9

 もう何年も前の、霞に埋もれかかった記憶。

 やたら夕焼けがあかかった、それだけの記憶。


 気が付いたら、目の前に一人の男が立っていた。

 知らない男だった。

 特別な縁があったわけではない。おそらく旅人であっただろうその男が、ただ偶然、無様に死にかけていたあたしの前を通りすがりかけて、足を止めた、そんな些細な縁。


 血と、泥と、他にも何か、決して綺麗とは言えない色々なものでぐちゃぐちゃになったあたしを、その男はさも汚物を見るような冷え切った眼で見下ろした。

 男の背には背丈ほどの大きな大剣。そして腰には一振りの短剣があった。あたしはそれらを見て、いっそ、ひと思いに殺してくれればいいのにと思った。


 その大剣なら、あたしの細い首など一振りで飛ばせるだろう。

 その短剣なら、あたしの小さな心臓などひと突きに出来るだろう。


 あたしの視線に気付いた男は、徐に短剣を腰から抜いた。

 ギラリと夕日を反射して光る刃を目の前に、淡い期待を抱いた。


 やっと、ようやく、楽になれる――そう思った。


 しかしその思いとは裏腹に、男は当ての外れた台詞を言い放った。


「――――」


 その台詞は呪いとなって、今も尚、あたしを現世に縛り付けている――。



 *



 じぃ、と、男の無言の視線が不満に満ちた感情を訴えていた。近年ますます小じわの増えた目尻が訝しげに歪められ、一層歳を感じさせている。

 言葉で言われなくては分からないと、アレルはわざと気付かない振りをしながら平然と男の目の前に居座る。

 事務机デスクを挟んで向かいに、どこからか持ってきた椅子を引っ張り込んだのは数時間も前のことである。


「あー。めっちゃ暇だな」

「んじゃ帰れよ! 仕事の邪魔だ!」


 沈黙を破って男――フェイザーが声を荒らげる。


「邪魔なんかしてない。ただここにいるだけだ」

「目障りなんだよ!」

「ひっでぇなぁ」


 不服そうにアレルが頬を膨らませる。


「あんたが休めって言うから、ここで休んでるだけじゃん。何が悪いんだよ」

「……」


 しくじったな、とフェイザーが舌打ちした。

 どうしたもんだかと、白髪交じりの髪を掻く。


「お前、まじで無趣味なんだな……何かやりたいこととかないのか」

「ないよ。そんなんいきなり言われても困る」

「……」


 フェイザーの目が哀れみを帯びる。アレルは余計なお世話だと思った。


「もうさあ、その、なんだ、細々としたやつでいいからなんか仕事くんない? じっとしてるの苦手なんだよな……」


 懇願の意を込めて拝むように両手を目の前に重ねた。ついでに手を叩いてみる。

 フェイザーから暇を言い渡されてから七日の時間が経っていた。言われるがまま、休みは存分にとった。日頃感じていた睡眠不足も十分に解消された。十分過ぎて身体がさび付いてしまいそうだった。これ以上はもう、耐えられそうになかった。


「と言われてもなぁ」


 困ったようにフェイザーが視線を仰いだ。気怠げに傍らに置いてあった紙の束を手に取り、一枚一枚パラパラと捲っていく。


「ほんと、今はろくなのねぇぞ。これとかな」


 束の中から一枚引き抜き、アレルに差し出す。


「……何だこれ?」

「今現在、手元にある業務のひとつだ」

「……あたし読めないんだけど」

「……ああ」


 そういやそうだった、とフェイザーがアレルから紙を取り返す。


「家の掃除。家畜の世話。あと独り身の老人の話し相手……とかな」

「はあ? なにそれ」

「最近こういうの増えてんだよ。使えるもんがあるなら何でも有効活用しようっていう方針だそうだ」

孤児あたしらは使い捨ての道具かよ……」


 不快に思うも、生かされている立場故にぐっと口を閉ざす。そもそもフェイザーに文句を言ってもどうしようもない。決定権があるのは彼よりも遙か上の上層部のお偉い連中なのだろう。


「あたし、そういうのはちょっとな……」

「だろう?」


 そうだと思ってたんだ――とフェイザーは紙の束を元あった場所に戻す。

 アレルはようやくフェイザーが仕事を出し渋る理由を理解した。話を聞く限り、確かにいずれもアレルには向いていない。掃除など定住先のないアレルには無縁であるし、家畜の世話などしたこともない。人見知りはしない性質たちではあるが、興味のない人間と会話を強制されるなどたまったもんじゃない。そもそも老人と話が合うとも思えない。

