第4話

 ソファに横たわり、稲熊いなくまじんから受け取った文庫本を手に取った。ジョニ黒の酔いは、とうに醒めていた。

 文庫本は、ローレンス・ブロックという作家の短編集だった。稲熊の言及していた小説は、最後に掲載されていた。題名は「バッグレディの死」——原題は”LIKE A LAMB TO SLAGHTER”——「屠殺とさつされる羊のように」。直訳すれば、そうなるのだろうか。

 読み終え、しばし天井を見上げた。

 私は探偵ではない。ただの老いぼれだ。

 もとより、私の出る幕ではなかったのかもしれない。

 唐突に、自宅の電話が鳴った。私以外には誰もいない。家の電話にかかってくるのは、大概がセールスだ。だから、普段は居留守を使う。だが、なぜかそのときの私は受話器を取った。

 聞こえてきたのは、若い男の声だった。

「あの……公園の人殺しを調べてるっての、おたくっすね?」

「もしもし、どなたですか?」

「俺の名前とか……勘弁して下さい。実は、俺……あ、いや、僕、見たんっすよ。事件のあった夜、十時四十五分くらいかな。二人が喧嘩しているような様子を、遠くからだけど、俺、見たんっすよ。男と女だったのか、女同士なのか、よく見えなかったけど」

「どうして、それを私に? 警察に証言すればいいでしょう」

「それがちょっと……俺、いろいろ事情があって、名乗れないんっす。俺のツレが、たまたま『ブルーなんとか』とかいうバーの常連で、そこの年寄りのマスターから聞いたんっすよ。おたくが事件の調査をしてるって。で、連絡先教えてもらったってわけです」

 新聞の報道では、伊崎いざき菜穂子なほこの遺体が発見されたのが午後十一時だ。その直前に争う二つの人影があったというのか。

「ありがとう、たいへん参考になりました」

「俺、こんなことするガラじゃねえけど……正直、メンドくせえし、たかが障碍者しょうがいしゃのおばさんが殺されたってだけじゃないっすか。俺に関係ねえし、どうだっていいし……そう思ってたんです。けど、何なんっすかね、これ?」

「何、というと?」

「この感覚、何なんすか? ああっ、くそっ! よくわかんなくて頭の中のモヤモヤが止まんねえ! あれからずーっと、夜、眠れねえ。俺があんとき声かけてれば、とか思って、いろんな思いが頭ん中でグルグルして……俺のこういう感覚って、いったい何なんすか? 俺、おかしいっすか?」

「そんなことはない。たいへんに正常ですよ。ありがとうございます」

「お礼言われること、俺、何もしてねえっす。ただ……」

「何ですか?」

「捕まえて下さい、あのおばさんを殺した犯人を」

「わかりました。約束します」

 電話は、不意に切れた。

 私は受話器を置いた。もう一度、天井を見上げた。

 ほぼ同時に、ポケットのなかで何かが震えた。携帯電話だ。孫の江美えみからのメールだった。

 ——今すぐむすびの家に来て!

 いつも多用している「絵文字」とやらが、まったくない。

 これは、ただごとではない。

 壁の時計は午後三時過ぎを指している。昼食をっていないことに気づいた。が、食欲はなかった。

 キッチンへ行き、安ウィスキーをグラスに三センチばかり注いだ。一気にあおった。そして、家を出た。


 〈むすびの家〉の前の道に着くや否や、異変に気づいた。

 七、八人の住人たちが、〈むすびの家〉の前——代表の内田うちだみつるの自宅の塀の前に立っていた。

 その人垣をかき分け、塀の前へ進んだ。

 何枚かの張り紙——一枚は、週刊誌の記事の拡大コピーであることがすぐにわかった。今度は、隣家——いずみ嘉次郎かじろう邸の白壁ではなく、〈むすびの家〉の塀に直接貼られている。

 私は塀に近づいた。

 ——地域住民が恐れる障害者殺害事件の犯人とは?

