第3話

 やや青ざめた様子で、玄関から有里子ゆりこが戻ってきた。

「お義父とうさん、警察の方が……」

 卵焼きを口に入れかけた江美えみの手が止まった。私は黙ってうなずき、玄関に向かった。

 越阪部おさかべ刑事が、居丈高に腕組みをしていた。背後には、昨日見かけた若い刑事が隠れるように立っている。

「あなたたちは、いつまでも礼儀を学ばないようですな。朝の七時半なら、まだ嫁も孫も自宅にいることなど、おわかりのはずでしょう」

 私が何を言おうと、越阪部の表情は変わらなかった。むしろ、歳を取ることで、厚顔さは昔よりも増しているかもしれない。

「ほう、じゃあ、嫁さんや可愛いお孫さんに知られたくないことでもあるのか?」

「嫌味は結構。本題に入って下さい」

「あんたの狙いは何だ?」

 越阪部の眼の奥が鋭い光をたたえている。性格のねじ曲がった男だが、刑事として有能であることに違いはなかった。

「わかるように説明してくれませんか」

「ほう、この期に及んでとぼけるつもりかい。まずは〈むすびの家〉に顔を出し、次には伊崎いざき菜穂子なほこが住んでいた県営住宅だ。そのあと夜になって、今度は孫を連れて現場の公園。あんたみたいな年寄りが、なぜ今回のヤマに首を突っ込む?」

 立場が違えば、友人になっていたかもしれない男を、私はじっと見返した。もはや、その機会など永久に訪れないのだろうが。

「ずいぶんとお詳しいですな。まるで見ていたようだ」

「当たり前だよ」

「では、孫娘が暴漢に襲われかけたとき、なぜ助けてくれなかったんです? 市民の味方である警察が」

「笑わせてくれる。あんたの口から『市民』なんて言葉が出るとはね。むしろ、あんたを暴行傷害容疑で引っ張ったっていいんだ」

「ほう、被害届でも出ましたか」

 越阪部は大袈裟にため息をついた。そして芝居がかった仕草で、人差し指を私の鼻先に突きつけた。

「いいかい、精薄せいはくのガイシャがあんたの知り合いだったかイロだったか知らんが、今度のヤマには、あんたの出る幕はない。あんたたちの時代は終わったんだ。もう二十一世紀なんだよ。下手に老いぼれが触ると、火傷じゃ済まないことになる」

「これは驚いたな。警官が脅しにかかるとは」

「脅し? 警告だ。あんただって、昔はそっちの方面じゃ名の通った御仁だろう。軽挙妄動けいきょもうどうは謹んでもらいたいな」

 私はカマをかけた。

「〈石原組〉がらみですか」

 越阪部の両方の眉がつり上がった。が、私の問いには答えなかった。それだけで返答は充分だった。

「年寄りは年寄りらしく、詩吟とかゲートボールでもやってるんだな。ただし、あの公園以外で」

 越阪部は若い刑事に眼顔で合図すると、出て行こうとした。が、一度立ち止まり、私に背中を向けたまま言った。

「〈石原組〉なんて看板はもう下ろしているよ。三代目のボンボンは、〈アイ・エンタープライズ〉と名乗ってる」

 越阪部は言い捨てた。私はドアを閉めた。

 ダイニング・キッチンに戻ると、不安げな面持ちの江美が立っていた。

「おじいちゃん、警察の人、『どうもおばさん』のこと、何か教えてくれた?」

 誤解をしている孫に、あえて真実を話す必要はない。

「捜査は始まったばかりだよ。どんな些細ささいな手がかりでも見つけようと、朝早くから懸命に歩き回る。それが警察の仕事だ」

「でもお義父さん……」

 有里子が何か言いたげに口を開いた。私は静かにかぶりを振った。

「さあ、朝飯にしよう。それから、有里子さん、今日からしばらく、江美を駅まで送って行ってくれないかね」

「おじいちゃん?」

 怪訝けげんそうに江美が口を挟みかけたが、有里子は少しだけ笑って答えた。

「わかりました。けれど——」

 有里子が言い淀んだ。

「けれど、何だね?」

「気を付けて下さいね」

 私は微笑して答えた。

「自分の歳はわきまえているつもりだよ」

 私はまた、家族に一つ嘘をついた。


 古びたドアはイギリスのパブを模しているらしい。イギリスに行ったこともなければ、パブとバーとスナックとクラブと居酒屋と違いもわからぬ私には、ただ単なる外国風の木製のドアでしかなかった。

