12

 昔から、よく視る夢がある。

 それは俗に言う、悪夢というものだ。

 意識が暗闇の大海の中で、宙にぽっかりと浮かんでいる。身体の感覚は無い。

 指先一本すら動かすことも叶わず、音も温度も何もない。

 この異質で、異様な感覚をアレルは知っていた。

 夢であり、しかし現実に限りなく近いということを、細胞のひとつひとつが知っていた。

 ただ悲しくて、泣きたくなった。

 あまりにも孤独で、寂しくて、気が狂いそうだった。

 しかし、流す涙はない。どんなに嘆いたとしても流すことは叶わない。

 そこにはもう、アレルの身体が存在しないからだ――。


 *


 手を伸ばしていた。何を掴もうとしていたのだろうか。

 目を覚ました視線の先には薄汚れた天井。

 宿の天井だ。お世辞にも綺麗とは言えないが、建物が古いだけで必要最低限の清潔感は保っている。


「……」


 動悸が止まらない。

 未だ、夢と現実の狭間にいる感覚に捕らわれている。

 頬には涙が伝っていた。夢の中で、流すことの叶わなかった涙だ。


「……ったく。酷い夢だ」


 上体を起こして、顔を拭う。

 閉ざされた窓掛カーテンの隙間から、うすら明るい光が漏れていた。

 ちょうど夜が明けた頃のようだ。

 ふと傍らの寝台ベッドを見遣れば、そこはもの抜けの殻だった。


「またか」


 いつものことだった。


「野宿のほうがいいってどういう感覚してんだあいつは……」


 連れの少女は、アレルが寝た後にひっそりと宿を抜け出して、外――例えば、屋根や木の上など――で寝ていることがままあった。

 野宿がいいのかどうかは分からないが、寝台ベッドが苦手なのだろうか。

 いや、苦手なのかどうかも分からない。駄目なのは寝台ベッドではなく、ほかの要因かもしれない。

 少女の真意は知り得ない、が。もしかしたら診療所を抜け出したのもそういった事情があったのかもしれないなと思い当たる。


「ちびー、いるかー」


 窓を開けて外へと声をかけた。しばらくして、とん、と天井の裏から音がした。

 今日は屋根か、と居場所を知る。


「あと二時間くらいで出るからな、ちゃんと起きとけよ」


 再び軽い音が響く。了解した、という返事だろうと勝手に解釈した。

 言葉による意思疎通が出来ないと言うことは、最近になってさほど重要ではないと感じるようになった。

 要は伝えなければいけないことだけが、伝わればいいのだ。

 分からないことは分からないままでいい。

 それで支障がないのであれば、やはり言葉でのやりとりなど、少なくとも二人の間には必要ないのだろう。


「……あたしも起きるか」


 乾いた涙の跡を手で拭う。

 こんな情けない様を見せずに済んでよかったなと、安堵した。


 *


 二人がラストス国へ赴いたのは、三日前のことだった。

 フェイザーからいとまを出されてからは別の紹介所で依頼を受けていた。

 それは荷を運ぶ馬車の護衛だったり、ちょっとした魔物の討伐だったり、案件は様々だったが帝国の軍から受ける依頼とやることは大差ない。

 違うのは報酬の額であった。


「なんか個人で交渉した方が割が良かったんだけど」


 何気なくそう告げた途端、フェイザーは苦々しい顔をした。


「そもそもフリーなわけだし、それなりに経験も積んでるし、別に組織あんたらに頼らなくても大丈夫なんだってことが分かったよ。良い経験をしたな、いやぁ、ありがたいありがたい」


