1

 雲間から差し込む日差しは随分と懐かしい。眩しさに目を細めながら、少年は青く晴れた空を見上げた。

 鬱陶しく降り続けていた長雨がようやく止んだ。

 待ちに待った晴天。久しぶりに眺める鮮やかな水色は記憶にあるものよりも一層美しく見えた。

 ふわりと、そよ風が湿り気を帯びた土の匂いを運ぶ。雨の余韻に鼻を擽られながら、少年は大きく背伸びをした。


 ――さて、今日は何をしようかな。


 長らく続いた悪天のせいでずっと家に引き籠もっていた。その為、貯蔵庫の中の食料が底を尽きかけていたことを思い出す。

 市街へ買い出しに行かなければならないだろうか。


 ――いや、違う。と思い止まる。


 それよりもまず、溜まりに溜まってしまった洗い物を片付けることが先だ。

 確かに食料は尽きかけていたが、自分一人ならもう数日くらいはどうにか賄える。

 再び空を仰いだ。今は早朝。しかし、陽が出ている時間は限られている。


 そうと決まれば早速――と、家の中へ戻ろうとしたその時だった。


「あ、くれないの兄ちゃんだ!」


 幼さを帯びた甲高い声が少年を呼んだ。

 隣の家屋の窓から小さな子どもが顔を出して手を振っているのが見えた。

 それに応えるように、少年――紅も小さく手を振り返す。


「やあ、イクセル。今日は随分と早起きじゃないか」


 そう声をかけると、イクセルは嬉しそうに笑った。


「雨の音が聞こえなかったからさぁ。つい早起きしちゃった」

「普通、逆じゃない? 静かな方がよく眠れると思うけど」

「だって久しぶりに外で遊べるんだもん!」


 だから嬉しくて、と。身を投げ出してしまいそうな勢いで飛び跳ねる。

 朝から元気だ。喜びを全身で表現する子どもの姿は実に微笑ましい。


「だからさ、兄ちゃん。今日は一緒に遊んでよ!」

「うん、いいよ」


 嬉しい誘いを受け、快諾する。


「でもまだやらなきゃいけないことがあるから、もうちょっと待ってて」


 イクセルが大きく頷いた。


「もちろん待つよ! でもなるべく早くね。ぼく行きたいところがあるからさ!」

「……行きたい、ところ?」


 紅は眉をひそめた。


「それって、外に出たいってこと?」


 問うと、イクセルは「そうだよ」と無邪気に答えた。


「それは駄目だよ」


 考える間も置かず、紅はイクセルの要望を一蹴した。水を差してしまうかのようで、少し心が痛んだ。


「ええ! なんで!?」

「村の外はお母さんに駄目だって言われてるだろ? それなのに、おれが勝手に君を連れ出すわけにはいかないよ」

「そんなぁ!」


 不満の声を上げながら、イクセルは窓の縁に足をかけてそのまま外へと飛び出した。

 着地の勢いで雨上がりの泥が弾ける。それに構わず、泥濘ぬかるみに足を取られながらもそのままの勢いで紅に駆け寄った。


「兄ちゃんと一緒なら大丈夫だって! ぼく、この前お父さんと近くの港町に行ったんだ。外に出たの初めてだったけど、全然怖くなかったよ!」

「だから駄目なんだって」


 必死に説得を試みる子どもを前に首を横に振った。やはり、心が痛む。


「怖いとか、怖くないとか、そういう問題じゃないんだよ」

「魔物だって全然いなかったし絶対大丈夫だって! お願いだよ兄ちゃん……町に行く途中、大きな森を見たんだ。ぼく、そこに行ってみたいんだ」


 森――と聞いて、胸がざわめく。


「町って、エンテージだよね。途中の森って、もしかして《迷いの森》のこと?」

「えっと……」


 考えるように、イクセルの視線が宙を泳いだ。


「お父さんが確かそう呼んでたかも。村の中に生えてる細っこい木とか草じゃなくてさ、もっと大きくて、葉っぱがぶわーってあってさ、あの中で隠れんぼしたら絶対楽しいって思ったんだ」

「いやいや……」


 なおさら駄目だと、強い否定の意を込めて紅は再び頭を振った。

 好奇心が旺盛なのはとても素晴らしいことだ。叶えられる願いなら叶えてあげたいとも思う。


 しかし――。


「やっぱり無理だよ」

「なんで!」

「子どもが村の外に出ていいのはお父さんかお母さんみたいな大人が一緒の時だけ。村長に何度も言われてるから分かってるでしょ? そもそもあの森には大人だって滅多に近寄らないんだ。魔物だって村の周りより沢山出るし凄く危ないんだよ」


