「ああ、あなたのようなヒトでも、この森に捕らわれてしまうの?」
不意に、声が聞こえた。
「いいえ、これは故意? そう、怖いの。相変わらずなのね」
男か女かも分からない――女性的なニュアンスは感じるが――透き通るような、どこか甘ったるさも匂わせる不思議な声だった。
耳で聞いた、というより、脳に直接届いた、という感覚に近い。
「ごめんなさい。わたしは、少し臆病なだけなの。あなたに意地悪したいわけじゃないの。どうか許してあげて」
蹲ったまま身動きがとれない紅に、声が語りかける。
幻聴――の割には妙にはっきりとしている。不安が度を超して、ついに頭がいかれてしまったのだろうか。
湿り気を帯びた柔らかい腐葉土の温度が手のひらから伝わる。その冷たさで、朦朧とする意識を必死で繋ぎ止めた。
「……残念だけど、こうなってしまっては、一度意識を手放した方がいいわ」
紅の抵抗を宥めるように、声が囁く。
「なぁに、少し眠るだけ。夜の帳が下りるにはまだ早いけれど」
「……っ」
冗談じゃない、と。言葉に出そうとするも、酷い頭痛に阻まれた。
こんなところで倒れたら生きて帰れる保証がない。魔物だっているのだ。誰にも見つけてもらえないまま森と共に自然に還るなど、想像しただけでも怖ろしい。
――怖ろしい、はずだった。のに。
「不安に思う必要はないの。しっかりと、責任はとるから。ね?」
抗おうとすればするほど全身から力が抜けていく。無駄な足掻きだと
四肢の機能が少しずつ失われていくのをぼんやりとした意識で感じていた。
もはや恐怖心すら、麻痺している。
まるでぬるま湯に浸っているような心地良さに誘われて、もういいか、と思った。
痛いのはもう、嫌だった。
瞼が落ちる。
意識が暗闇に閉ざされる寸前。
掠れた景色の片隅で、美しい青銀の糸が揺れる光景を見たような気がした。
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