 押し開けると、からんからん、とドアに取り付けられたカウベルが乾いた音を鳴らした。

 静かに、ヴァイオリン曲が流れている。落ち着いた木造の内装。手前には五人しか座れないカウンタ席。その奥には、四人がけのテーブル席が三つ並んでいる。カウンターのすぐ脇にはアップライト・ピアノが置かれ、ちょっとしたステージになっていた。時々、クラシックやジャズのミニ・コンサートが開かれることもある。

 バー・カウンタの向こうに、稲熊いなくまじんの姿があった。

「おや、こんなに早く、珍しいじゃないですか、大尉殿」

 稲熊は、すでに頬と鼻の頭を赤くしていた。髪はほとんど残っていないのに、鼻から下は真っ白いの髭で覆われている。

「酔っているのか。まだ朝の十時過ぎだぞ、稲熊飛曹長ひそうちょう

「一日の活力の源でありますっ」

 そう言い、稲熊はブランデーのロックが入ったグラスを口にした。

 ここは喫茶店だが、夜には——夜でなくても——酒を出す。店の名前は〈ブルー・カーバンクル〉といった。

 壁一面に、肖像画というか、鉛筆で描かれたイラストのようなものが貼られている。それらはすべて、稲熊が描いたものだ。

「朝から店主が酔っぱらっていたら、来る客も来ないだろうに」

 私はカウンタの左端の止まり木に腰をかけた。稲熊は、私の注文も訊かずにタンブラーにギネスを満たし、私のほうへ突き出した。

 カウンタの入り口側の端には、チラシが何種類か積まれていた。ここで開催されるミニ・コンサートの告知だろう。

「いえ、現に大尉殿がいらっしゃったじゃありませんか」

 稲熊は自分のグラスにブランデーを注ぎ足し、眼の前に掲げた。

「死んでいった者と、これから死にゆく者に、乾杯」

 私もタンブラーを掲げた。ギネスを一気に半分ほど飲み干した。冷たく、苦く、やや甘い液体が胃の腑へ落ちていく。

「『ごっこ遊び』はやめにしよう。今日は稲熊飛曹長ではなく、名探偵殿に会いに来たんだ」

 そう言うと、稲熊は髭面いっぱいに笑顔を見せた。

「ほう、そりゃあ面白そうだ」

 稲熊は変わった男だった。かつて海軍航空隊の基地内で、隠し持った英語の探偵小説に読みふけっていた姿ばかりが思い出される。

 この店の壁を埋め尽くす彼のイラストは、シャーロック・ホームズの登場人物なのだという。ホームズにワトソン博士、モリアーティ教授、レストレイド警部——さらに、女性の肖像もあった。さんざん稲熊に講釈され、いつしか私も、アイリーン・アドラーとかメアリ・モースタンとかヴァイオレット・ハンターといった名前を覚えてしまった。

 店の名の〈ブルー・カーバンクル〉という言葉もまた、シャーロック・ホームズゆかりのものらしい。稲熊は「『青い紅玉こうぎょく』のことですよ」と言い張る。私が「『紅玉』なのに『青い』とは矛盾している」と、まっとうなことを言うと、子どものように頬をふくらませて怒るのだった。

