18

 絵本の表紙をそっと撫でる。

 つるりとした肌触り。慣れない感触と、ヒヤリとした温度。

 これが何なのか、少女には分からなかった。

 本――と、アレルが言っていた。

 見たことがあるような気がするし、記憶違いのような気もする。

 厚めの紙が幾重にも束ねられた、得体の知れないもの。

 おそるおそる、一枚、ページをめくってみる。

 視界に飛び込んできたのは一面に描かれた色とりどりの絵。

 しかし、ここに何が描かれているのか、少女には理解できなかった。

 酷く、疲れを感じていた。

 ここはとても面倒で、息苦しい村だと思った。

 歳を召した風貌の女が、自分に何かを問い掛けていたような気がする。

 しかし少女には、女が何を言っているのかが分からなかった。

 その後に会った少年も、何かを言っていた気がする。

 一体何を言っていたのだろう。

 少女には、他人の声がただの雑音にしか聞こえなかった。

 少女にとって、他人が発する言葉は何も意味を持たない騒音でしかなかった。

 何を言われても、何を問われても、ただ音が聞こえる――そう認識することしかできなかった。

 アレルとて例外ではない。

 少女には、アレルが話す言葉のその半分も、内容が理解できていなかった。


 ――そう、半分。


 逆を言えば、半分は理解することが出来ていた。

 理由は分からなかった。

 最初にはっきりと聞き取れたのは、診療所に連れ戻された月夜のことだった。


 負け犬だ――と、そう言っていた。


 それが何を意味するのか、具体的なことまでは分かっていない。

 ただ、何故かとても、苛立ちを覚えた。

 きっと良い意味ではないのだろう、そう思った。

 たったそれだけのことであったが、少女にとっては新鮮な感覚だった。

 久しく、何かを感じるということがなかった。

 声も届かず、言葉も出せず。

 息をすることでしか生を紡げなかった自分の中に、ただアレルのその一言が、強烈に突き刺さった。


 その感覚は何なのだろう――と、少女は疑問を抱いた。

 何も持たなかった少女の中で生まれた、ほんの僅かな興味だった。

 そんな僅かな興味が、少女にとって、アレルの存在を明確にさせた。

 だからこそ、アレルについて行ったのだ。

 その先に何があるのか少女が知る由もなく。疑問に対する答えが出る確証もなく。

 ただ、流れに身を任せていた。

 それが果たして正しいことだったのか、少女には分からなかった。


「……」


 絵本から、窓へと視線を移す。

 アレルが外へと出てから小一時間が経っていた。

 特に眠気も覚えず、ただひたすら時が経つのを待っていた。

 夜の静寂。

 その静謐な静けさを蹴破るような轟音が鳴ったのは、その時だった。

 何事かと窓を開けた。視界が一瞬にして赤く染まる。

 火だった。

 高熱の熱風が一気に室内へ吹き込む。

 両腕で顔を防ぎながら、少女は懸命に目を凝らした。

 突然の出来事に、驚いた村人達が一斉に飛び出していた。それと同時、気が狂ったような咆哮を上げながら、無数の異形の魔物が村中を埋め尽くす。

 異様な光景だった。

 妙な既視感を覚えながら、少女は衝動的に窓から外へと飛び出る。

 一面に広がる炎の海。怒号。耳を劈く悲鳴。

 混乱と混沌に呑まれた村の中を、嫌な胸騒ぎに駆られて少女は走った。

 呼吸の度に、肺が焼ける。息をすることもままならない。

 アレルは言った。宿から動くなと。

 しかし、じっとしていられるわけもなかった。

 今動かなければ、取り返しのつかないことになるような。


 ――そんな胸騒ぎがしたのだ。


 *


「結局これ何なの?」


 黒い影が、傍らに腰掛ける少年に問いかける。

 ところどころ瓦が剥げた、古びた民家。その屋根の上から見下ろしてみれば、村全体の混乱ぶりがよく見渡せた。


「爽快な光景だ。僕、好きだなぁ。こういうの」


 次から次へとどこからともなく湧き出る魔物。それに食われる者、叩き潰される者、鋭い爪や牙で身体を抉られる者――様相は様々だが、周囲は血と炎に塗れた惨事に包まれていた。


