10

 自由とともに手に入れたのは、人としての尊厳と、一生涯手放すことを許されない後悔と罪だった。


 地に伏しながら泥水に顔を埋め、このまま眠りにつけたならどんなに幸せなのだろう、と。


 そう思っていたあたしに向かって、あの旅人の男は呪いの台詞を言い放った。



 *



 宙で真っ二つにされた魔物は、地に落ちる前に跡形もなく霧散した。

 死体を残さないという死に方は研究者にとっては厄介かもしれないが、討伐する側にとっては楽でいい。

 ひとつ難を挙げるなら、飢えた際に食料になり得ないことだろうか。人とも獣とも言い難い不気味な異形など、いくら腹が空いたところで口にしたいとは到底思えないが。

 そんな他愛のないことを思いながら、アレルは抜いた切っ先を鞘へと収めた。

 表だった任務はないが、ひとたび外に出れば魔物などいくらでもいる。

 市街から近場の街へと移動する途中、真っ直ぐ向かえばそう時間はかからない道のりであったが、陽はすでに暮れかかっていた。

 黄昏間近の空の赤みが大地に芽吹く草の艶に反射する。てらてらとしたその光景がやたら眩しくて、アレルは眼を細めて遠くの景色を眺めた。

 一通り周辺の魔物は一掃してしまった。どことなく燻った心を晴らすようにがむしゃらに身体を動かしていたが、八つ当たりの対象がいなくなってしまえば剣を振る意味もない。

 そもそも仕事ではないから金も出ない。誰が見ているというわけでもないから感謝もされない。


 不毛だな――と思い、アレルはその場にしゃがみ込んだ。


「……」


 最近、やたら思い出しかけることがある。

 それは遠い遠い昔の話。

 頭の奥深くに押し込めきれず、僅かに漏れ出た、ぼやけた記憶。

 そういえば、《あの時》もやたら赤い夕焼けだった。

 自身の身体も赤く染まっていた。夕日の茜色ではなく、返り血だった。

 ただどうすることも出来ず、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来ず、ただ時間が経つのを待つことしか出来ず、そして残された道は――。


「……なんで」


 徐々に、少しずつ、薄ぼんやりと霞がかっていた記憶が晴れていく。

 そう、一人の男がいた。

 逆光で顔はよく見えず、背がやたら大きかったことだけは覚えている。そして瞳がその夕日と同じ色をしていた。いや、夕日の色よりも色濃い赤だった気もする。

 そんな男が、いつの間にか自分の目の前に立っていた。

 その男は焼けるような緋色の瞳とは正反対の、酷く冷めた、温度を持たない冷酷な視線をアレルに向けていた。

 蔑む対象を見る時の、不快なものを見るときの眼だ。

 その眼を、アレルはよく知っていた。つい最近まで、自身がその眼をしていた。

 端から見れば随分と他人に不快感を与えるものだと、ぼんやり思った。

 その男はしばらくの沈黙の後、腰に携えていた短剣を抜いてアレルに言った。


 死にたきゃ勝手に死ね――と。


 はっきりと、思い出した。

 あの日、あの時、死ねと言われたのだ。

 何故、見ず知らずの男にそんなことを言われなければいけなかったのか。今ならそう思うことも出来るが、当時のアレルは他人の言葉を撥ね除ける強さがなかった。


 そうか、あたしは死ぬのか――。


 素直に思った。

 思ったはずだった。

 なのに。

 

 ……なのに?