 と大書された見出しが眼を引く。

 老眼鏡をかけた。記事内容を読むうちに、胸の奥にどす黒い何かがべったりとへばりつきつつあるのを覚えた。記事内容は「犯人とは?」という題名とは大きく異なっていた。


 ——たった一つの知的障害者殺害事件が、地域住民に大きな不安を駆り立てている。〇六年四月に施行された「障害者自立支援法」では、「身体」「知的」「精神」の三傷害が一つの基準で統一された。そのため、これまで知的障害者や精神障害者を受け入れていなかった施設もまた、拡充、増築などを行なっている。しかし、そのために地域住民とのあいだに軋轢が起きる事例も少なくない。知的障害者A子さん(41)殺害事件の犯人はいまだ不明だが、それ以上にこの事件は、障害者と健常者がともに暮らすことの難しさを浮き彫りにしている。


 視界が揺らぐような気分になった。それは、私の血管内を浮遊する酒精のためか。


 ——A子さんが通っていた施設近隣の住民の一人はこう語る。

「福祉が大切なのはわかってます。けれど、通学中の小中学生が声をかけられたり、夜間に大声を出すなどの迷惑行為があって、日々、不安な生活を送っていることも事実です。殺人事件なんて、施設がなかった頃には絶対にあり得なかったことです」

 このようなトラブルは後を絶たない。今年一月、東京都××区の障害者福祉施設に通う精神障害を持つ二十一歳の男が、小学五年生の女児を殺害した事件は記憶に新しい。また、日本全国で小中学生や女性への「声かけ事例」や猥褻行為の報告は引きも切らない。障害者施設近隣に住む住民たちの不安は一向に……


 隣を見た。同様に拡大コピーされた紙が、数枚貼られていた。

 見慣れない文章の書き方だった。

 子どもの作文以下の言葉であっても、私にとって理解不能に思える単語でも、活字体で印刷されていると、何かしらの意味を持っているように見えた。

 少し思案して、やっとわかった。これが「インターネット」という代物なのだろう。

 名を名乗らぬ卑怯な者どもが、薄汚く、軽薄で、稚拙で、愚劣で、どす黒い悪意に満ちた悪口雑言、あるいはそれ以下の言葉をまき散らしていた。

 ——シンショー一人殺されて騒ぐバカもシンショーじゃね?

 ——殺された身障の女、ウリしてたってマジ?

 ——迷惑施設は山奥に作るべき!

 ——障害者の女なんかとぜってーやりたくねーわ 超キモイ

 引き剥がした。

 ざわめきを背後に聞いた。

 そのまま紙をつかんだまま、隣の白壁づたいにしばらく歩いた——大仰な門の前に着く。

 インタフォンのボタンを押した。

 女性の声が「どちら様ですか」と問うた。私は名乗った。

嘉次郎かじろうに会わせていただきたい。奴に私の名を伝えてくれればいい」

「……お、お待ち下さい」

 戸惑いを含んだ女性の声。おそらくは家政婦であろう。

 待った。その時間がいらだたしいほど長かった。

 とそのとき、背中から聞き慣れた声が呼びかけてきた。

「おじいちゃん……」

 振り向くと、蒼白な表情の江美が立っていた。両の拳を力一杯握りしめ、ぶるぶると震えているのが見て取れた。

「江美、下がっていなさい」

「いやっ!」

 かたくなな拒絶の声と表情——私が何を言っても無駄なことは、孫の双眸そうぼうを見れば一瞬で理解できた。

「わかった。しかし、口を挟むんじゃないよ」

 江美は返事をしなかった。が、私はそれを「了解」という意味だと、勝手にとらえた。

 ぎぃ、という重い木の扉がゆっくりと開いた。邸内に招じ入れられるのかと思いきや、そこには長身痩躯ちょうしんそうくの男が立っていた。年の頃は四十代後半か。もっと上かも知れない。仕立ての良いスーツ。細面で細い眼に薄い唇。年齢のわりに豊かな真っ黒の髪。泉嘉次郎とは似ても似つかない。現職参院議員である息子ではないようだ。

「どのようなご用件でしょうか? 私が代わりに承ります」

「あんたじゃ話にならない。あんたは何者だ?」

 私が訊くと、男は名刺を私に差し出した——堀田建設代表取締役社長 堀田ほった慎一しんいち

「泉先生にはたいへんにお世話になっておりますので、何かご用でしたら、私がお伝えします」

「社長さんを使いっ走りに使うとは、嘉次郎も立派になったものだな」

 私が言った。

 そのとき、脳裏をかすめる何かがあった——〈堀田建設〉。

 この街に本社を置く中堅の建設会社だ。県議を務めた泉嘉次郎と懇意であってもおかしくはない。しかし、何かほかにあったはずだ。酒精で淀んだ頭では、思い出すことができない。

