seconda: Episode 2
7
絶えず、胸の内の鼓動が刻む。
近い未来に訪れるであろう終焉への足音。
ゆっくりと時間をかけて全身を蝕む絶望は、やがて心にまで浸食していった。
凍えるように冷たい血の巡りが《あたし》から《あたし》を引き離す。
夜に呑まれる感覚。悪夢に喰われる感覚。闇に溶けていく感覚。
――その痛みに気付かない振りをするのは、きっと、もう限界なのだろう。
「全っ然……足りない!」
ダンッ、と振り下ろされた両腕が机上を叩く。
その振動で転がった一本のペンがコツンと音を立てて床へと落ちた。
突然の物音。
驚く周囲の人々。喧噪とした場が一瞬にして静まり返る。
が、電話が一鳴りしたのを皮切りに再び元の日常を取り戻していく。
とある施設の一角。
広いとは言い難いその部屋は、この国に従事する者達の仕事場であった。
そこに突如現れた来客は、人目を憚ることも忘れて一人の男に詰め寄っていた。
「もっとさ、こう、なんて言うか、あれだよ。まとまった金になるような大きい案件はないんですかね!?」
必死さを纏った声色。
その声の主を目の前に、壮年の男がやれやれと呆れた様子でため息をついた。
「んなこと言われてもなぁ」
転げ落ちたペンを拾いながら、面倒くせぇ、と気怠げにぼやく。
「今は人手が足りてんだよなぁ。魔物どもも落ちついてるって話だし、お前の手を借りるような件は、まぁ、無ぇってことだ」
「マジかよ。不況か? ちゃんと仕事してんの?」
「馬鹿言ってんじゃねぇ、そりゃオレのせいじゃない。あと平和を嘆くな。バチ当たっても知らねぇぞ」
何かあったらこっちから呼ぶから――と、もう帰って欲しいという意味を込めて、男は厄介な来客の目の前で手を振った。
来客――アレルは苛立って舌打ちをする。
「いいよなぁ、公人様は。こうして座ってるだけで金が出るんだからな」
「……」
アレルの理不尽な悪態を男は無言で受け流す。
端から見れば同情されて然るべき哀れな状況だが、周囲の人間は我関せずといった様子で気にかける素振りすらみせない。むしろ、一切の関わりを持ちたくないという意思すら感じられる。
誰も助け船をだしてくれないなんて、酷く冷たい連中だ、それでも長年共に働いてきた同僚なのか――と、男は毎回思う。
そう、毎回だ。
この職場では、こんな光景は日常茶飯事であった。
あまりにも日常過ぎて、もはや周囲の人の目には少女が男にじゃれついているようにしか見えていないのだ。
どうしたものかと男は困った。
「別にお前、生活に困ってるわけじゃないだろ? 今までどんだけ稼いだと思ってんだ」
「それは関係ない! 問題なのは持ち金の残高じゃなくて出ていった額なんだよ!」
「……いや、自業自得だろ?」
「うっ……」
「柄にもなく余計なことするから」
「……」
そんなことは分かっている、と言いたげなアレルの冷めた視線が男に突き刺さる。しかし男は動じない。もう慣れているのだ。
「……睨まれようが泣かれようが無い袖は振れないからな」
「ちぇ」
不満そうな面持ちは相変わらずであったが、一応諦めがついたようだ。
男はふぅと息をついた。
毎度毎度面倒で仕方がないのだが、ビジネスパートナーのご機嫌取りも男の仕事の一つだった。
アレルと男とは、もう何年も前からの古い付き合いになる。
男の名はフェイザー。
このセカイの中心を担う巨大国家――ラストス帝国に属する公人である。
彼の仕事は多岐に亘るが、そのうちの一つが国が抱える《傭兵の管理》である。
傭兵とは言葉通りの雇い兵のことであるが、この国には《傭兵制度》と呼ばれるシステムがあった。
それは主に
孤児であったアレルはこの制度を利用して、魔物の討伐を生業にしながら生活を維持していた。
故に、フェイザーにとってアレルは、少々面倒のかかるビジネスパートナーであり、娘のような存在でもあった。粗末な対応をしているように見えて、これでも一応それなりの気遣いと心配はしているのだ。
「というか、お前」
フェイザーが問う。
「そもそもあれをどうするつもりなんだ?」
「……あれ?」
その曖昧な単語に、元より不満に満ちていたアレルの表情がいっそう歪む。
あれが何を指しているのかは説明せずとも本人がよく分かっているだろう――それ故の苦々しい反応。
「言うまでも無いだろうが、オレは立場上何もしてやれないからな」
「……そんなことは分かってる」
何かを言いたげな――おそらく、何も出来ないならせめて仕事をくれと言いたいのだろう――そんな思惑を押さえ込んだ様子で、アレルは眉間を強く揉んだ。
気の短さを自覚しているのか、苛立つ感情を理性で押し殺そうとする努力をしているのは褒められたものだが、問題はそれが表面に漏れていると言うことだ。まったく隠せていない。
大人の社会でしっかりと自立をしているようで、まだまだ子どもだな、と微笑ましく、そして心なしの安堵をフェイザーは感じたのだった。
*
この数年は生きる為の金に困ったことがなかった。剣の腕ひとつで食い扶持が舞い込んできていたからだ。