 私はギネスを飲み干した。すかさず稲熊がタンブラーを取り上げ、二杯目を注いだ。

「知り合いが亡くなった。殺されたんだ」

「殺し?」

 稲熊が身を乗り出す。その弾みでタンブラーのギネスがカウンタに跳ねた。

 私は「どうもおばさん」こと伊崎菜穂子との出会いとその死について、簡単に説明した。

「名探偵殿の推理は?」

 私が問うと、稲熊はかぶりを振った。

「ホームズだろうがポワロだろうが明智あけち小五郎こごろうだろうが金田一きんだいち耕助こうすけだろうが……たったそれだけの手がかりじゃあ、犯人なんぞわかりゃしませんよ。しかし、出来の悪い『フーダニット』なら、犯人は施設の管理人か、公園にいたミュージシャンのあんちゃんだな」

「ほう、なぜ? 動機は?」

 稲熊は、何杯目かのブランディを口にした。

「そんなことはわかりません。でも大概、そういう展開になるのが、探偵小説のお約束」

 稲熊はにやりと歯を見せた。七十を過ぎたのを機に、総入れ歯にしたという。見事な歯並びだった。

「管理人は、そんなことをするような人じゃない。それに、殺す理由もない。公園にいた青年には、事件当夜のアリバイがある」

「もっとも善人に見える人間が、実は意外な真犯人だった、っていうのが『探偵小説』ですよ。アリバイなんて、なんとでもなる。一度、二人を東尋坊とうじんぼうにでも連れて行ったらどうです?」

「東尋坊? 福井県の?」

「断崖絶壁の上だったら白状するかもしれませんよ。ほら、テレビの二時間サスペンス・ドラマみたいに」

「我が名探偵ホームズ君に訊いたのが、間違いだったようだ」

 私はタンブラーを突き出し、稲熊は三杯目のギネスを注いだ。

「ところで今、〈石原組〉はどうなっているか知っているか?」

 尋ね、タンブラーのギネスを半分ほど一気に飲み干した。稲熊は口に持っていきかけたブランデーのグラスを止めた。その視線が、つかの間、宙を泳いだ。

「〈石原組〉? 大尉殿、もう酔いましたか?」

「まさか。もっと強いものをくれ」

 私は三杯目のギネスを飲み干した。稲熊は、私の名札が下がったボトルを棚から取り上げた。

 ショット・グラスにスコッチ・ウィスキーを注ぐ。〈ジョニー・ウォーカー〉の黒ラベル。チェイサーはなし。ウィスキーの味の違いなどわからない。単に、かつて「ジョニ黒」が憧れだった年寄りの感傷に過ぎない。

「それは名探偵の仕事じゃありませんな。ただの情報屋だ」

 稲熊は言い、自分のグラスにブランディを注ぎ足した。

「大尉殿、いい加減、歳相応に枯れたらどうですか? おとなしく、静かに短い余生を過ごすことはできないんですかね」

「できれば、私もそうしたい。実は、言い忘れていたが、昨夜〈石原組〉の若い衆に襲われた」

「何ですって? そいつを先に言って下さい。どうしてまた連中と……もう石原英紀は死んで、とっくに代替わりしたでしょうに」

 私はジョニー・ウォーカーをなめた。

「伊崎さん——『どうもおばさん』の亡くなった公園でね。孫が一緒にいたんだ」

「江美ちゃんが? 怪我はなかったんですか?」

「無事じゃなかったら、こうやって朝から呑んではいない」

「いやいや、大尉殿のことは心配してませんよ。相手の若い衆は?」

「指を二本ばかり」

「落としてやりましたか」

「冗談じゃない。折っただけだ」

 稲熊は、心底呆れたといった表情で肩をすくめた。が、その顔には楽しんでいるいろも見えた。

「おかしな話ですね。障碍者しょうがいしゃの殺人事件に〈石原組〉が出張ってくるなんて。もっとも、今じゃ横文字の看板なんか掲げているようですがね」

「〈アイ・エンタープライズ〉だ。越阪部おさかべ刑事から聞いたよ。連中は今、何でシノいでいるんだろうか。今どき、売春や賭博でもあるまい」

「ほう、越阪部のあんちゃん、まだ現役でしたか」

 稲熊は、にやにやしながら、私のショット・グラスにジョニ黒を注いだ。

「あんちゃんという歳じゃない。奴ももうすぐ還暦だ」

「〈石原組〉といえば、バブルの頃は総会屋とツルんだり、企業きぎょう舎弟しゃていとして結構名を馳せてましたなあ。しかし、今じゃあ、昔のシマが中国系とかロシア系なんかにさんざん荒らされちまって、いっときはシノいでいくのがたいへんだったようですがね」