 突然、江美が私の手から紙の束を引ったくった。そして、堀田社長に突きつけた。

「じゃあ、ちゃんと伝えて下さい。こういう嫌がらせをするのはやめなさい、って」

「それは私も拝見しました。ひどいイタズラをする人間もいるものです」

「イタズラ? 何言ってるの? 悪質な誹謗中傷じゃない! 内田先生のところへ行って、ちゃんと謝りなさいよ!」

 堀田社長は、苦笑いを浮かべると、内ポケットから煙草を取り出した。見慣れぬ銘柄だった。おそらく外国の煙草だろう。金色に光るライターで火を付けた。

「どうして謝らなければいけないのかな、お嬢さん? 大声を出すなら、警察を呼びますよ」

「ああ呼べばいいよ! あんたたちが何をしたか、全部喋ってやるから!」

 江美はさらにつっかかった。

 なんて孫だ。

 私は江美の肩をそっと抱いて、背後に押しやった。

 私は一歩前へ踏み出した。じっと相手を見つめた。堀田がたじろぐのがわかった。

「無論、嘉次郎本人がやったとは思っていない。こんな汚れ仕事に手を染める奴じゃない。あんた自身がやったとも思っていない。不服があるなら、警察を呼べばいい。しかし——」

 私は江美から紙の束を取り返し、堀田に押しつけた。

「もう一度、孫に手を出したら、ただではすまない」

「おじいちゃん?」

 江美が怪訝そうな表情になる。

「何のことですかね?」

 堀田は煙草の紫煙を吐き出した。平静を装っている。

「あんたが、泉嘉次郎に義理立てしなきゃいけないのはわかる。が、あんたのところの若い衆を使って、夜陰やいんに紛れて——というのはいただけないな。嘉次郎もヤキが回ったものだ。昔なら、そんな汚い手は使わなかった」

「な、何のことか……」

「おっと失礼、『あんたのところ』ではなかったな。あんたの嫁さんの『実家』だった。嫁さんに訊いてみたらいい。つまり、〈石原組〉に」

 言い捨てた。そして、江美に向かってうなずいた。

 歩きかけ、もう一度振り返った。

 玄関前では、呆気にとられた面持ちで、くしゃくしゃになった紙の束を握った堀田が、殺気立った表情で私を見返していた。

 私は堀田慎一に向かって言った。

「私が、孫を守る。私が〈むすびの家〉も守る。そして、伊崎菜穂子さんを殺した犯人も見つける。あんたたちには、決して邪魔をさせない」

 堀田慎一は、薄汚れた言葉が印刷された紙くずを握りしめ、口を半開きにしたまま突っ立っていた。


 〈ブルー・カーバンクル〉は、ほぼ満員だった。立ち見の客もいる。私と有里子ゆりこ、江美の三人は、アップライト・ピアノのすぐ横のテーブル席に着いた。

 奥のテーブル席に、〈むすびの家〉の内田充の姿も見えた。会釈すると、彼も挨拶を返してきた。その隣には七、八名の若者。見覚えがある。〈むすびの家〉のヴォランティアと、東野ひがしのまゆをはじめとする施設利用者たちだ。

 私はすでに三杯目のギネスを半分ほど空けていた。下戸の有里子はオレンジ・ジュース。江美の前には、ソルティ・ドッグ。すでに二杯目だ。誰に似たのか、江美も酒に強かった。

 ふと、カウンターの端に、明らかに周囲とは異質な二人組が座っているのが眼に入った。

 世界のすべてを敵視している爬虫類のような眼——堅気ではない。一人は、片手に包帯を巻いていた。

 マスターの稲熊仁も、二人の正体には気づいているようだった。

 やがて店内の照明がゆっくりと薄暗くなり、四人の若者がステージに上がった。

 稲熊が、芝居がかった口調で紹介する。

「お待たせしました。本日、演奏を聴かせてくれるのは〈フォー・ザ・レスト・オヴ・アス〉の諸君です」

 拍手が起こり、〈レスト〉のメンバーたちは、それぞれの楽器のチューニングを始めた。

 ライヴは、静かなピアノ・ソロの曲から始まった。おそらく、ドビュッシーだろう。演奏するのは横澤よこざわかなえだった。続いての二曲目では、イングリッシュ・ホルンの美山みやま良則よしのりが演奏に加わる。ドヴォルザークの「家路」——「遠き山に日は落ちて」。ピアノを弾き語りする横澤かなえが、日本語歌詞を透き通る声で歌った。

