17
突然アレルを襲った不調が落ち着いたのは、今夜の寝床としてあてがわれた部屋に着いてからしばらく経った頃だった。
外はいつの間にか暗くなり、夜も更けていた。
食事をとることも叶わず、心配する女将やロジェを粗野にあしらってしまったことに軽い罪悪感を覚えた。
頭が鈍い痛みを引き摺っている。が、耐えられないというほどでも無い。
どうにか治まってくれてよかったと、心の底から安堵した。
これは、ただの体調不良だ。
記憶にある風邪や疲労の症状とは異なるが、そうであって欲しいと願った。
そう、これは決して、《後遺症》ではないのだ――と。
「……なに、心配してんの?」
「……」
少女が、じっとアレルを見ていた。
どことなく困惑しているように見えた。
「今日のお前はなんか表情が豊かだな。まぁ、いつもとあんま変わんないけど、なんとなくそんな気がする」
そう言うアレルに、少女は不思議そうに小首を傾げた。
どうやら本人に自覚はないらしい。
「……その本、どうしようか」
少女が抱えている本。先ほどロジェに強引に押しつけられた絵本だ。
「お前も知ってるだろうが、あたしは字が読めないからなぁ」
何も教えてやれない――と、本の所在をあぐねた。
アレルは、書物に興味がなかった。
否、興味を抱くことが出来なかった。しようと思っても、どうしても出来なかった。
それは、かつて学者であった父を思い出してしまうからであった。
父の存在をどうしても受け入れがたく、フェイザーに少しは言葉を覚えろと小言を言われながらも、のらりくらりと逃げていた。
ただ、それはアレルの個人的な都合だ。
その身勝手な都合にこの少女を付き合わせるのは、きっと望ましいことではないだろう。
自身に限界を感じた。先のことも、含めて。
「……この仕事が終わったら、知り合いの学者を紹介してやろうか。最近会ってないしそもそもそんな親しくも無いけど、まぁどうにかなるだろ。ロジェでもいいけどさ、あれはお前には合わなそうだからなぁ」
いつまでも連れ回していられるわけでもないと、思っていた頃だった。
胸に手を当てる。未だ尚、気持ちの悪い不快感がそこにあった。
頭の中に
実はここ最近、アレルが度々感じているものだった。
きっと、やはり、これは疲労やその
「……」
アレルには、以前から、覚悟していたことがあった。
その覚悟は常に、アレルを孤独にしていた。
ずっとひとりで生きていた。そのつもりでいた。実際にそうであった。
それが本当は寂しかったのだと――それに気づいたのは少女が常に、当たり前にそばにいるようになってからだ。
会話なんて必要ない。ただ、ひとりではない、ということに救われていた。
――それもきっと、もう潮時なのだろう。
「なあ、ちび――」
言いかけて、言葉が止まった。
「これは……!?」
それは再び。
どろり、と。
冷えた血が逆流する。
昼間に感じたそれよりも、遙かに強烈な寒気と嫌悪感。
全身の肌が粟立ち、心臓が激しく鼓動を打った。
足の先から込み上げてくるような激しい吐き気を必死で押さえる。
胃液が口内に広がっていた。
(これは……)
この不快極まりない感覚を、アレルは知っていた。嫌と言うほど、知っていた。
忘れたくても、忘れられなかったものだった。
父が狂い、母が消え、そして、自分が《自分》では無くなった日のこと。
嗚呼、同じだ――。
これは、あの時と全く同じ感覚だ――と。
激痛を訴える頭を抱えながら、窓の外を見遣った。
灯りの消えた民家。
静寂で、平和な夜。
その中で一握りの、おぞましい気配の存在を感じ取った。
「……あたし、ちょっと、外散歩してくるわ」
少女に向かってそう告げる。
「お前外で寝んなよ。朝、村のみんなが驚いちまうからな。あの人達早起きなんだよ」
平静を装う。震える声を抑えるのは、酷く困難だった。しかし、少しの異変も悟られるわけにはいかない。
「絶対、外に出るなよ」
念を押す。少し不自然だったかもしれない、しかしそんな些細なことを気にしている余裕も無かった。
剣をとる。その手に力がこもった。
開けた部屋の扉を、音を立てないように静かに閉める。
はあ、と。無理矢理気を静めるために、大きく息を吐く。
そしてその刹那。
アレルは全力で表へと駆けだした。
なんで――。
どうして――。
叫びたくなる気持ちを抑え込みながら、アレルは必死に走った。
一筋の涙が、頬を伝っていた。
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