「ずいぶん詳しいな。それで、今は?」

 稲熊は首をかしげた。

「三代目の英洋が、なかなかのインテリでしてね。リーマン・ショックをうまく乗り切れたのは、『経済ヤクザ』の素質があった英洋の力が大きいそうです。傘下の二次や三次の組は、違法カジノやったり、デリヘルやったり、産廃にからんだり……もっと下の組では、『振り込め詐欺』なんかをしているそうです。長女のなんとかいうのは、先代からつながりのある中堅建設会社〈堀田ほった建設〉の社長夫人です。が……三代目が表立って何をしているのかは、情報が入ってきませんね。傘下の組から吸い上げたカネで先物取引や、ビットコインに手を出してるとも聞きますが」

「デリヘル……というのは、何だね?」

 稲熊は、口に含んだブランデーを吹き出しそうになった。

「大尉殿、やはり、もう時代は変わったんですよ。我々年寄りの出る幕はないんです。『デリヘル』というのはデリバリー・ヘルス。簡単に言えば、コール・ガールというか、出張売春です。今は風営法が厳しくなって、店舗型の風俗は新規開店ができづらいんですよ。ついでにご説明しますが、ビットコインっていうのは——」

「いや、もう結構だ」

 私のグラスがいつの間にか空になっていた。間髪入れず、稲熊がジョニ黒を注ぐ。

「つながらないな。なぜ、私と江美を襲ったのだろう? 連中は、伊崎さんの死について何か知っていた。なぜ今度の事件から『手を引け』と脅さなければいけないのか……?」

 私は、グラスのなかの琥珀色の液体を見つめた。

 いつも謝ってばかりいた、サヴァン症候群だった伊崎菜穂子の死。

 経済ヤクザとして、今でも裏の社会でそれなりの地位を築いているらしい〈石原組〉。

 からんからん……とカウベルが金属的な音を立てた。

 若い女性が入ってくるところだった。

「こんにちは。あ、ごめんなさい。早すぎましたか?」

「いや、構わないよ、カナエちゃん」

 痩せて色白だが、唇だけがやけに紅い。ほぼ江美と同じくらいの歳だろう。私には下着にしか見えないタンクトップに丈の短いジーンズ姿。男の子のように短く刈った金髪だった。

 彼女は私を一瞥すると、微笑を浮かべて頭を下げた。私も会釈を返した。

 稲熊が言った。

「あ、カナエちゃん、こちらは僕の上官殿」

「ジョーカンドノ?」

「若い頃には一緒に悪さをした仲なんだ」

 稲熊が言うと、彼女は屈託くったくなく笑い出した。

「信じられなーい。マスターが『悪さ』してたなんて」

「特攻の出撃の前日に玉音放送だ。そりゃあ、愚連隊にもなるさ」

 稲熊は言ったが、彼女には「トッコー」も「ギョクオンホーソー」も「グレンタイ」も、外国語のように理解できなかったようだ。

 それも当然だ。その時代のことは、有里子や江美にも話していない。

 とりあえず名を名乗った。彼女はにっこりと笑って、頭を下げた。

「わたし、横澤よこざわかなえといいます。音大で声楽勉強してて、こちらのお店で、ライヴやらせていただいたり、時々、練習させてもらっているんです。今日も、ピアノの練習をさせてもらいに来たんです。マスター、いいですよね」