 わざとらしく感謝の意を強調すると、フェイザーの眉間にますます深いしわが刻まれた。


「……お前、オレを見捨てる気だな」

「よっく言うわ。干したのはそっちだろうが」

「たまたま頼める案件が無かっただけじゃねぇか」

「安定感が無くて? 金も安い? まるで良いとこないじゃん。この機会に見直してくれよな」

「……検討はする」


 思う存分嫌みを吐いて、アレルの心が晴れる。

 言葉ではそう言うものの、アレルにフェイザーから離れるという意思はなかった。

 ちょっとした軽口だ。

 それを言えるだけの信頼を、アレルは彼に置いていた。

 置けるに足りる長い月日を、アレルはフェイザーの元で過ごしたのだ。


「その話はまぁ、置いといて、だ」


 仕切り直すように、フェイザーが咳払いをした。


「喜べ。仕事だ」


 ほらきた、と。アレルはフェイザーの言葉に素直に耳を傾けた。


 *



 二人を歓迎したのは、一人の修道女シスターだった。


「お話は伺っております。ようこそお出で下さいました」


 街道から脇に逸れた先にある小さな教会。

 ラストスの市街地からさほど遠くない場所に位置するその施設は、旅人の憩いの場所でもあった。が、今日は修道女シスター以外の人影は見当たらない。

 それには事情があった。


「あれは二日前の夜のことでした」


 質素な個室に通されたアレル達は、小さなテーブルを挟んで修道女の話を聞いた。


「嵐の夜でした。夜も更けた頃、表から微かに音が聞こえました。最初は風だと思いました。ただ、おそらく気にかかったのでしょう、滞在していた一人の旅人の男性が外へと出たのです」


 修道女シスターは神妙な面持ちで語る。


「……しばらくして、今度は男性の声が聞こえました。悲鳴でした。とても凄惨なことが起きていることだけは分かりました。……でも、私は恐ろしくて様子を見に行くことが出来なかったのです」


 修道女シスターが苦しげに顔を歪める。悔恨の念が見てとれた。

 しかし、それは正しい判断だったと、アレルは思う。


「……それ以降、外はすっかり静かになり、やがて陽が昇りました。そこで、私は意を決して外の様子を伺いに行きました。そこには――」


 呼吸を詰まらせて、修道女シスターの言葉が止まる。


「……何も、ありませんでした」

「……何も?」


 アレルが怪訝そうに問い返すと、修道女シスターはこくりと首を縦に振った。


「男性の姿も、何も見当たりませんでした。ただ、壊された納屋だけがそこにありました。一体何が起こったのか……」

「……」


 話を聞く限り、その旅人の男が生きているとは思えなかった。

 例えばその夜、魔物が現れたとして、男がそれを掃討した。そして男がそのままこの教会を去ったというのであれば一応の説明は付く。

 魔物は死体を残さないからだ。

 しかし、状況的に男が教会を去る理由が何一つ無い。夜更けという時間帯であればなおさらだ。


「二日前って言ったな。昨日は何も?」

「はい……少なくとも妙な物音みたいなものは聞いておりません」

「そう……」


 どうにも奇妙な事件を押しつけられたなと、アレルは心の中でフェイザーに悪態をつく。

 直近の彼からの依頼は、いまいち碌なものがない。


「……詳しい調査は軍の専門がやる予定になってんだけど。ただ、それをするにはまず安全を確保しなくちゃいけないんだ。とりあえず、しばらくここに滞在させてもらうけどいいんだよな?」

「はい、勿論でございます。……宜しくお願い致します」


 申し訳ございません、と修道女シスターは恭しく頭を下げた。

 修道女シスターを見下ろして、アレルはひとつの疑問を問う。


「……あんた、なんで逃げてないの?」

「……え?」


 修道女は、不意を突かれたかのように目を丸くした。

 事件の過程を語る修道女シスターの様子から、彼女はそうとうな恐怖を抱えていると思われた。

 それだけの事が起こり、そして未だ原因が判明していない。

 そんな現場に留まり続けることは、修道女シスターにとってどれだけ不安だろうか。


「軍に報告する為にラストスまで行ったんだろ? 戻ってこないでそのまま保護してもらえばよかったじゃないか」

「……はい、ラスティアードの方々にも同じ事を言われました。とても、ありがたいご提案でした」

「……」

「……でも、お断りさせて頂いたのです」

「……」


 不可解な修道女シスターの返答に、アレルが眉を顰める。


「どうして」

「この修道院は精霊様のご加護を受けております。故に、この身を捧げております私が、この場を離れるわけにはいかないのです」


 優しげに、修道女シスターが微笑んだ。


「……」


 修道女シスターの言葉に漠然とした不快感を覚えて、アレルは不自然に眼をそらせた。


「それは、命よりも大切なことだと?」

「……ええ、その通りでございます」

「……そう」


 それが彼女の生き方であるというのなら、それは致し方ないことだ。

 ちゃんと理解している――しかし、それでも。

 アレルは、死に急ぐ人間が好きになれなかった。

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