 〈ブルー・カーバンクル〉店内が拍手で包まれた。

 その後に演奏されたのは、知っている曲も、オリジナルの曲もあった。静かな曲もあり、アップテンポな曲もあった。いずれも〈フォー・ザ・レスト・オヴ・アス〉四人それぞれが演奏する楽器が出しゃばり過ぎず、確実に互いに調和し合って、音楽でひとつの世界を作り上げていた。

 一時間ほどで、早くもライヴは終わりに近づいていた。

 美山みやま良則よしのりが立ち上がり、言った。

「今日、最後の曲になってしまいました。僕らの新曲です。『なき者への挽歌ばんか』」

 美山が合図し、横澤かなえのピアノがイントロを弾き始める。ほかのメンバーの演奏がそこに静かに重なった。

 そして、横澤かなえの透き通った歌声が、〈ブルー・カーバンクル〉全体に広がった。


 止まった時計のように

 引き裂かれた絵のように

 石くれのように

 あなたは眠る


 砕けた水晶のように

 明日を知らぬ子のように

 かわらけのように

 あなたは眠る——


 にこにこと満面の笑みを浮かべ、マスターの稲熊が彼らの演奏を見守っている。

 〈むすびの家〉の内田充が、眼を閉じて聞き入っている。

 その隣の東野ひがしのまゆは、横澤かなえと声を合わせて一緒に同じ歌詞を歌っていた。


 眼を上げれば

 落ちていく太陽

 振り仰げばそこに

 清い月


 ずぶ濡れの猫のように

 散り急ぐ花のように

 踏みつけられた草のように


 よるべのないあなたよ


 曲が終わり、静寂が落ちた。

 一瞬の後、割れんばかりの拍手が店内を震わせた。

 江美も有里子も一心に手を叩いている。驚いたことに、〈石原組〉のチンピラまでが、やや表情を和らげていた。さすがに拍手はしていなかったが——指を二本も折られているのだから、やむを得ないだろう。

 美山良則が立ち上がり、私たちに向かって深々とお辞儀をした。

「僕らに音楽の楽しさを改めて教えてくれた人が、先日、亡くなりました。その方のおかげで僕は、音楽をやる理由、こうしてみなさんの前で演奏する理由をもう一度理解することができました。その方に御礼を言う機会がないのが、ほんとうに哀しくて悔しいです。今の歌『寄る辺なき者への挽歌』を……伊崎いざき菜穂子なほこさんに捧げます」

 美山良則は、震える声で言った。

 その次の瞬間だった。アップライト・ピアノの前に立っていた横澤かなえが、深く深くお辞儀をした。まるでその姿は、糸の切れたマリオネットのようにも見えた。

 真っ先に〈むすびの家〉の東野繭が手を叩いた。再び、〈ブルー・カーバンクル〉は拍手に包まれた。

 横澤かなえは、いつまでも頭を下げ続けていた。その両肩が小刻みに震えていた。

 万雷の拍手の中、〈フォー・ザ・レスト・オヴ・アス〉のメンバーたちが立ち上がった——横澤かなえ以外は。彼女はいつまでも、ピアノの前で頭を下げ続けていた。


 私は一人で店の外に出た。心配そうな稲熊仁の顔が、私の視界の片隅に見えた。

 店外のひんやりとした夜気に包まれると同時だった。

 背後に人の気配を感じた。

 振り返らずに、私は言った。

「おまえさんのような奴でも、最低限の感動はしたようだな」

「爺さん、言葉に気を付けな」

「ずいぶんと電話とは物言いが違うじゃないか」

 私はそう言いながら、ゆっくりと振り返った。

 そこに立っているのは〈石原組〉のチンピラ二人組だった。そのうちの一人、手に包帯を巻いた男——私に指をへし折られた男——が、ぎくり、とした面持ちになった。もう一人は、怪訝そうな表情だった。

