2

 長雨の影響で村と港町を繋ぐ道は随分と荒れていた。石畳に四方八方から流れてきた泥が被さっていて気をつけないと足を取られてしまう。

 日中の日差しのおかげで乾いてきてはいるものの、歩を進める度に靴底に粘性の泥がこびり付いてくる。

 国の外れの辺境地、それ故に整備が行き届いていない。

 そんな状態が当たり前になっているせいで今更どうにかしてほしいとは思わないし、期待もしていないのだが、雨が降った後となるとどうしても不便さを感じてしまう。

 田舎の一角とはいえ、国の一部であることには違いない。少しくらい気にかけてくれてもいいのではないかと国に対して不満に思ったりもする。

 しかし、いくら声を上げたところで無駄であるということも分かっている。

 このフレイリアという国は、他国の力によって支えられているとても弱い国だった。

 所謂、従属国というものだ。

 港町などの栄えた市街では頑強そうな甲冑を纏った兵士をよく見かける。それらは全て、自国の兵ではなく宗主権を持つラストス国から遣わされている傭兵だった。マルタ村にも視察という名目でたまに訪れるが、やたらと高圧的な態度が目立つので紅はあまり好きではなかった。

 フレイリアの国王は若くとも求心力がある賢君であるという噂を聞く。しかし本国ラストスの力が強い現状では、何かを訴えたところで全ての声に応えることは難しいのだ。

 そして、村の大人達も国に対して多くを望んでいなかった。

 不自由さ、不便さを感じつつも平和には変えられない、と彼らは口を揃えて言った。


 本国ラストスが護ってくれるからこそ、今の平穏な生活があるのだ――と。


 フレイリアが従属国となったのはおよそ十七年前、紅が生まれて間もない頃でその歴史は極めて浅い。切っ掛けは王都アルステトラスで起こった一部の国民による暴動で、当時の国力では納めることが困難になるまでに発展した凄惨な事件だったという。

 その危機を鎮めてもらうことを条件に、フレイリアは大国ラストスの従属国となり現在に至っている。

 紅はその内乱で両親を亡くしていた。その後の数年間は身内の伝手により他国で過ごすこととなり、フレイリアに戻ってきたのは十年前のことだ。

 全ては赤子の頃の出来事であり、紅は内乱のことも両親のことも何も覚えていなかった。記憶にないからこそ何を聞いても他人事のように感じてしまい、それ故に口が重くなった。

 己の中に存在しない国民の脳裏に刻まれた悲劇を思うと、きっと国に対する不満は声に出すべきではないのだろう。

 誰に言われたわけでもないけれど、そう思っていた。






「……迷いの森」


 道中、視界の端に鮮やかな緑が映えた木々を捕らえる。

 小さな大陸の端に奥深く茂っているそこは、今朝方、イクセルが行ってみたいと強請った森だ。

 この《迷いの森》と呼ばれている場所には、いわくがある。

 その名の通り、一度足を踏み入れれば最後、迷ったまま二度と帰ってくることが出来なくなる――というものだ。

 そんな馬鹿な、と。今ならそう思えるが、幼い頃に村長から聞かされた時は心底恐ろしかった。実際、森の周辺には魔物も多く、危険な場所には違いない。だからこそ、きっと子どもが間違って入り込んでしまわないようにと大人が作った法螺話なのだろうと紅は思っている。

 とはいえ、豊かな緑の繁りによって陽光が閉ざされた深淵は人を迷わせてもおかしくないと感じさせる陰鬱な雰囲気があった。平坦な地形に自然が広がるフレイリアの中にあって、それでも尚、この森の存在は異質だ。

 そのような場所に用事があるという機会があるはずもなく、紅が森に立ち入ったことは一度も無い。

 子どもはもちろん大人すら近づこうとすらしない、常にひととは無縁な辺境だ。


「なんでこんなところに行きたいって思ったんだろうな……」


 こんな所で隠れんぼなんてしたら見付けられる自信は無い。考えただけでも恐ろしくて紅には理解出来なかったが、イクセルにとってはきっと、思わず引きつけられてしまうような魅力があったのだろうか。


「……早く行かないと日が暮れるな」


 ぼんやりと遠くの森を眺めていたら、無意識に足が止まっていた。

 はっと我に返って、再び歩みを進める。鮮やかな青い空の色の中で薄らと前方へ伸びた雲を辿りながら、見慣れたいつも通りの景色を通り過ぎていく。

 そこに、普段とは異なる空気を感じたのは、歩き始めてからすぐのことだった。


「……?」


 不意に、ぞわりと、悪寒に似た嫌悪感が背筋を走った。

 辺りを見回すも視界に写る景観に異常はない。

 得体の知れない違和の正体は、聞き慣れない《音》だった。

 周囲に人気ひとけはない。風音とは異なる、葉がざわめいているというわけでもない、それでも尚、何者かの気配を感じさせるような、そんな雑音。

 どこからともなく耳に入ったそれはほんの一瞬のことで、音の出処でどころは把握出来なかった。

 野生の獣か、もしくは魔物が出たのだろうか。木々や、草、岩の物陰を注視してみるも、紅が立つ場所からは特に目立った異変を見つけることが出来なかった。


 ――気のせいだったのだろうか?