「何、ですか。そうですね、言うなれば『私欲に呑まれた愚かな人間が引き起こした行動に対するひとつの結末』……ということでしょうか」


 この場に似付かわしくない、和やかな笑みを浮かべながら少年が答えた。

 影がせせら笑う。


「なんか他人事みたいに言ってるけどさぁ、全部あんたが関わってるよね? てか仕組んだよね? あの気が狂った学者風情、僕見たことあるよ。あんたが何年か前に会ってた人間だ」

「そうです。なんならつい先日も教会で会いましたが。だがしかし、貴方の言う過去の事と、この惨状はさほど関係ありません」


 影が不思議そうに首を傾げた。ピンときていないといった様子だ。

 少年は影にふわりと微笑みかけた。


「端的に言ってしまえば、ただの偶然なんですよ」

「はあ?」

「かつて、私があの学者に魔力の使い方を教えたのは、彼が持っていた遺跡の情報を聞き出すための交換条件だったからです」

「遺跡……ってこの村の、あの遺跡? あんたが前に解読できなくて、むざむざと撤退したこの遺跡?」

「……言葉のひとつひとつに悪意が感じられるのがひっかかりますが、その通りです。私が頼んだわけではありません。気を利かせて下さったのでしょうか……偶然にも、彼が遺跡の封を解いて下さったのです。想定外の幸運ですよ」

「……ああ、まだ解読できてなかったんだ」

「こう見えて色々忙しい身なんですよ。つい後回しになってしまいまして」


 やれやれ、と影はため息をついた。


「で、あんた、この超面白い大惨事どう収拾つけるわけ?」

「いや、私が直接引き起こしたわけではないので。……隙をみてトンズラ、ってところが無難ですかね」

「はは、ほんと最低な人間だなあんた」

「村の方々には悪いと思ってますよ。……ただ、遺跡の魔力を解放すれば周囲の魔物が活性化するのは避けられませんでした。なので、遅かれ早かれ、こうなる運命だったのです。結末は変わりません」


 少年は哀れみを帯びた瞳で、眼前の惨事を見下ろした。

 ひとつの集落が炎に焼かれる様は、酷く残酷で、美しいと思った。


 その中で、ひとつの音を聞く。


「……?」


 駆ける足音。

 この凄惨な状況の中で、逃げ惑う村人とは明らかに異なる、迷いが感じられない足音だった。


「あれは……!?」


 目を見張った。

 衝動的に立ち上がる。同時に、駆けてきた足音も止まった。

 足音の人物は、驚いた様子で屋根の上の少年を見上げた。

 ひとりの幼い、少女だった。

 少女は少年の姿を視界に入れると、怪訝そうに眉を顰める。

 火の粉が舞う中で、視線を交わしたまま沈黙の時間が流れる。


「……」


 息をすることも忘れるような――そんな動揺を打ち消すように、少年が口の端を上げた。


「……もしかしたら、貴女の目的のものはこの先にあるものでしょうか。急いだ方がよいかもしれませんね」


 ――手遅れにならないうちに、と。


 少年を見据える少女の瞳が、困惑に歪む。

 そして、時間が惜しいと言わんばかりに少女は踵を返して再び駆けだした。

 その小さな背を見送って、少年は呑んでいた息をゆっくりとはき出す。


「……驚きましたね」

「もう、今度は何なの? 知り合い?」

「まあ、そんなところです」


 ふふ、と笑いを零す。


「今日一番の幸運ですね……面白いことが起こるかもしれません」


 少女が駆けていった先を見渡しながら、少年は想いを馳せるように目を細めた。

 一面に広がる火の海は、まるで未来を照らす道標のように思えた。


「……さて、どうやら貴女の思い通りにはいかなくなりそうですよ」


 ――ねぇ、シルフィール。


 ぽつりと呟いたその名を愛おしむように、少年は再び微笑んだ。

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