「なんであたし、まだ生きてるんだろ」


 ぼそりと呟いて、ハッと我にかえる。

 しゃがみ込んだままどれだけの時間をその体勢で過ごしたのだろうか。

 いつの間にか日は暮れて、辺りは薄暗い闇に包まれていた。

 遠くに小さな街の灯りがぼんやりと見える。

 ゆっくりと立ち上がると、ずっと折り曲げていたせいか膝が鈍い痛みを訴えた。


「やたらでかい月だな……」


 空を仰ぎ見るまでもなく、視界の片隅に青白い光が輝いていた。満月だった。

 月の満ち欠けは魔力の力場の強さに影響すると言われている。思い返せば今日はやたら魔物を見かけたが、満月のせいだったのか。

 夜景を綺麗と思う感性は生憎持ち合わせていなかったが、今夜は感傷的になっているせいかどことなく風情を感じる。

 このまま街へと行くには勿体ない、もう少しだけこの景色を眺めていたい、そんな気がして、当てもないままふらりとアレルは歩き出した。


 適当に歩いていた。

 ほとんど無意識だった。

 ただ月が綺麗だったから、夜空を眺めながら歩いていた。


 やがて、たどり着いたのは切り立った崖だった。視線の彼方には一面の森が広がっている。どうやら、いつの間にか随分と歩いたらしい。

 森の上には闇。ただ無限に広がる夜の海。正面に浮かぶ大きな月はまるで一つの島のようだ。


 その月の中に、小さな一つの影があった。人の影だった。

 何故か驚きはなかった。

 なんとなく予感めいたものを感じていたのかもしれない。

 青白い月光に、銀灰色の髪がきらきらと輝いて馴染んでいる。まるで溶けてしまいそうだなと思った。


 ざっ、と。足音を立てて一歩踏み出す。

 人影はアレルに背を向けたまま微動だにしない。

 もう一歩、わざとらしく音を立てて近づく。

 やはり反応はない。

 そっと腰に携えた剣柄に触れる。徐に刀身を抜く。金属の摩擦音が、静寂を切り裂いて響く。

 それでもその子どもの人影に、反応はない。


 一歩、一歩と近づいて、剣を振り上げる。


 じっと視線を見下ろした先は、人間の急所。

 子ども故の、華奢な首元。

 このまま振り下ろせば、首をはねることは容易いだろう。

 それでもなお、目の前の子どもはなんの反応も示さない。

 醜悪な感情が、アレルの中に満ちていた。

 我慢して、抑え込んでいた苛立つ感情が溢れ出すのを感じた。

 一方で、冷静な自分がそうか、と納得する。


 今、ようやく理解した。


 あの時、燃えるように赤い夕焼けがやたら眩しかったあの日。

 あの見知らぬ男が、何故自分を蔑むように見下ろしていたのか。


「いいか、よく聞け」


 背後から、子どもの首元に剣の切っ先を突きつけたまま、アレルが言った。


「あたしは死に急ぐ奴が大っ嫌いだ。お前みたいな奴のことだ」


 頭に血が上っていた。冷静な自分が自制を訴える。

 しかし、込み上げる言葉は止まらない。

 同時に昔の記憶が鮮明に脳裏をよぎっていた。


 今目の前にいるのは、子どもなのか、それとも、かつての自分自身か――。


「死ぬって事は敗北と同じだ。お前は自ら負けようとした」


 ――悔しくないのか?