 納得してもらうために理由を述べる。が、子どもは不満そうに頬を膨らませた。


「だから兄ちゃんに頼んでるんじゃないか」

「おれだってまだ子どもだよ」

「でも兄ちゃんはいつも一人で外に出てるもん! 兄ちゃんは剣が使えるからだろ? じゃあ、魔物だって平気じゃないか」

「……そりゃ平気なんだけど、それはおれが一人の場合であってね。君を一緒に連れ出すことは出来ないんだよ」

「意気地無し!」

「何と言われても駄目なものは駄目なんです」


 口先だけで無理、駄目とだけ言っても分かってもらえないことは理解している。しかし危ないという理由だけでは納得してもらえない。これ以上何を言えばいいのか。

 どうしようと頭を悩ませていると、イクセルがふて腐れた様子で足下の小石を蹴飛ばした。


「……兄ちゃんのドけち!」


 はずみで飛び散った泥が足元を汚す。小さな靴はすっかり土褐色に染まってしまった。洗い甲斐がありそうだなと好奇心を擽られたが、彼の母親はきっと嫌な顔をするだろう。


「だってぼく、ずっとつまんなかったんだよ。最近兄ちゃん家から出てこなくて全っ然遊んでくれなかったし」

「……そ、それはごめん、だけど」

「もういいよ」


 ぷい、と顔を背けられた。


「……じゃあさ、いつもみたいに剣の稽古つけてくれよな。それで許すから」


 素晴らしい代替案だ。


「それなら喜んで。陽が一番高く昇った頃でいいかな」

「……うん!」


 ようやくイクセルに笑顔が戻り、紅は胸をなで下ろした。

 子どもの相手は嫌いではなかった。むしろ好きな方だと思っている。しかし、難しいと思うことも多い。


 ――何か新しいこと、考えないと。


 毎日毎日、繰り返し同じ遊びや稽古をしていては飽きて当然だ。目新しいものに興味を示すのはおかしいことではない。今回はたまたま、イクセルの興味の先が『行ってはいけない場所』だっただけで、彼は何も悪くない。

 とりわけ、紅達が住まうこのマルタ村は一際何も無い。あるのは豊かな自然だけ。

 フレイリアと呼ばれる小さな大陸の、王都から最も離れた地域の、その更に外れた場所に位置する小さな村落。住民は少なく、周りには草と木しかない。

 長閑で静かな環境――と言えば聞こえはいいが、とどのつまり、ただの田舎。よっぽど詳細に書かれていない限り地図上に村の名前が載ることはまず無い。

 そして住民が少ないということは、子どももいない、ということだ。マルタ村には紅とイクセル以外の子どもはいなかった。二人の間にも十年以上の歳の差があり、次いで若いのはイクセルの両親になってしまう。残りの皆はなかなかに歳を召しているという、遊びたい盛りのイクセルにとっては退屈極まりない環境だ。


