primo: Episode 1.5

6

 薄暗い部屋の中は、強いカビの臭いが籠もっていた。薄暗い灯りが照らすのは無数の本。埃の被ったそれらのうちの一冊を、少年は徐に手に取った。あまりにも古びているせいか、紙の一枚一枚が張り付いている。


「そんなの読めんの?」


 少年の背後から声が聞こえた。そこに人の姿はなく、あるのは闇だけだった。


「読めませんよ。状態が悪いせいもありますが、そもそも言語が古過ぎます」


 姿のない《闇》に、少年は臆することなく答える。


「これが解読出来るのは帝国の研究者くらいでしょうか。癪ですがね」

「うわぁ、天敵じゃん!」


 《闇》が嘲るように笑う。少年もつられて苦笑した。


「まあ時間はあります。むしろおかなければならない」


 癒着した紙は想像以上に劣化が著しい。下手に力を加えればこの古の遺産はたちまち紙くずと化してしまうだろう。そう判断して、少年は諦めて表紙を閉じた。前途はなかなか多難なようだ。


「今回は少し軽率に動いてしまいました。あの遺跡、思っていたよりも古い時代のものだったので……手探りでいじってみたはいいものの中途半端に目覚めさせてしまったせいで鼻の利く学者をおびき寄せてしまったようです」

「僕は忠告したよ? 分からないなら一度退けって」

「あの村の人間の目を盗んであそこまで行くのは骨が折れるんですよね……。この本の言語はあの遺跡と時代を同じくするもののようですから、まずはこれの解読から、ですね。どのみち骨が折れそうです」

「そういやあんた、石碑に奇妙な術式を被せてたけどあれはなに? 意味不明で気持ち悪かったんだけど」

「時間稼ぎのカムフラージュです。あれを解かない限り石碑そのものを調べることが出来ない仕組みになってます。他人に下手に触られると困るのでね……即興で組みましたがまあ割と自信作に仕上がりましたよ」


 不敵な笑みを浮かべて、少年が言う。


「法則性のないでたらめの術式ですが所々含みを持たせているのでパッと見は意味深なんです。意味などない、という結論に至るまではかなり時間がかかると思います」

「あはは。いいね、そういうの。性格悪そうって感じ」

「貴方に言われたらお終いですね……」

「てかさ、村が邪魔なら僕がいつでも消してあげるよ? というか、いつもならそうしてるよね?」

「あそこはね、一応、帝国領ですから。目立つ行動は控えたいんです。貴方も先ほど言った通り、天敵なので」


 ふうん、と《闇》が呟く。どことなく不満そうだ。


「……でも、最終的には消えるんだよね?」


 ――じゃあさ、今やっちゃっても同じじゃん?


 期待に満ちた闇の囁きが、少年を唆す。今にも力を示したくて我慢がならない、そんな様子が窺える。

 さて、どうしたものか。

 少し考えて、少年は否定の意味を込めて首を振った。


「駄目です」

「……けち!」

「物事には順序というものがあります」


 今はそのときではない、と少年は《闇》を諭す。


「なので大人しくしていて下さい、ね?」

「ちぇ。つまんないの」


 軽く舌打ちをしたあと、《闇》の気配が消えた。廃墟に完全なる静寂が満ちる。

 なんだかんだと文句は絶えないが、最終的には言うことをきく。そんな存在に可愛げを覚え、少年の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。


「人の生死など結果論だと何度言えば分かるのか。目的ではないのだと、まあ、貴方に言っても永遠に理解など出来ないのでしょうね」


 その瞳に感情はなく、ただ虚ろに深淵を見つめていた。



 *



「くそ、しくじった」


 体力の限界すれすれの、疲労混じりのぼやきは誰かの耳に届くことなく、暗闇の空間に虚しく消える。周囲に人の気配はなく、あるのは鬱蒼と茂った草木と無数に生える木々。それらをかき分け、時には剣で切り開きながらアレルは重い足を前へと運ぶ。

 昼間の時点ではそこまで深く感じなかったただの雑木林が、闇に包まれた途端に未踏の樹海と化した。

 陽はとうに暮れて今は真夜中。しかし闇が明けるにはまだ時間がかかる、そんな刻。なぜそんな非常識な時間に雑木林などを歩いているかと言えば、理由は単純。

 迷ったからである。


「くっそ……あの似非商人ぜってぇ許さん!」


 胸の内の鬱憤をはき出すように叫ぶも、再び夜の闇に吸い込まれる。はあ、とため息をつくも募るは疲労感ばかり。雑木林に入った時には持っていたは用を果たすことなく革袋に放り込まれている。


 遡ること十時間ほど前のこと。アレルは地図とにらめっこをしていた。村から帝都ラストスへと向かう道中。歩いて半日という道のりであったが、今日のアレルはなんとなく気怠さを感じていた。体調が悪いというわけではなく、特に理由はなかったが歩くという行為に気が乗らなかった。アレルにとってこういうことは珍しくない。気分にむらがあるなのだ。


「この森、つっきれないかな」


 いつもなら迂回する雑木林。原生林で道はないが外から見た限りではそこまで草深いとは思えない。地図上では広大な範囲のようだがまっすぐ帝都へと進めば間違いなく迂回するより近道になるだろう。


「そういえばさっき露天商がいたな」


 ふと、先刻通り過ぎた存在を思い出す。そこでは旅人の需要を当てにした小物が数多く売っていた。まっすぐ進めばよいとはいえ森は森。くらいは持っていた方がいいだろうと思いつき、アレルは踵を返して露天を訪ねる。

