seconda: Episode 3
11
それはなんの変哲もない、特別な付加価値があるわけでもない。
ただの短剣だった。
三十センチ程度の諸刃のタガーナイフ。その辺の武器屋でほどほどの価格で売られているような粗末な代物だ。
長い年月をかけて使い古したもののようで、全体に細かな刃こぼれが見られる。
しかし手入れは丁寧にされており、今でも問題なく使うことが出来る。
アレルが人生で二番目に握った武器が、この短剣だ。
元の持ち主は名前も知らない、赤い瞳を持つ男。
偶然、そして唐突に幼かったアレルの目の前に現れ、這い蹲ってでも生きろ――そう言い放った男は、この短剣をアレルの前に放り投げて去っていった。
男とはそれっきり会っていない。もともと通りすがりの旅人だった。
シルエットも声色も全く覚えておらず、情報が無いので探しようがない。もし偶然通りすがったとしても気付くことは出来ないだろう。
そもそも、今現在生きているのかも不明だ。
きっとおそらく、もう二度と、会うことはないだろう。
あの当時、ほんの一瞬、この短剣で殺されることを渇望したアレルは、結果この短剣によって生かされた。
今では得物の扱いにも慣れ、自身に馴染む武器も手に入れ、もう使う機会はない。
しかし思い入れが強いせいで処分することも憚られ、今でも錆びないようにまめに手を入れていた。
長らく革袋の中で肥やしになっていたそれを、アレルは徐に取り出す。
捨てられずにいた理由はもしかしたらこの日のためだったのかもしれないと、柄にもなく運命的なものを感じて、おかしくて笑いが漏れた。
「ちび」
目の前の小さな背に向かって、名前を呼ぶ。
否、それは到底名前ではあり得ない名称だが、そもそも名前自体を知らないのだから仕方がない。
知る必要もないと思った。
アレルが呼ぶ為の呼称がひとつあればそれで用は足りるからだ。
それにしても『ちび』は安直過ぎじゃないか――と、フェイザーは苦笑いをしていた。まるで飼い犬みたいだと。
言われてみれば確かにそうかもしれない、が。
当の本人が嫌でないのなら――実際は反応が薄いので心証は不明だが――それでいいと割り切った。
ちび、と呼ばれたその少女は、ちらりとアレルを一瞥した。セカイの何ものにも一切興味がなさそうな、温度が感じられない視線。しかし、ほんの些細でも反応があるだけで、随分とましになったものだと感心する。
なかば強引に連れ回すようになってから、早いもので二ヶ月の月日が経っていた。
最初は思いの外、苦労した。
常に自分以外の何かを気にかけながら行動しなければならないというのは、想像以上にストレスを感じるものだということを初めて知った。
アレルは傭兵業を始めた当初からずっと一人で行動していた。中にはバディを組む同業者もいるのだが、アレルはあえてそれをしなかった。
腕が立つ故に、誘いを受けることも多々あったがその全てを拒んできた。
アレルは常に、一人でいることに拘っていたからだ。
そもそも生来一人っ子であり、己以外の誰かの面倒を見たことなど一度もない。
それを
とはいえ、常に世話を焼いているわけでもない。
アレル自身、何をすればいいのかが分かっていないからである。
最低限、魔物との戦いに巻き込まれないように気を配ることは心がけるが、意識していることはそのくらいだ。
ただひたすら後を付いてこさせている。背を見て学べ、というほどアレルに威厳はないが、それでもその行為によって何か得られるものがあるのならばそれでいいのではないか――そう思った。
実際、少女自身が何を思っているのかは、アレルの知る由ではない。
「これやるよ」
アレルは持っていた短剣を少女へと差し出した。
少女が、小首を傾げる。
ただ、目の前の短剣を呆然と眺めていた。
ほら、とアレルが急かすと、ようやくその細い腕で受け取ろうとおそるおそる手を伸ばす。
思っていたよりも重さがあったのだろう、短剣を受け取った少女の腕が沈み、その赤い瞳がほんの僅かに歪んだ。
昔の自分と全く同じ反応をしているな、と思い出して、アレルに笑みが漏れた。
「それをどう使うかはお前の自由だけど。そもそも使うかどうかも分からんけど、あたしはそれを使って戦ってきた。そんな生き方しか知らないからな」
そう、それ以外の生き方は知らない。人並みの平穏など、アレルの中には存在しない。
「知らないことは教えてやれないからな」
あたしに拾われたのが運の尽きだと思って諦めて欲しい――そう自分で言って、無茶苦茶だなと苦笑した。