「爺さん、いいのかよ? 人殺しの犯人、捜してるんじゃなかったのかよ?」

 手に包帯を巻いた男が言った。

「ああ、探していた。しかし、終わった」

 少しの間、沈黙が落ちた。

「俺ら……見たんだ」

「ああ、あんたは電話で私にそう言ったな」

 男は一瞬、息を飲んだ。そして、言葉を選ぶように続けた。

「違うよ! 殺しの犯人をさっき見たんだ、たった今。今日、ここで!」

「私もだ」

 二人のチンピラは、言葉を詰まらせた。

「ど、ど、ど、どうすんだよ?」

「おまえたちこそどうする? 泉嘉次郎の使いっ走りのまま、〈むすびの家〉への嫌がらせを続けるつもりか?」

「俺らはただ、施設のシンショーどもをビビらせて、あそこを辞めさせて、施設をつぶすつもりだった。それだけなんだ!」

「貴様たち、自分自身をくだらんと思わないか? 自分を恥じないか?」

 返答はなかった。

 私は二人に背を向け、黙って歩き始めた。

「おい、じじい、待てよ! 俺ら……俺ら、どうすりゃいいんだよ!」

「自分で考えろ。その程度の脳味噌と度胸は持ち合わせているんだろう」

 私は歩き続けた。チンピラたちは追ってこなかった。


 翌朝、木刀の素振りを二百七十四回まで終えたところで、江美が庭に駆け込んできた。

「おじいちゃん……今、ノリやんから電話があって……」

 半分泣きそうな声で、携帯電話を握りしめている。

「自首したのかね? 横澤かなえさんが」

 江美が息を飲み込んだ。

「知ってたの? どうして? いつ?」

「昨日のライヴだよ」

 稲熊仁と私だけが〈ブルー・カーバンクル〉で、新曲である「寄る辺なき者への挽歌」を事前に聴くことができた。あの曲をライヴ以前に聴いたことのある者は〈フォー・ザ・レスト・オヴ・アス〉メンバー以外にいないはずだった。

 しかし昨日のライヴの最中、東野繭は声を合わせて歌っていた。彼女は、その歌を知っていたのだ。

 いったい、誰が東野繭に「寄る辺なき者への挽歌」を教えたのか?

 伊崎菜穂子のほかにあり得なかった。

 伊崎菜穂子は、あの公園で横澤かなえと会ったことがあるのだ。〈サヴァン症候群〉だった伊崎菜穂子は、公園で横澤かなえが練習で歌っていた「寄る辺なき者への挽歌」を、たった一度聴いただけで完璧に覚えることができたのだ。

 なぜ、横澤かなえが伊崎菜穂子を殺さなければならなかったのか?

 美山良則が江美にかけた電話によると、横澤かなえはライヴの後、泣きながらバンドのメンバーに告白したという。

 悩みながら、苦しみながら、必死に作り上げた自分の「人を泣かせるための曲」——それを、いとも簡単にわずか一回聴いただけで完璧に覚え、その後に公園で横澤かなえよりもうつくしい声で歌っていた伊崎菜穂子。

 その姿を目撃したとき、横澤かなえは強烈な嫉妬を覚えたのだ。

 伊崎菜穂子を「殺す」という行為に、横澤かなえは何らの躊躇も恐怖も後悔も感じなかったという。

 なぜなら、伊崎菜穂子は「障碍者」だから——

 いても、いなくても、誰も哀しむ者などいないはずの存在だったから——その他の残りの人間だったから。

 横澤かなえは、単に観客を「泣かせる」ためだけに「寄る辺なき者への挽歌」を作り、歌った。

 しかし、ライヴのいちばん最後に美山が言った言葉に、はじめて横澤かなえは衝撃を受けたのだった。

 ——僕らに音楽の楽しさを改めて教えてくれた人。

 そして、多くの人が送った拍手。

 その瞬間になって、ようやく彼女は知らしめられたのだ——この拍手は、自分が受けるべきものではない、という事実を。

 彼女はようやくその重さに思い至った。己の罪を。伊崎菜穂子というひとつの命を。

 もしも、横澤かなえと伊崎菜穂子の出会いが異なる形であったならば、二人の関係は違っていたかもしれない。今度の悲劇は起こらなかったかもしれない。

 ——よるべのないあなたよ

「本当にのなかったのは、横澤かなえさん本人だったのかもしれない」

 私はつぶやいた。

 江美は、いつまでも泣きじゃくっていた。


「よるべなきひとつの死」完

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よるべなきひとつの死 美尾籠ロウ @meiteido

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