 まさかこの時買ったがまったく役に立たないとは、この時は思いもしなかった。


「無駄な買い物をしてしまった……」


 力任せに草木を叩き切りながら、アレルは暗闇の中を進み続ける。

 野宿という選択肢もあったが周囲には魔物の気配もあった。数もやたら多い。魔物は魔力に引き寄せられる習性があると言われている。ということは、この雑木林は魔力の力が強いということだろう。そして、その強い魔力はアレルのを早々に狂わせてしまった。


 魔力と魔力は引き合う性質を持つ。はその性質を利用して作られていた。このセカイは北の方角に強大な魔力の力場が存在する。故に、針の先端に微量の魔力を纏わせることで常に針は北に向くようになるという簡単な理屈だ。

 しかし魔力にはもう一つ性質があり、これが重要だった。小さな力は大きな力に打ち消されてしまうというものである。わずかな差では影響はないのだが、この雑木林を包む魔力の力は、の微弱な魔力など一瞬でかき消してしまうほど、大きかった。

 強い魔力の力場は帝国内では保護対象区域になっており、この雑木林も例外ではない。それ故に、未だ尚、人の手の入らない原生林のままだったのだ。が、そんなことはおかまいなしとアレルは次々と覆い茂る草木を踏み倒していく。

 もうどうにでもなれ、と自棄になっていた。


 そんな訳で決してが不良品というわけではなかったのだが、アレルは苛立ちを向ける相手が欲しくて露天商の顔を思い浮かべては胸の内で悪態をついた。ただの八つ当たりだ。

 普段通り、補整された回り道を行っていれば、今頃は清潔な敷布シーツの上で上質な睡眠をとることが出来ていただろう。食事も然り。歩くことに気が乗らなかったのなら馬車を使うべきだった。の代金の何倍もかかるだろうが今のこの惨状を思えば十分安い。


 次からそうすればいい。今は仕方がない。


 折れそうな心を励ますように、そう強く、自分にいいかせた。

 暗闇の中で視界を照らすのは淡く光る灯火ランプ。魔力にはもう一つ、変質作用というものがあった。水や火、熱などに姿形、性質を変えることが出来るというものだ。しかしこれには特殊な術式が必要となり無教養の一般人には到底理解出来るものではなかった。そこで開発されたのがあらかじめ術式を仕込んである《魔力器具》と呼ばれる道具である。灯火ランプはその一つであり、どんな人間でも扱えるようになっていた。

 いつもならもう少し強い光を放つのだが、今は限りなく淡く弱々しい。これも、雑木林の魔力の力場の影響を受けている故だろう。直接術式を仕込んでいるためか、力場内であっても完全に魔力が打ち消されていないことが救いだった。

 迷子になって視界も奪われては、さすがのアレルの心も真っ二つだ。


 ふと、嗅ぎ慣れた臭気が鼻先をかすめる。

 遅れて灯火ランプの淡い光がとらえたのは、鮮明な赤色。


「……血?」


 異変を感じ取り、アレルは歩みを止めた。

 足下に広がる血溜まりの先に、塊が見える。人のようだった。


「……酷いな、魔物にでも襲われたのか?」


 近づいて惨状を把握したアレルは思わず眉を顰めた。

 人のような塊は、うつぶせに横たわる小さい子どもであった。身なりは酷くみすぼらしく、その容相から孤児オーファンだろうと推測する。


 ああ、またか――とアレルは思う。


 孤児オーファンにはよくある光景だった。

 アレルは今まで幾度となく同じ光景を見てきている。アレル自身が孤児オーファンだったからだ。

 親の庇護のない孤児オーファンは自分で自分を守るしか生きる術がない。しかし非力な幼い子供では限界がある。

 アレルのように自ら生きる力をつけることが出来る人間はごく僅かであった。

 さらに、帝国内では孤児オーファンに対する支援が制限されていた。ひとりひとり助けていてはきりがないからという一方的な理由だ。その代わりに存在するのが《傭兵制度》である。最低限魔物と戦える術さえあれば性別年齢問わず軍から仕事が与えられ、相応の報酬が得られるという制度だ。アレルはそれを利用して生計を立てている。

 結局のところ力なき者は淘汰されるという現実に変わりはなく、この《傭兵制度》は賛否が分かれている。しかし所詮外野の声であり、孤児オーファン達にとっては唯一平等に与えられる権利であり、最後の希望であった。


 この子どもは、その希望に辿り着くことが出来なかったのだろう――。


 帝都に向かう途中だったのか、それともただ森に迷い込んだだけなのか、アレルがそれを知る由はない。

 唯一分かるのは、今ここにあるのは非常な現実だけであるということだ。

 墓くらい作ってやるか、と思ったのはほんの気まぐれだった。村で人の好意に触れた影響もあるかもしれない。普段ならよくある事象として通り過ぎることも多いのだが、今日はなんとなくこの哀れな子どもに同情してしまっていた。

 血の鮮明な赤色は事が起こってからそう時間が経っていないことを示している。腐敗してしまっていたなら触れるのも憚られたが、今ならそう抵抗もないというアレルの都合もあった。


「さすがに金目のもんは持ってないよなぁ」


 まるで追い剥ぎみたいだなと思いながら、屈み込んで子どもの衣服に触れる。

 アレルが自分の間違いに気づいたのはその時であった。

 ハッとして手を止める。


「まさか」


 感じた違和の正体を確かめる為に、子供の頸部に触れる。極めて微弱で今にも消えそうなそれは、しかし確実にアレルの指先に伝わってきた。

 まだ、脈がある。


「生きている……?」


 しかし虫の息であるのは間違いない。この出血では長くはもたないだろう。

 灯火ランプが照らす小さな頬は陶器のように青白い。泥と血に塗れなお際立つそれは、どこか艶さえ感じさせる。

 背筋に走る悪寒に、アレルは思わず息をのんだ。

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