 否。違うと否定する。

 村の周囲はそうでもないが、森に近づけば近づくほど途端に魔物の数が増える。

 大人も滅多に近寄らない理由はそこにあった。

 背後を振り返る。土に塗れた石畳が遠くへ延びている。

 村からはまだそう離れていない。もしこの近距離で魔物が出たのであれば、それが村に迷い込んでくる可能性があった。

 獣も厄介だが、魔物であれば余計にたちが悪い。魔物は人間に対して攻撃性が高いという特性を持っているからだ。

 ――正確に言えば《人間に対して》ではないのだが、紅に詳しいことは分からなかった。ただ、何かしらの明確な理由があって人間を標的にしやすい習性があるのは確かであった。

 理解していることは唯一、魔物という存在が人にとって――戦う力を持たない者にとっては尚更――脅威であり危険である、ということだ。

 どうするべきか、と考える。

 不穏な物音の正体が魔物であるという確証はないが、その可能性がほんの僅かでもあるのならばはっきりとさせたい。

 帯皮に差している剣の柄に左手を添える。

 比較的魔物が少ないと言われている平和な国フレイリアで、この剣を抜く機会はあまりなかった。しかし、ただお飾りの護身用というだけで帯剣しているわけでもない。

 紅が剣を持つようになった切っ掛けは己の意思ではなく、弱い男に価値はないという叔母の極端に偏った思想によるものだった。

 争いは好きじゃない。だからこそ、剣を握り続ける理由を自分なりに考えていた。

 そして、守ろうと思ったのだ。自分が居るこの場所を。


 ――もう二度と、失わないように、と。


「……」


 少し、風が強い。

 木の葉が擦れる音が異質な気配をかき消してしまう。

 些細な手がかりも逃すまいと耳を傾け、紅は再び森の方へ視線を移した。

 可能性があるなら森の近く。そう判断して、意を決して駆け出す。

 街道から外れたその先は紅にとって未知だった。

 人気ひとけが無い故に荒れた大地。自由な儘に伸びきった草や無造作に生えた蔓に足をとられそうになりながらも目先の大きな岩陰の彼方に《黒い影》を見つけた、その刹那。


「――っ!?」


 不意に、視界が一転した。

 一瞬の出来事に、驚きの声も出なかった。

 最初に感じたのは全身を襲った痛覚。次いで、鼻を掠める泥の匂い。思わず瞑ってしまった目を開けるとそこには湿り気を帯びた土があった。

 恐る恐る正面を見上げると、ごつごつとした岩肌が視界を覆う。

 転んだ。いや、違う。


 ――転ばされた?


