primo: Episode 0
5
人里離れた小さな家。
友達と遊ぶにはちょっと不便だけど、大事なあたしが生まれた場所。
優しい母と、聡明な父。
――それが、あたしのセカイの全てだった。
卓上に並ぶのは大好きな母の手料理。いただきますと行儀良く手を合わせると、母はどうぞ召し上がれと言う。そんないつもの光景だけど、最近はちょっと違った。
「パパは今日もいないの?」
食卓を囲むのはあたしと母の二人。父親の姿がない。
「最近いつもだわ。昨日なんて顔も見てない」
「パパはね、忙しいのよ」
我慢しましょう、と言う母の面持ちもどこか寂しげだった。
「ご飯くらい一緒に食べてくれればいいのに」
父はいつも忙しかった。会ってまともに話が出来るのは食事の時間くらいだった。仕方が無いのは分かっているけど、子どものあたしは寂しいと思う気持ちが強くてつい不満を漏らしてしまう。そんなあたしをいつも穏やかに宥めるのが母の役目だった。
「そうだアリーシャ、明日は市街へ遊びに行く日でしょう? クッキーを焼いたから持って行ってお友達と食べるといいわ」
「ほんと!? ママのクッキー大好きよ!」
あたしの機嫌がどうすればよくなるのか、母はよく心得ていた。いつも母親の一言ですぐに嫌な気分が晴れるから、それがまるで魔法みたいだと思っていた。
そうあたしが言うと、母親は嬉しそうに、じゃあママは神様なのねと笑う。
魔法は精霊様の御業である――というのは父の語りぐさである。精霊様とは一般的にこのセカイを創世した存在、俗に言う神様のことである。
魔法とは精霊様の力を借りて行う儀式であると言われ、父は学者で主にそれらの研究をしていた。
仕事である、と同時に趣味でもあったのだろう。精霊様の話をする父は、いつも瞳が輝いていた。
子どものあたしには難し過ぎて父の話の意味などこれっぽっちも理解できなかったけど、活き活きと語る父親の姿はとてもかっこよく見えて、誇らしく思っていた。
そんなあたしは、本当に純粋で、愚かだった。
「明日もパパ、忙しいのかな」
「じゃあ、ママが伝えておくわね。アリーシャが寂しがってるって」
「うん!」
何も知らなかった《あの頃》は、夢と希望に満ちていた。
母は陽の光のような温かな人だった。いつも暖かい手のひらで頭を撫でてくれた。たったそれだけのことで、あたしはセカイで一番幸せな女の子になれた。
将来は母のような素敵な女性になることを夢見ていて、そしてそんな未来が訪れることを信じて疑っていなかった。
そんなささやかな幸せに満ちた生活の中に、ぬぐうことも叶わない
*
翌朝、普段より早く起きて支度をした。身を包むのはお気に入りのワンピース。あとは寝癖を整えるだけだったけれど、あたしはあまり器用ではなくてなかなか思うように出来なかった。頑張ってリボンを結うが何度挑戦しても曲がってしまう。
「できた!」
ようやく納得が出来たのは鏡と向かい合って一時間が経った頃。母がやるように綺麗に、とはお世辞でも言いがたい出来だが、自力の割には今までで一番まともだった。
「アリーシャ、起きてるの?」
扉の外から母の声が聞こえた。
「ねえママ、みて!」
努力の成果を見てもらいたくて、慌てて扉を開けた。
勢いに驚いて、母が目を丸くする。
「もうお着替えしたの。今日は早いのね」
いつもお寝坊さんなのに、と笑われる。
「今日のあたしは少し違うのよ。ほら、髪だって一人で結ったのよ」
得意気にいうあたしに、母は嬉しそうに眼を細めた。
「あらあら、上手にできたのね」
「でしょ? もうママがいなくても大丈夫なのよ!」
一人前のレディになるんだもの――それは当時のあたしの口癖だった。酷くませたガキだったが、母はそんなあたしを決して馬鹿にすることはなかった。
「ふふ、頼もしいわね。じゃあ今度はご飯を作ってもらおうかしら」