 刃物の手入れくらいなら出来そうだが、あいにくそういったたぐいの依頼はなさそうだ。

 まだしばらく暇が続きそうだ――と、アレルががっくりと肩を落とした。


「……まあ、でも、そうだよな」


 ぼそりとアレルが呟く。


「剣なんて握らなくても食い扶持が稼げるような時代になったってことなんだよな。それは良いことだと思うよ」

「いくら孤児オーファンだからって、子どもに武器を持たせるのはどうなんだっていう一部の声が年々大きくなってきてな」

「今更じゃん。あたしだって昔は子どもだったのに」

「今もガキだよ。オレにとっちゃな」


 そりゃおっさんと比べればなぁと、アレルは笑った。


「色々変わっていってるんだな……」


 短い時間の中で、確実に時の流れを感じる。

 そこに覚えた一抹の不安と寂しさを紛らわせるように、アレルは口を開いた。


「そういや――」


 何気なく問う。


「最近新しい奴とか……来たりした?」


 フェイザーが訝しげに目を細めた。


「いや、来てねぇな」

「……そっか」

「……」

「……」


 不意に気まずい沈黙が流れる。


「……まだ診療所にいるんじゃねぇの?」


 フェイザーの言葉に、アレルは面持ちに不快さを滲ませた。


「……あたしは別に誰とは言ってない」

「このタイミングでほかに誰がいるってんだよ」

「……」


 確かに露骨すぎだったな、とアレルはうなだれた。


「……だって、もうあたし、金出してないし。普通に追い出されてる頃だろ」

「あの人が良さそうなご老人がそんなことするか?」

「……知るか」


 この七日間、考えないようにしていた。

 が、気になってしまうのだから仕方が無い。

 だからといって、自分から断ち切っておいてまた診療所に顔を出す図太さはさすがのアレルにもなかった。

 出来ることなら向こうしばらくは老人と顔を合わせたくない。


「んな気になるなら放り投げなきゃよかったろうに」


 呆れた様子でフェイザーが言った。うう、とアレルが呻く。


「そんなこと言われたってどうしようもないじゃん」


 罪悪感はあった。痛いくらいに感じていた。助けてしまったときからこうなることは分かっていた。

 責任がとれないのなら最初から見捨てるべきだったのだ。不用意に手を出してしまった己の判断ミスだった。


「……しばらく別のところで仕事を探す。そのうちまた来るわ」


 きっと、この街にいるのがいけないのだだろう。近くにいるから気になってしまう。

 気にかけても何も出来ないくらい、少しの間、遠くに行かなくては。

 逃げるように去っていたアレルの背を、フェイザーは無言で見送った。



 *



「ふぉっふぉ。久しぶりだのう」


 向かいから歩いてきた老人が、気安くアレルに声をかける。

 診療所の主だ。

 会いたくないと思った矢先の邂逅だった。


「七日はわりと最近の部類だと思うんだけどな……」

「おや、そんなに日が経っていたかい。久しぶりどころじゃなかったのう」

「……話がかみ合わない」


 不毛なやり取りだが、いつもの会話だ。

 変わらない老人の態度に安堵を覚える。


「あんた、こんな街中で何してるんだ? 今日は診療所は休み?」

「いいや。往診の帰りでの。今から帰るところだがお前さんも来るかい」

「行かないよ、用事もないし」


 いくら寂れた立地だからといって病院であることには変わりない。無傷で健康な人間が赴くところではないだろう――という理由で断った、が。老人にはどうやら違う意味に聞こえたらしい。

 しわだらけだが愛嬌のある顔が、少し悲しげに曇った。

 その顔は止めてほしいと、アレルは思う。

 老人は優しい。昔から変わらずそうだった。一切の容赦がない厳しいセカイで生きるアレルにとって、老人の存在は心の支えのひとつとなっていた。

 いわば、人生の恩人である。

 だから、悲しませたくなどなかった。


「……今ちょっと閑散期みたいでさ。別の場所で仕事探そうと思って。今から街を出るところだったんだよ。遅くなると野宿になっちまうからまた今度な」

「なるほどなるほど」


 老人が納得したようにこくりと頷いた。ふんわりとした白鬚が大きく揺れる。

 ならば――と、老人は言葉を続けた。


「もし……もし、じゃがな。外であの子どもにばったり会うことがあったら、よろしく言っといておくれ」

「……は?」


 老人のその発言で、あの子どもがもうこの街にはいないことを知る。

 追い出されているのではないか――と言った手前であるが、意外であった。この心優しい老人のことだ、意識が戻ったからといってすぐに解放するとは思っていなかった。

 金のこともあるが、それでも少しばかりの恩情がかけられるのではと思っていた故に、アレルは心底驚いた。


「なんだか気がかりでのう……」


 しかし、老人の気落ちしているような言動に違和感を覚える。


「……あんたが追い出したんじゃないのか?」

「いいやぁ。忽然といなくなっとって……もう何日前か……気が付いたのはお前さんが最後に来た翌日だったか」


 ということは、目が覚めたその日の夜にはいなくなったということか。


「せめて怪我が癒えるまではと思っておったでのう」

「……」


 腑に落ちた。やはり老人は優しい人間であった。アレル自身、昔は幾度となく手渡した金以上の世話をしてもらっていたものだ。


「……そもそも、怪我の程度ってどんなもんだったんだ?」


 記憶をよぎるのは夥しい血の海。そもそも生きていたこと自体が奇跡のようなものだった。あれから数週間が経っているとはいえ、一人でまともに歩けるものだろうか。


「深いよ。それはそれはね。きっと死ぬつもりだったんだろうね」

「……?」


 つもり――とはどういうことか。

 そうアレルが問うと、老人は言い辛そうに口を開いた。


「あれは自傷だよ」


 老人の言葉を聞いて、アレルは息を呑む。


「自分で自分の胸を刺した傷じゃった……近くにナイフか何か、それらしいものが落ちてなかったかい?」

「……さあ、夜で、森の中で、暗かったし。てっきり魔物か何かに襲われたんだと思ってたから」


 そうかそうか、と老人が納得したように頷いた。


「死のうとしてたところを意図せず助かってしまったんじゃ……また同じ事を繰り返すのではと思うとねぇ」

「……」


 ずくり、と痛みが走った。物理的な痛みではない、心の奥深くの、押し隠していた自分の感情が痛んだ。


 ああ、間違ってしまった。


 やはり、あの時、助けるべきではなかったのだ――。

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