「しかしよりによって迷いの森なんかに行きたいなんて……」


 迷いの森とは、マルタ村と近場の港町であるエンテージを繋ぐ、街道沿いに広がる密林のことである。


「だって、隠れんぼ楽しそうだし。あと、お父さんは絶対入っちゃいけないって言ってたけど、そう言われると入りたくなっちゃうじゃん」

「……」


 叱咤の意を込めて睨んでみせる。イクセルが、分かってるよ、と呻いた。


「……兄ちゃんは子どものくせに大人の味方をするんだよな」

「おれはただ、危ないことをしてほしくないだけだよ。君にもしものことがあったらお父さんとお母さんが悲しむだろ。おれだって嫌だもん」


 紅がそう言うと、イクセルの小さな目が丸くなった。


「あ、そっか。……そうだよね」


 遊びたいという好奇心が強すぎて周りの心配に考えが及んでいなかったことに気付いたようだった。ごめんなさい、と素直に頭を下げる。

 謝ることではないと思ったが、紅は黙ってイクセルの言葉を受け止めた。


「兄ちゃんが外に行けるのは、やっぱ強いからだよね。ぼくも剣の稽古を頑張れば大人になる前に外に行けるようになるかな?」

「そうだね。お母さんとお父さんが心配する必要がなくなるくらい、強くなれたらね」

「……そっか! じゃあぼく、まずは稽古頑張るよ!」


 じゃあまた後でね、と。イクセルは満面の笑みを浮かべて家へと戻っていった。

 一息つく。しかし、一日はまだまだ長い。


「さて、さっさと洗濯物を片付けないと」


 こうしてまた、いつもと変わらない日常が始まった。






 溜まっていた衣類を丹念に洗い、全て干し終えた時には陽がすでに高々と上っていた。

 空気は湿っているが、この日差しの強さなら夕刻までには十分乾くはずだ。

 安心して家に戻ると、朝はいなかったはずの人影が目に飛び込んできて一瞬ぎょっとした。人影の正体は考えるまでもなく分かっていたが、突然のことについ驚いてしまった。


「おばさん、帰ってたの?」

「……」


 声をかけるも反応が無い。

 紅が「おばさん」と呼んだその人物は、ただ無言で寝椅子ソファに寝転びながら分厚い本のページをめくっていた。

 不審者でもなんでもなく、正真正銘この家の住民だ。


「帰ってたんなら一言声かけてくれればよかったのに」

「……」


 のそりと、鈍い動きで頭が動く。長い濡れ羽色の髪から同じ色の瞳が覗いた。


「……腹が空いていて死にそうだ」


 不機嫌そうな低音のかすれ声ハスキーボイス。女性にしてはやたらドスの利いた声色は、初めて聞く人なら大抵萎縮してしまう。


「もしかしてまた食べてないの?」


 しかし意に介することなく紅は会話を続ける。


「王都で出される食事は私の口に合わない。あんな見た目が派手なだけの得体の知れないもん食えるわけがない」

「また贅沢なこと言ってる」


 その人物は紅の同居人であり、血縁関係にある叔母だった。

 生まれてすぐ両親と死別している紅にとっては唯一、母親代わりのような存在だ。


 ――が。


「口に合わないとか言っておいて結局食わず嫌いなんでしょ。一口くらい食べてみればいいのに。絶対美味しいよ」


 王都の料理かぁ、と思いを馳せる。こんな田舎に住んでいる限り、滅多にお目にかかれないご馳走なのだろう。


「そんな危険を冒すくらいなら外に生えてる雑草でも食べた方がよっぽどましだ」

「外の草だってちゃんと食べられるよ。種類によるけど」

「何故私が山羊ヤギみたいなことをしなければならないのか」


 我が儘だなぁ、と苦笑する。

 今まで親子らしい会話をした覚えは一度も無い。十年ほど一緒に暮らしているが、常に家事、炊事のたぐいをこなすのは紅の役目だった。生活費こそ貰ってはいるが、それも額にして彼女一人分の食費程度のものだ。

 色々思い返してみても、親と呼べるほど面倒を見て貰った記憶はほとんど無い。そもそも、王室付きの占術師を生業としている彼女は職業柄家にいないことが多い。同居人ではあるものの、紅は一人で過ごすことの方が多かった。

 居住空間を提供してもらっているので当然恩は感じている。しかし、それも親に向ける感情とは違うような気がした。

 故に、紅は叔母の存在を《保護者》ではなく《同居人》と称する。


「で。腹が空いている、と。私は言ったはずだが?」


 細い指が分厚い本の表紙をコツコツと叩く。

 生来愛想が壊滅的に不足している叔母の表情が、空腹故の不快感に満ちて凄みが増している。初対面なら震え上がってしまうかもしれない冷ややかな面持ちだ。


「うーん……」


 まずいなぁ、と思った。叔母の機嫌が、ではなく、食料庫の中の塩梅が。

 確認しなくても分かっていたが、案の定だった。


「……ごめん、おばさん。買い出しにいかないと」


 食料がないわけではない。ないのであれば洗濯物など後回しにして買い出しに向かっていた。だが、残っているのはいずれも叔母が苦手にしている作物ばかりだった。

 普段家にいないくせに随分と悪いタイミングで帰ってきてしまったものだ。


「……」


 叔母から返事がない。が、きっと酷い顔をしてこちらを睨んでいるに違いない。見なくても分かるほど強烈な視線が背に刺さっているのを感じた。

 家に戻って叔母の姿を見たときから、困ったな、と思っていたのだ。早朝、買い出しより洗濯を優先してしまった自分を呪いたい。


「……いや、仕方ないんだって。昨日まで凄い雨降ってたじゃん」

「……」

「というかさ、そんなにお腹が空いてたなら村に帰ってくる前にエンテージあたりで何か食べてくればよかったんじゃない?」

「……」

「もしくは帰りの馬車乗る前に何か露天で買い込むとかさ」

「……」

「……すみません」


 無言の圧力に屈する。

 マルタ村には物を買える施設のたぐいは存在しない。故に、必要なものがあれば近場の港町まで赴かなければならない。

 まだ空は明るいが、今すぐにでも向かわないと帰る前に日が暮れてしまう。夜の街道は視界が悪く、荷を抱えて歩くのは気が進まない。

 緊急時に備えている保存食を使うべきか、いや、別に今は緊急でも何でも無い――などと考えていたら、小さいため息が聞こえた。


「仕方ないな。許してやろう」


 叔母が、のそりと鈍い動きで寝椅子ソファから身体を起こした。


「今まさに昼食の頃合いだな。隣人の夫妻に馳走になるとしよう」

「……あまり迷惑かけないでよね」

「気にするな。慣れているだろう」

「酷いなぁ」


 相当に空腹だったのか、そうと決まればという様子でさっさと家を出て行ってしまった。

 その叔母の背を見送って紅は胸をなで下ろした。助かった。いや、人様に迷惑をかけてしまうことになって心苦しくはあるのだが。

 あとで謝りに行かないと、と。きっと、いつも通り笑って許してくれるであろう気立ての良い隣人夫妻の顔を思い浮かべる。


「……さてと」


 当初の予定なら明日に回すはずだった用事が出来てしまった。

 昼はやり過ごせたが晩御飯はしっかり作りたい。でないと、再び叔母の機嫌を損ねてしまうかもしれない。


「今からエンテージに行くとなると……明るいうちには帰ってこれないよなぁ」


 イクセルの顔が脳裏をよぎる。

 剣の稽古という約束を反故にしてしまうことになる。が、叔母の横暴さは村中に知れていることだ。事情を話せば小さい彼でもきっと分かってくれるだろう。

 菓子のひとつでも持っていけば許して貰えるだろうかと思案しながら、紅は壁に立てかけてあった愛用の長剣を手に取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る