「う……ま、まかせて!」
料理など一度もしたことはなかったが、意地悪そうに笑う母に見栄を張った。はやく大人になって、認められたくて、随分と背伸びをしていた。
ママがいなくても大丈夫――そんな子どもの戯れ言が、後に残酷な現実になるなんて、この時は思いもしなかった。
「あ、そうだ! あのね、ママ」
大切なことを思い出す。早起きをしたのはもうひとつ理由があった。
「あのね、プレゼントがあるの!」
今朝、こっそりと家を抜け出して作ったそれは、不器用なあたしが唯一得意だったもの。
「ママ、お誕生日おめでとう!」
こっそりと戸棚に隠しておいたものを取り出す。それは白い花弁を付けた可憐な花の、冠だった。
「まあ、綺麗! とても嬉しいわ」
ママの好きなお花ね、と母は快く受け取った。
花に負けないくらい綺麗で、優しくて、大好きな。
それが、あたしが最後に見た、母の笑顔だった――。
*
市街へと向かう道は豊かな木々に囲まれていた。魔物の気配に注意しながら通い慣れた道を歩く。
注意をするといっても、あたしは今まで魔物を一度も見たことがなかった。
ここは魔物が存在しない地域なのだと、父が言っていたのを覚えている。だからこそ、子ども一人でも問題なく出歩くことが出来たのだ。
「……?」
向かいから歩いてくる人影が見えた。とても珍しいことだった。付近には人が訪れるような場所はなく、あたしの家があるだけだったからだ。
「ああ、ちょうど良いところに」
人影は、あたしの姿を確認して目の前で立ち止まった。
子どもだった。男の子だ。歳はあたしと変わらないくらい。
「オーティス博士のご自宅にお伺いしたいのですが、この先でしょうか?」
少しだけ色素の抜けた癖毛が、日の光でキラキラと輝いていた。同じくらいの歳のはずなのに、丁寧な物腰から随分と大人びてみえた。
そして何より目を惹くのは、彼の瞳だった。
左右の虹彩の色が違う。
左目はあたしと同じ綺麗な若葉色、右目は月の光を思わせるような不思議な金色をした、
その色彩のアンバランスさが、少年を神秘的に彩っていた。
つい目を奪われていると、少年は不思議そうに小首をかしげた。
「私の顔に何か?」
「……!」
ハッと我に返る。まじまじと人の顔を見つめるなんて、恥ずかしいことをしてしまった。
「オーティス博士って、あたしのパパよ! 家はすぐそこだけど、案内しましょうか?」
恥ずかしさを紛らわせるように、慌てて少年の問いに答えた。
「いえ、たぶん、ひとりで大丈夫でしょう。ありがとうございます」
一礼して、少年は再び歩き出した。
「……パパになんの用なのかしら」
その背を見送りながら、不思議に思う。客人自体珍しいのに、子どもが訪ねてくるなんて初めてのことだから。
「ま、いっか」
特に深くは考えることなく、そのまま母が持たせてくれたお菓子を抱えながら、友達の待つ市街へと急ぐ。
たとえ家に引き返していたとしても、きっと結末は変わらなかったのだろう――しかし、この時のことをあたしは一生後悔することになる。
*
「ママ? いないの?」
夕刻。帰宅するといつもおかえりと言って出迎えてくれる母がいなかった。出かける予定があるとも聞いていない。
「ママ、どこ?」
初めてのことで、不安を覚える。
母の姿を探すが、どこにもいない。今まで家で一人になることがなかったあたしは、酷く不安になった。
ふと階段の上を見上げた。灯りは付いておらず、真っ暗だった。が、かすかに物音が聞こえたような気がした。
「パパ……?」
父が部屋にいるのかもしれない。そういえば昼間、男の子が父を訪ねて来ていた。来客を迎えるために母も父の部屋にいるのかもしれない。
そう確信して、あたしは階段を駆け上がった。
異変に気づいたのは父の部屋の扉を開けた後で、後悔などする間もなく、一瞬にして呼吸を忘れた。