 はっきりと思い出した。そう、あの見知らぬ男はアレルにこう言った。


「お前はこのまま負けるのか。それでいいなら死ね。死にたきゃ勝手に死ねばいい」


 かつて、自分に放たれた台詞。記憶にあるまま、そっくりそのまま、今度は自分の言葉として言い放つ。


「もし、少しでも嫌だと思う気持ちがあるのなら這い蹲ってでも生きろ」


 それが出来ないのなら、お前はただの薄汚れた負け犬だ――。


 不意に、目が合った。

 アレルの言葉に、初めて、反応を示した。

 気怠げそうに首を擡げ、伸びきった前髪から少し、瞳が覗く。

 子どもの、虚ろな緋色の瞳の奥に、ほんの少し、稲妻にもにた苛烈な光を見たような気がした。



 *



「雪……いや、ひょうが降るんじゃないか。もしくは空そのものが落ちてくるか」

「うっ、うるさい!」


 呆れ果てたようなフェイザーの言葉に、アレルは眉間を歪ませて答えた。


「分かってんだよあたしだって! らしくないって!」


 成り行きなんだから仕方ないだろ、と声を荒らげて言い放つ。フェイザーはやれやれといった様子で首を振った。


「まあ、お前がいいってんなら別にいいんじゃね。オレが口出すことじゃねぇや」

「……くそ、他人事だと思って」

「他人事以外の何ものでもないからな」

「……」


 よくない。

 全くもって全然よろしくない。

 こんな展開は自分でも想定外だった。

 取り消すことが出来るなら取り消したい。

 人生のリセットボタンが目の前にあったなら迷わず連打する。

 時間を巻き戻す事が出来たなら、今すぐ実行して歴史そのものを改編するだろう。


「……なんで、あたしはどうして……こんな血迷った真似を……?」


 最近のあたしは気が狂ってしまったのか――本気でそう思った。もはやそうであるとしか説明がつかない。

 苦悩に頭を抱えるアレルに、フェイザーはやれやれとため息をついた。

 うっかり、つい感情にまかせて子どもを拾ってしまった。

 うっかりどころではない。自分で自分の行動が理解出来ず、酷く混乱している。

 やはり気が狂ってしまっている。こんなのは自分ではない。

 あの夜、子どもに対して辛辣な台詞を浴びせたところまではよかった。

 なかば八つ当たりのようなものであったが、言いたいことは全て言い切った。

 本当ならそこで立ち去るつもりだったのだ。


 ――そう、かつてのあの男のように。


「別に悪い事じゃないんじゃないか? お前も長らく一人だったんだ。たまには誰かと行動してみるのもいいだろうさ」

「……いや、だからってガキはねぇだろ……ガキは……」

「お前が拾ったんだろ」

「そうなんだけど……!」


 しかもただのガキではない。

 コミュニケーションのたぐいがまったくとれないのだ。

 声が出せないのだろう、と診療所の老医師は言った。そしてアレルは文字の読み書きが出来ない。それはあの子どもとて同じだろう。つまり、名前を聞くことすら現時点では不可能に近い。


「というかその相棒はどうしたんだよ。姿が見えんが」

「……とりあえずもう一度診療所にぶち込んできた。傷口開いてたからな……てか相棒でもねぇし……」

「お、じゃあなんだ? 養子か?」

「……それ以上冗談言うとぶん殴るぞ、おっさん」


 おお怖っ、とフェイザーは笑った。

 悩むアレルをおちょくるその姿はどことなく楽しそうだった。

 人の不幸を笑う典型的な例だ。非常に憎たらしい。


「まあ、こっちの都合を押しつけるのも何だが、実のところ助かるんだよな。お前くらいになれば特に心配することもないが、あんくらいの歳のさ、ちらっとしか見てねぇからなんとも言えないが、ああいうガキは、ほら……」

「……まぁね」


 語尾をぼかすフェイザーだが、言わんとしていることは分かる。アレル自身もかつて通った道だ。

 孤児オーファン、子ども、とくに女は、変な輩の餌食になりやすい、ということだ。


「……まあ手遅れかもしれねぇが。過去はともかく、この先不幸の種が一つでも減るってのはオレにとっちゃ仕事も減って都合がいいわけだ」

「過去はともかく……か」


 そう、手遅れかもしれない。あの子どもが、今までどんな人生を歩んできたのか、アレルに知る由はない。もしかしたら、アレルが想像する以上に、悲惨な時間を過ごしてきたのかもしれない。

 しかし、だからこそ、昔を顧みる意味はない。あの子どもにとって、大事なのは過去ではなく、これからの未来なのだ。


「……未来」


 ぽつりと呟く。それはアレルがずっと避け続けていた言葉だった。

 己には縁のない言葉。

 どれだけ恋い焦がれようが、どれだけ手を伸ばそうが、永遠に届くことはない。

 月が欲しいと泣くことと、同じように。

 しかし、あの子どもは違う。アレルにはない、歩むべき時間がある――。


「……」


 息を呑んだ。


「……アレル? どうかしたか?」


 フェイザーの問いかけに、アレルは答えない。

 一瞬、脳裏によからぬ思考がよぎった。

 それは、限りなく傲慢な考えだった。

 傲慢で、稚拙で、独りよがりの、独善的な思いつきだ。

 この思いつきを、あの子どもに押しつけることは、どんなに罪深いことだろう。

 しかし、それがなんだというのだ。

 罪ならもう背負っている。一生消えやしない、深く彫り込まれた血塗られた罪が。

 どうせ地獄に落ちる身だ。今更罪を重ねたところで行き着く先が変わるわけではない。


 ――ならば。


「おい、アレル!」

「……っ!」


 我に返る。目の前には訝しげに眉を顰めたフェイザー。


「……なんでもない」


 悪い考えであると自覚をしながら、一瞬見えた閃光が脳裏から離れない。

 それは唯一、アレルにとって、希望になりえる光だった。

 アレルは、無いはずの未来という時間を紡ぐ手段を、手に入れかけていた。


 それを手放すという選択肢は、もう選ぶことが出来なかった。

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