8
流石は大都市――と、訪れる度に感嘆の息が漏れる。
行き交う人波の活気は生命力に溢れている。静けさに包まれる寂れた村の落ち着きも嫌いではないが、都会特有の喧噪もまた悪くない。
元気があるのは良いことだと思いながら、アレルは行く当てもなく街中を散策していた。
さて、どうしたものか――。
唐突に訪れた
宿に向かったところでまだ陽は高く、寝ようにも難しい時間帯であった。
視線を上げれば視界の先にあるのは一際大きな施設。民間人にも開放されている図書館だが、学が無くまともに字を読むことが出来ないアレルには縁遠い。
通りの脇に並ぶ露天商。見事に熟れた果実や瑞々しく美味しそうな野菜がずらりと陳列されている。しかし、現状特に空腹を覚えているわけではない。
向かいの大通りには確か武器屋があった。親子二代で営んでいる小さな店だが、品揃えは悪くない。しかしそれも今は間に合っている。
「はぁ」
時間を潰す趣味を持たない己を嘆くつもりはないが、このような手持ちぶさたな時だけは少しだけ、ほんの少しだけだが自身を恨む。
「仕方ないか……」
行く当てはない――が、強いて言うなら唯一、一カ所。もはや身を運ぶことが日課になりつつあるそこは、本音を言うならこれ以上行きたくなかった。
今日は何故だか、殊更嫌な予感がする。
――しかし。
「……結局ここしかないんだよなぁ」
足を止めたその場所は、街のはずれにある小さな診療所だった。
*
「おやおや、三日ぶりかな?」
「昨日も来たよ」
ふんわりとした白ひげをたわわに生やした老人が和やかにアレルを迎え入れる。
「まぁた怪我をしたのかい。
「……あたしをよく見ろ。どこに怪我をしてるっていうんだ」
老人が目を細めてアレルをじぃと見つめる。
「してないね」
「そうだよ。無傷だよ」
この老人が診療所の主である。
惚けた言動に不安を覚えるものの腕は確かで、穏やかな物腰も相まって世間の評判は極めて良い。アレルも昔から世話になっている旧知の医者である。
そして、拾った子どもを預けたのもこの医院であった。
「ああ、そうかそうか、あの子の様子を見に来たのかい」
ふむ、と老人が嬉しげに頷いた。
「ちょうどよかったね。今し方ね、目が覚めたところでね」
「……え?」
思いがけない報告に、アレルが驚いて息を呑む。
「ん? いや、昨晩だったかな?」
「……
呆ける老人に、傍らに立っていた少年がすかさず助け船を出した。
「おお、そうじゃった。ありがとう」
「いえ、いつものことです」
少年はアレルがこの医院に世話になる以前から老人の助手をしているようだった。歳はおそらくアレルとそう変わりないが、如何せん無口で愛想が皆無であり、面識はあってもまともに会話を交わしたことがない。
故にアレルが少年について知っていることは、その白髪を携えた容姿だけだった。未だに名前すら知らない。
昔、かつて一度だけアレルから話しかけたことがあったが、綺麗さっぱり無視された。それからはアレルも一切の干渉を止めている。
所詮は赤の他人だ。寂しいとも腹立たしいとも思わないが、医療従事者――だと思われる――としてその態度はどうなのだと疑問に、そして不安に思っている。
しかしその想いも、少年や老人にとっては余計なお世話なのだろう、とアレルは口に出すことなく胸の内に留めていた。
「……いや、今だろうが今朝だろうが昨日だろうがいつでもいいんだけど。……そっか」
――目が覚めた。
朗報であるのは間違いないのだが、アレルの心中は複雑だった。
もちろん、目覚めなければいいとか、そのまま死ねばいいのに、などと思っているわけではない。それならそもそも最初から助けてなどいない。
「おやおや、存外浮かない顔をしているね」
「……そんなこと、ないけど」
「声も心なしか沈んでいる様子だ」
「……いや」
「とりあえず会ってみようかね」
「……」
老人の言葉には落ち着いたイントネーションとは裏腹に、否と言わせまいとする異様な威圧感があった。静かに説教を受けているような居心地の悪さを覚える。
「どうぞ、こちらです」
少年が病室へと繋がる扉を開けてアレルを誘う。アイスブルーの底冷えした瞳がさっさと行けと言わんばかりにアレルに突き刺さる。
普段は目なんて合わせようとすらしないくせに――と、アレルは心の中で悪態をついた。
ああ、やはりここに来るべきではなかった。
不穏な予感を察知した己の直感に従わなかった後悔がアレルを襲う。
戸惑った様子のアレルを見て、老人は柔らかな白鬚をぽわんと一撫でして笑った。
「そんな迷子の子犬のような顔をするんじゃないよ。お前は何一つ悪いことなどしていないのだからね」
「……」
アレルの表情が歪む。
まるで、心の内を全て読まれているかのようだった。
*
小さな診療所に似つかわしい、簡素で粗末な白い
アレル達の足音には反応せず、上体を起こしたままじっと窓の外に視線を向けている。青みを含んだ銀灰色の髪に隠れてその表情を確認することは出来ない。
「……まさか」
ぼそりとアレルが呟く。その意図を察し、答えるように老人が首を横に振った。
「いや、聞こえてはいるようだよ。ただね」
「ただ……?」
「どうやらね、声が出ないようだ」
「……そう」
そう聞いて、特段驚きはない。
「身体は異常ないよ。怪我以外はね。心の問題だろうねぇ」
「……よくあることだ。特に、あたし達みたいなのにはさ」
みたいな――とは
家や家族、それに準じた大切な何か――それを失っている、もしくは最初から存在していないのだ。頼れる者がなく、身体も心も傷だらけであることは不思議でない。それを癒やすのも容易ではなく、苦難を乗り越えられるかどうかは当人自身の問題である。
「……」
――そう、これは他人が関わることではない。
子どもを一瞥して、アレルは無言で部屋を出た。それを老人が追う。
振り返らないまま、アレルが言った。
「悪いけど、あたしにこれ以上出来ることはないよ」
はっきりと言い切る。
「……そうかい」
「今日までの金は払う。でもこれが最後だ」
老人の瞳に憂いが帯びたのを見た――が、気付かない振りをした。
何を期待されているのかは聞かずとも分かっていたが、こればかりはどうしようもない。
どうすることも出来ない。
自分とは違う命の責任を負うなど、出来るわけがない。
アレルには見ず知らずの他人の面倒を見る義務も義理もないのだ。
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