 不自然な首元の閉塞感。

 襟首を背後から何者かに掴まれている感覚があった。

 動転して抵抗も忘れ、己を押さえつけている手の力のまま、紅は地面へと転ぶように腹ばいで突っ伏していた。

 咄嗟に両腕を出して庇ったおかげで地面と顔面の衝突は防げたが、冷静さを取り戻すと同時に恐怖が込み上げた。


 ――この手は、一体、何者なのか。


 横目で傍らの人影を確認すると同時に首筋に風が通るひやりとした感触が走った。

 どうやら手が離れたらしい。


「なっ……」


 解放されて慌てて上体を起こし、声を上げ――ようとしたが、それは叶わなかった。

 出損ねた言葉ごと、息を飲む。

 襟首を掴んでいただろう白い手の先に、見知らぬ少女の姿があった。

 風に煽られた銀糸の髪が、空の青に溶け込みながら陽の光を受けて透き通るように舞っている。その隙間から覗く細い人差し指が、彼女自身の唇に添えられていた。

 静かに、と。

 そう制するように、少女の血のように赤い瞳が紅を一瞥した。

 不意に苦しさを覚えて、呼吸を忘れていることに気付く。


「……君は?」


 声を潜めて、紅が問う。

 少女は答えず、彼女の目線は遠くの岩陰の先にあった。

 つられるようにその視線を追う。


 ――そして、再び驚いて目を見張った。


「イクセル!? なんでここに!」


 顔は確認出来ない。

 しかし、怯えたように蹲る小さな背中を見間違えるはずがなかった。

 衝動的に駆け寄ろうと立ち上がりかけて、再び少女が、今度は紅の腕を掴んで制止した。

 何故、と思う間もなく理由が分かる。

 イクセルの側には、一人の少年――と思われる容貌の人影――が立っていた。

 全身に黒衣を纏った、人離れした異様な雰囲気を携えた少年だった。

 状況が飲み込めない紅を余所に、黒の少年が「あーあ!」と、大げさに声を上げた。


「ようやく気配を察知して来てみれば、ただのガキが一匹、だって? でもまさか、勘違いなんてことはないでしょ。この僕が、間違えるわけがないからね。ねぇ、見てるよね。近くにいるんだよねぇ!?」


 わざとらしく、周りに声を響かせているように思えた。

 一瞬、傍らの少女の瞳が僅かに歪んだのを紅は見逃さなかった。


 ――追われて、身を隠しているのだろうか?


 少年の言葉が続く。


「せっかくこっちが出向いてやったんだからさぁ。さっさと出てこいよ。じゃないと、このガキ、殺しちゃうけど。それでもいいの?」


 見せつけるように演技じみた遅い動作で、腰に差していた細身の長剣を手にかける。

 鞘から刃が僅かに覗き、ギラリと、陽の光が反射した。

 息を呑む音と共に、少女の肩が動いた。


「待って」


 今度は紅が引き留める。


「追われてるんだよね? なら、おれに任せて」


 少女の面持ちに困惑の色が滲んだ。

 いいから、と。再び少女を制して、紅は目の前の光景を見据えた。

 何が起こっているかなど全く理解していないが、決して喜ばしい状況ではないということは分かる。


 とにかく、早く、イクセルを助け出さないと――。


 そう思いながら息を潜めて時機を窺う。

 静寂の均衡は、少年の手に力が籠もると同時に崩れた。

 残念だね、と。嘲笑あざわらいながら少年は剣を鞘から引き抜き、イクセルの頭上に振り上げる。その一瞬の前に、眼前の岩場を蹴って紅が飛び出していた。

 間一髪で、少年とイクセルの間に身体を滑り込ませる。

 耳を劈く金属音。イクセルへと振り下ろされた少年の剣を、どうにか自身の刃で受け止める。


「――っ!?」


 思いがけない強い力に、表情が歪んだ。少年の細腕とは思えない力だった。


「兄ちゃんっ!?」


 すぐにでもイクセルを抱えて逃げたいところだが、どうにもその余裕は無い。


「イクセル、早くここからはな……っ!?」


 不意に更なる力が籠められて、耐えきれずに紅は眼前の刃をはじいた。

 咄嗟に少年から距離をとり、柄を握り直す。対峙する形になり、少年が不快に満ちた目で紅を睨んだ。


「……何だよ、また余計な虫が増えたな」

「……」


 額から汗が流れた。脈打つ心臓とは裏腹に、全身の血の気が引いていく。

 改めて少年を目の前にして、圧倒的な、経験の少なさを感じていた。今まで魔物を相手にすることはあっても人に剣先を向ける機会は滅多に無かった。野盗が村へ入り込んで来ることはあれど、稀な話だ。

 生理的な恐怖を覚えて、剣を握る手が震える。

 同時に、少年に対して異様な嫌悪を感じた。一見、自分と同じくらいの年頃の、自分より痩躯の少年であるのにも関わらず。本能が警鐘を鳴らしている。この少年を相手にしてはいけないと。