「ああ、構わないよ」

 横澤かなえ——カナエちゃん。私の記憶力もさして衰えてはいないようだ。

 横澤かなえはアップライト・ピアノの前に座ると、椅子の高さを調節し、鍵盤の上に指を置いた。一つ深呼吸すると、ピアノがメロディを奏で始めた。

 音楽に詳しくはない。が、昔、否応なく何度も音飛びのするレコードで聴いたことがある曲だった。特に好きというわけではないが、懐かしい。いろいろな思いが去来する。

 あの当時に戻りたい、とは決して思わない。が、「イン・ザ・ムード」のピアノ演奏を聴くのは、悪くない体験だ。

 弾き終えると、横澤かなえは少し恥ずかしそうな顔をして、私と稲熊の顔を見た。私と稲熊は彼女に拍手を送った。

「次のは新曲なんだけど……感想聴かせてもらえますか? 次のライヴでやるんです」

 不意に、横澤かなえは眼を閉じ、その表情が一変した。指先が鍵盤の上を走り、切ない導入部を奏でると、彼女は静かなメゾ・ソプラノの声で歌い始めた。


 止まった時計のように

 引き裂かれた絵のように

 石くれのように

 あなたは眠る


 砕けた水晶のように

 明日を知らぬ子のように

 かわらけのように

 あなたは眠る


 芸術などと無縁に生きてきた無粋な私ですら、この歌は、今はいない人への哀悼を歌ったものであることはわかった。彼女のようなか細い体から、どうすればこれほど透き通った声を出すことができるのか。

 横澤が歌い終えるや否や、私は我知らず、立ち上がって拍手をしていた。そして、そんな思いもかけぬ自らの行為に、私自身が少々狼狽してした。

 歌い終えた横澤かなえは、ピアノの前に立つと、芝居がかった仕草で私と稲熊に向かってお辞儀をした。

 稲熊も拍手し、大きく何度もうなずいていた。

「いやぁ、素晴らしいじゃないか、かなえちゃん。あと十年たったら、マリア・カラスも夢じゃない。カラスは自分で曲を作りはしなかったけれどね」

 私は、ただ「カラス」が鳥の「カラス」ではない、ことだけしか理解できなかった。

「この歌、まだメロも全然よくないし、もっともっと練習しなきゃ、ライヴで聴かせられないです」

 横澤かなえは、恥ずかしそうに肩をすくめた。

 いつの間にか空になっていたグラスに、稲熊がジョニー・ウォーカーを注ぎ足していた。私はそれを口にもっていき、彼女の歌を脳裏で反芻していた。

 彼女の歌のタイトルは、「なき者への挽歌」といった。

「横澤さん、君は、美山みやま良則よしのり君と一緒にバンドをやっているんだね」

「えっ? どうしてノリやんのこと……?」

 私は孫の江美のこと、そして公園で美山と出会ったことを話した。

「へえ、江美ちゃんのおじいちゃんだったんですか。すっごーい。世間って狭いですね」

「そうだね、世間は狭い」

 この世界というものは、狭すぎるほど、狭い。そして、その狭い世界のなかで、思わぬ形で人と人との道は交錯し、そして、悲劇を生む。

「わたしたち、〈フォー・ザ・レスト・オヴ・アス〉というバンドなんです」

 彼女は、稲熊の描いた「セバスチャン・モラン大佐」と「ロイロット博士」——どちらもシャーロック・ホームズに登場する悪役らしい——のイラストの間に貼られたチラシを指さした。