特に贅沢をしたいという欲も習慣もないので有り金は常に十分だ。むしろ、十代後半という若年の割には懐が潤っているという自負もあった。
貯め込み過ぎても腐らせるだけだ、とフェイザーは言う。金は使ってこそ価値が生まれるのだと。その彼の言わんとすることはアレルにも理解できた。
しかし持ち前の節制癖――自分では
そう、過剰な消費をする習慣がないのはただ単にアレルが金を使うのが下手なせいでもあった。
だからこそ、此度訪れた《事件》は今まで味わったことのない苦痛をアレルにもたらしたのであった。
そんな事情故に半ば八つ当たりのようにフェイザーに恨み言を浴びせてしまった。それについては後に反省しなければいけないとアレルも自覚している。
フェイザーには何も非はない。
悪いのはほんの数週間前の自分の行いなのだ。
今アレルがいるのは、ラストスと呼ばれる帝国の中枢部である。ラスティアード統制機関――そう呼ばれるこの組織は、国内に止まらずセカイにも及ぶ強大な権力と軍事力を誇っている。
傭兵として雇われているよそ者の身のアレルには組織の全容など知る由もないが、知る必要はないし知りたいとも思っていない。
アレルにとって、生きる為に必要な仕事とその対価さえ貰えるなら雇い主の詳細などさほど重要なことではなかった。
そしてつい先日、アレルは組織の用命でとある村へと赴いた。一騒動あったものの、無事に任務を果たして国へと帰る道中、あれと出会ったのはその時だった。
出会った、というよりは、拾ったという表現の方が正しいかもしれない。
「軽はずみってやつだな。何も考えずその場の思いつきで行動するから後悔するんだよ」
「だから! 分かってるっての!」
アレルが拾ったのは、小さな子どもだった。
鬱蒼とした森の中で夥しい量の血に塗れた肢体は、すでに亡骸と化していると思った。常識を考えてそれ以外ありえなかった。
あまりにも凄惨かつ悲惨な状況だったが為に、墓でも作ってやるかという普段ならば絶対にありえない気を起こしてしまった結果、死体だと思っていたものがそうではなかったということに気が付いてしまった。
「……そのまま放っておきゃよかったのによ」
「ああもう! 何度も言わせんな! んなこたぁ分かってんだよ!」
当然ながら気付かなかったことにして素通りするという選択肢はあった。しかしその時のアレルにはそれが出来なかった。
「だって! 化けて枕元に出られたら怖いだろうが!」
「……」
戯れ言でも言ってないとやっていられない、とアレルは自棄になっていた。化けて、とはもちろん冗談であったが、目の前に救えるかもしれない命があり、それを見捨てるという選択がアレルにはどうしても出来なかった。
「助けたことに関しては後悔してない。問題は治療費なんだよ、治療費。なんであんなにバカ高いんだ!」
「身分不詳の
「……痛いくらい分かってるよ」
アレル自身が
誤算は、アレルは生死を彷徨う程の大怪我、もしくは大病を煩ったことがなかったということだった。
子どもは幸い命を取り留めたが、数週間経った今でも意識が戻っていない。
病院のベッドをひとつ埋めるということが、こんなにも金がかかるということを、アレルは知らなかったのである。
「そういやティアの奴がぶったまげてたなぁ。お前がさっそく訪ねてきたと思ったら金の無心されたって」
「……いや、だってあれ、高給の割に使い道なくて貯め込んでそうなタイプじゃん。だから別にいいかなって」
「違いねぇな」
はは、とフェイザーが笑い声を上げた。
「自分の金は嫌で他人の金はいいってどういう理屈だよ。どう考えても借金抱える方がヤバいだろうが」
「もちろんちゃんと返すよ。気が向いたらな」
「ひでぇ奴だな……」
性根がケチであるが故に一度に大金を失うことに耐えがたい苦痛を覚えたアレルは、少しでも気を紛らわそうと知り合ったばかりの学者に借金までした。
それでも心に負った不快感は癒えることなく、現状を打破するべく仕事の無心をするに至っている。
ぽっかりとあいた穴を埋めたいと思うのは素直な人間の
「まあ、細々とした仕事ならいくらでもあるんだが、お前にとっちゃどれも役不足なんだよな。無駄な体力使うくらいならこの機会に少し休んだらどうだ?」
「……休み?」
アレルが困惑する。
「……何だ、休みって」
「……いや、休みは休みだろ」
「……」
休み――という概念がアレルの中に存在しなかった。夜に必要最低限の睡眠さえとれれば、それで十分だったからだ。
首を傾げて考え込むアレルの様子に、フェイザーは小さくため息をついた。
「今までも散々お前に言ってきたけどな、いくら有能だからって一人に仕事集中させるとオレが上層部からお咎めくらうんだよ。中間管理職のつらいところだな」
だから聞き分けてくれ、とフェイザーが言う。
アレルはこれ以上返す言葉がなかった。
仕方がない、という変えようのない現実と、困ったな、というどうしようもない感情が交錯する。
アレルは、何もしない時間、というものがとても苦手だったのだ。
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