 少年の、黄とも金とも思える虹彩が不気味に光を帯びている。

 その様子は人ならざる異質な気配を思わせた。しかしその正体が分からず、未知の力を前に肩がすくむ。


 臆している場合ではないのに――。


「あーあ、なんか面倒臭くなっちゃった」


 唐突に、少年が剣を鞘へと収めた。虚を衝かれて、紅は思わず動揺する。


「……?」


「興醒めってやつ? 結局逃げられたし、残った虫どもを相手にしたって全く面白くないもんな」

 そう言うや否や、少年は身に纏う黒衣を翻した。


 ――刹那。


「消えた……?」


 跡形もなく、まるで最初から存在しなかったかのように忽然と――あるいは、日陰に陽が差した後の影のように――少年は姿を消した。


「一体何だったんだ……」


 その紅の呟きに、答えるものはいなかった。

 呆気にとられるもつかの間、はっと我に返って周囲を見渡した。


「イクセル!?」


 いつの間にか近くの岩陰に身を隠していたイクセルは、紅と同様、呆然と少年が消えた後の場所を見ていた。

 慌てて紅が駆け寄る。


「大丈夫? 怪我は?」

「う、あ……」


 紅の顔を見て、イクセルの表情がぐしゃりと歪んだ。


「もう大丈夫だから」


 宥めるように小さな背を撫でると、子どもは堰を切ったように泣きだした。

 無理もなかった。紅自身、少し対峙しただけでとてつもない恐怖を感じたのだ。

 大丈夫だから、と。言い聞かせながら、イクセルが落ち着きを取り戻すまで小さな身体を抱き込み、その背を撫で続けた。

 ふと、イクセルのそばに光る何かが落ちているのを見つけた。


「落とし、物……?」


 徐に拾い上げてみる。片手で握り込めるほどの小さなそれは、黄金色の石座に嵌められた見目の綺麗な石だった。

 否、石のようなもの、と言った方が正しいかもしれない。

 その辺に落ちているような石ころとは明らかに異なる高い透明度をもったそれは、陽の光を透かして地面をその石が持つ赤色に染めていた。


硝子ガラス……いや、宝石かな?」


 よく見てみれば、つるりと磨き上げられた表面の内部に細やかで複雑な文様が見えた。占術師である叔母が仕事で使う道具にも似たような模様が刻まれているのを見たことがある。ただの飾りではなく、魔力を込めるための特殊な模様だ。

 人工的に施されたであろうその細工は、装飾品の価値に疎い紅でも決して安物ではないということが分かった。

 魔力器具――そう呼ばれる道具は魔力を物理的な力――例えば火や光源など――へと変換する媒体として一般的に普及しており、特段珍しい物では無い。ただ、紅の手のひらにある石は普及しているものとは文様の複雑さが異なっていた。

 これがもし特殊な文様であったらそれこそ高級品どころでは無い。値段のつけようのない一点物の可能性だってある。


「こんなところになんで……」


 戸惑いながら、最初に自身が飛び出した方の岩陰へと目を向けた。

 いつの間にか少女の姿は消えていた。黒衣の少年が、逃げられた、と言っていたのを思い出す。


 ――無事であるならばそれでいい。


 そう思いながらも、そこはかとない喪失感に襲われた。


 ――もしかしたら、彼女が落とした物だろうか。


 確証はなかった。しかし、紅は石を鞄の奥底に仕舞い込んだ。

 もしかしたら無くしたことに気付いた落とし主がこの場所まで探しに訪れるかもしれない。ならばここから持ち出さず、気付かなかったことにしてこの場に置いておいた方がいいのかもしれない。――が。


「ここから人の足だと、マルタ村かエンテージしか行くところなんてないよな」


 少女の身なりは軽装だったはず。はっきりと見ていないので記憶が曖昧だが、旅人風情のようではなかった。そんな彼女が何処から来て何処へ向かったのかなど、もちろん紅が知る由も無い。


「……兄ちゃん」


 ぐい、とイクセルが紅の衣服の端を引っ張った。その感覚で我に返る。


「……とりあえず、まずは一度村に戻らないとね」


 うっかり買い出しという当初の目的を失いかけたが、優先すべきはまず、イクセルを無事村まで送り届けることだ。

 涙でびしょ濡れになった子どもの頬を拭う。


「だから言ったろ? 危ないって」

「……うん。ごめんなさい。ぼく、もう絶対、ひとりで外に出ない……」

「うん」


 怖い思いをしたことは可哀想に思うが、彼にとっては苦い薬になったようだった。

 おそらくイクセルは、村を出た紅の後を追ったのだ。そして迷いの森の周辺ではぐれてしまった。

 迂闊だったと反省する。子どもの好奇心を甘く見ていた結果だ。

 取り返しの付かないことにならずに済んだのは幸運だった。


「……とにかく、無事でよかった」

「うん、ごめんなさい」


 安堵が胸に満ちた。本当に、無事でよかった。

 少年の手を取り、紅はゆっくりとした足取りで来た道を引き返す。

 空の頂点にあった陽の光は、いつの間にか朝とは真逆の方角へと傾きかけていた。


「今日は帰るのが遅くなるな……」


 村に戻ったら、急いで港町へ向かわなければならない。買い出しが遅れたら、晩ご飯の時間も遅くなる。そうなっては、あの我慢の知らない叔母がまた、隣人の夫妻に迷惑をかけてしまうかもしれない。


 ――それに。


 少女の、凜とした横顔を思い出す。

 岩陰にいて尚、燃えるように映えた緋色の瞳が脳裏から離れなかった。

 エンテージに行けば、もう一度会えるかもしれない。


 そんな不確かな予感が、紅の胸の内をざわつかせたのだった――。

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