一面の夥しい紅の海。その中心にあるぐねぐねとした異形の塊。
苦しげに呻く耳障りな聲。
「おや、アリーシャ、人の部屋に入る時はノックをしなさいと以前言わなかったかな?」
お行儀が悪い、と部屋の奥から姿を現した父が言う。その叱咤に、あたしは反応することが出来なかった。
「アリーシャ? 聞いているのか?」
「博士、仕方ありませんよ」
様子のおかしいあたしを訝しがる父に、傍らに立っていた少年が声をかける。
「彼女は《これ》を見るのは初めてでしょう。驚くのも無理はありません」
「ああ、そうか。そういえばそうだったな」
父が一歩前へと足を踏みだし、塊を無残に踏みつける。断末魔のような耳を穿つ叫びを上げたそれは、しばしの痙攣の後、ぴくりとも動かなくなった。次第に姿が薄れ、跡形もなく霧散する。後に残ったのは、残酷に散らされた、花冠、だったもの。
「ママ……?」
ああ、あれはあたしがママにあげたもの。今朝、ママの誕生日にプレゼントした、ママが大好きな花で作った花冠。どうしてこんなところにあるのだろう。
何故? 何故?
「消えたか……また魔物化を押さえられなかった。原因を探らなければ」
「こればかりは魔力との相性の問題ですよ、博士。彼女には貴方のような適合性はなかった、それだけの話です。そもそも過剰な魔力を人の身体に与えるのは自然の理に逆らう行為なのですから。いわば、神への反逆……ともなれば、多少の犠牲は仕方ありません」
そうか、と一言呟いて父が落ちている花を
まるで邪魔な塵をどかすかのような仕草だった。
この人達はなんの話をしているんだろう。
ママはどこにいってしまったのだろう。
混乱した頭で考える。何一つ理解が出来ない。
「失敗を恐れないで下さい、博士。事前に適合性が分かるようになればこんな失敗作が生まれることもなくなるでしょう」
「うむ、君の言うとおりだ。しかしどうしたら」
「いかに夫婦といえど、貴方と彼女は所詮他人。しかし、適合性のある貴方の血を引く者が一人、いるでしょう。実験体としては申し分ないのでは?」
「……ああ、確かに」
父の視線が、あたしを捕らえる。
「おいで、アリーシャ」
父が呼ぶ。いつもと変わらない、穏やかな声色で、あたしを呼ぶ。
「協力しておくれアリーシャ、パパの為に。人類の偉業を成し遂げるんだ」
人は神になれるんだよ――。
そう言う父の目は、狂った輝きを帯びていた。あたしはただ、恐怖と混乱で身体を震わせることしか出来なかった。
人里離れた小さな家。友達と遊ぶには少し不便だけど、大事なあたしが生まれた場所。お気に入りは誕生日に買ってもらった赤いリボンとワンピース。
母は綺麗で優しくて、あたしを見守ってくれている。父はあまり遊んでくれないけど、聡明であたしの知らないことをたくさん教えてくれる。いつも仕事で忙しそうだけど、母とあたしのために頑張って働いてくれている、凄い人。
そんなささやかな幸せに包まれた、なんてことのない日常。
あたしのセカイの全て、だったモノ。
壊れるのは瞬く間で。
否、そもそも最初から作り上げられた虚構だったのか。
何が真実で、何が嘘だったのか。何故と問う自由を奪われたまま、血に塗られた惨状が歪んでゆく。
恐ろしさと、不気味さと、非現実的な光景に思考が働きを失っていく。
父親――のはずだったものの手が、頬を優しく撫でた。冷たくて心地よい、大好きな父の手だった。
嗚呼、なんて悪い夢なのかしら。
目が覚めたら、一番にママにお話をしよう。
そうしたら、きっと抱きしめてあたしを安心させてくれる。
いつものように。いつものように。
そんな願いを打ち砕くように、視界の端で男の子が笑っていた。
嘲笑うような、酷く歪んだ笑顔だった――。
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