当初はからっぽの頭を使って随分と考え、悩んだものだった。
拾ったからには最低限、ほんの必要最低限のことはしなければいけないだろう。
そう思って、アレルが最初にしたことは、少女の身なりを整えることだった。
伸びきっていた髪は、適当に切ってやった。本当に適当だった。
これが自分だったら文句を言うだろうなと感じるほどに。
少女に言葉がないことを、不謹慎だがありがたく思った。
そして、衣服。
ほどほどに傷が癒えて退院の許可が下りた後、動けるようになったはいいものの、少女は身に纏うものを何も持っていなかった。
元々着ていた衣服はあまりにも汚すぎて――そもそも衣服という定義を満たす為の原型すら留めていないほどボロボロに劣化しており――すでに処分済みであった。
悩んだ結果、まるで着せ替え人形だなと思いながらアレルは久方ぶりに呉服屋に赴いた。幼い頃はふわふわとした可愛らしい服が好きだったなとかつての感傷に浸りつつ選んだのは、極々質素でシンプルな布の服。
己のセンスの有無と値段との兼ね合いの結果だが、いくら凝ったところで所詮は消耗品である。
そもそも自分と行動をともにするというのなら、いくら汚しても大丈夫な格好をしてもらわなければ困る。
「お前さんらしいねぇ」
アレルが持ち帰った戦利品を見た診療所の老人はそう言った。
どうやら褒め言葉らしい。
「着飾る趣味はないからな」
「いいんだよそれで。何事も単純が一番綺麗なんだから」
「なんか哲学的だなぁ……」
理解するには些か困難な老人の話を聞き流しながら、アレルは少女に衣服の入った袋を手渡した。渡した、というよりは強引に押しつけて抱えさせた、といったほうが正しい。
手元の袋をぼうっと見つめたまま、少女は動こうとしなかった。しばらく様子を見ていたアレルは、やがて痺れをきらして口を出す。
「……まさか服の着方も分からんとか言わないよな?」
「……」
少女は無言のままだった。
声が出ないようだ、と老人は言った。
この際だからと徹底的に調べてもらったが、やはり身体には何も異常はなかった。
それでも、ひとつひとつの反応が一際鈍い。
そもそも生きるという気力がない故だろう、というのが老人の見解だった。
呼吸をしているだけでもえらいと老人は褒めていたが、先が思いやられてアレルは頭痛を覚えた。
面倒だが無理矢理着替えさせるしかないかと改めて少女を見遣ると、ふと彼女の首元にやっかいなものを見つける。
「傷跡……?」
「ああ、それねぇ。だいぶ古い傷のようだけど、そうとう酷かったんだろうね」
鎖骨付近から覗くのは直視するのも憚れるような古傷。
一体何で傷つけられたらそんな跡が残るのだろうと不思議に思うほど深い傷跡だった。
胸ぐらの開いた病衣だからこそ余計に目立つ。
「あらかじめ知ってたらそこんとこちゃんと考えて服買ったのに……位置的に際どいな。これ消せない?」
「傷跡を取ることは出来るよ。お金はもらうけどね」
「……じゃあいいわ、別に」
そんな別途オプション的なものは将来自力でやればいいだろう。そもそも本人が気にしているかも分からないことにいちいち手を焼いてやる義理はない。
「ま、なんか巻いときゃ隠れるか。じいさん、なんか適当な布みたいなのない?」
「急に言われてものう。患者さんの忘れ物の中に何かあったかもしれんが……」
「ああ、それでいいわ。それくれよ」
「図々しい娘だのう……」
グチグチと小言を言いながら、それでも老人の目は笑っていた。
「お前さんが楽しそうで何よりじゃ」
ふぉっふぉ、とふんわりとした白鬚を撫でながら老人が嬉しそうに言う。
「はあ? 楽しいもんかよ。楽しそうなのはあんただろ。あたしはどうしたらいいか分からなすぎて路頭に迷いそうな心地だよ」
「そうかい。それも良い経験だねぇ」
「……あんたの価値観はよく理解できないな」
傍らで
そんな少女を見下ろしながら、ああ、本当に前途多難だな――と。
アレルはため息をついた。
「ほら、とりあえず服着るぞ。じいさんは出てってくれ。……一応な」
「そりゃそうじゃな」
老人を部屋から追い出して、少女へと向き直る。
「服を着せるってどうしたらいいんだよ……介護してんじゃないんだぞあたしは」
「……」
洋服の入った袋を抱えながら、アレルは困惑に立ち尽くした。
ふたりの全ては、ここから始まったのだ――。
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