 FOR THE REST OF US——「その他の人びとのために」とでも訳すのだろうか。

「さすが、美しい曲だね。かなえちゃんの声だからこそ、胸に沁みるんだろうなあ」

「ありがと、マスター。えっと……江美ちゃんのおじいちゃんは、どうでした? お世辞とかお追従とかじゃなくって、シビアなご意見訊かせて欲しいんです」

 横澤かなえは、ずいぶんと生真面目な性格のようだ。大雑把な江美とはかなり違う。

「いい歌だった。しかし、ずいぶんと哀しい歌だ」

 横澤かなえは、すぐさま顔を上げて笑みを見せた。

「泣ける曲を書きたいな、とずっと思ってたんです」

「泣ける曲?」

「泣くことって、人にとっての癒やしなんです。映画とか、小説とか、ドラマとか、泣ける作品っていうのは、涙で現代人を癒してるんです」

「癒やし、ね」

「ええ。ライヴでも、みんな泣かせてみせますよ」

 横澤かなえは胸を張った。

「江美と一緒に聴きに来るよ」

「ありがとうございまーす!」

 横澤かなえは、やや大袈裟にお辞儀をした。

 私はグラスの底を見つめた。わずかに残った琥珀色の液体を飲み干した。

「マスター、また夕方にもう一度、ピアノ借りに来るね。そのときには友だちも連れてくるから、みんなにビール一杯くらいおごってね」

「ああ、待ってるよ」

 横澤かなえは、私に向かって一礼すると、〈ブルー・カーバンクル〉から出て行った。カウベルが、乾いた音を立てる。

 私も退散しようと止まり木から降りると、稲熊が一冊の文庫本を差し出した。

「今の歌を聴いて、思い出した小説があるんです」

「シャーロック・ホームズかね? ならば、すでに全巻読破した——いや、させられたじゃないか。もっとも、中身は何一つ覚えていないがね」

「ホームズじゃありません。アメリカの作家の書いたハードボイルド小説なんですがね。今回の事件をちょっと思い出させるところがあるんです。ある女性のホームレス、『バッグレディ』が殺される。誰も悲しまないし、誰も気にしない。警察だって、まともに捜査なんかしない。ひょんなことから主人公の私立探偵が、その事件を追うんですが……」

「伊崎さんはホームレスではなかった。それに、彼女の死を悼む人は大勢いる」

「この小説では、探偵がいろんな人に、被害者のホームレスについて訊いて回るんです。そして、今まで誰にも相手にされていなかった被害者が……」

「伊崎さんは、誰にも相手にされていなかったわけではない。多くの人に慕われ、愛された人だった。孫の江美も、〈むすびの家〉の代表も——」

「それから大尉殿も、ですか」

 一瞬、返答に窮した。

 私は、「どうもおばさん」——伊崎菜穂子の死を哀しんでいるのか? 顔を合わせた回数は片手で数えられる程度だ。私はどこまで彼女のことを知っているというのか。

 FOR THE REST OF US——その他の人びとのために。

 伊崎菜穂子という人間は、誰にも顧みられることがなかったのか。彼女は、「その他の人びと」だったのだろうか。

 RESTには、確か「残り物」といった意味もあったはずだ。

 取り残された人びとのために——

「彼女は、決してみんなに見捨てられた人ではなかった。取り残された人ではなかった。そんな人であってはいけなかった……」

「大尉殿、酔ってますね」

「この程度のジョニ黒で酔うものか。失敬だぞ、貴様は。で、誰なんだ?」

「えっ? 何がです?」

「犯人だ。誰が、彼女を殺したんだ、稲熊飛曹長?」

 稲熊は大きくため息をついた。

「それは、ご自分で読んで確かめて下さい」

 赤い背表紙の文庫本を、稲熊は私に突き出した。私は受け取ったが、少々分厚いのでそのままズボンのポケットには入らなかった。半分に折り曲げ、尻のポケットに押し込んだ。

「大丈夫ですか、大尉殿。足元がおぼつきませんが——」

「貴様の指図は受けん。伊崎さんを貶めることを言う輩は、誰であろうと許さんぞ」

 視界がぼんやりと赤みを帯びているのを感じた。一歩踏み出そうとして、足がもつれた。尻もちをついた。天井が揺れる。

「大尉殿……」

 稲熊に向かって「向こうへ行け」と手を振り、私は自力で立ち上がった。

 〈ブルー・カーバンクル〉のドアを引き開けた。カウベルの音を聞きながら。外に出た。

 陽光がまぶしい。

 ひどくまぶしい。まぶし過ぎる。


「よるべなきひとつの死」第4話(最終話)へつづく

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