第2話

 今にも降り出しそうな雲行きになっていた。

 どんよりと濁った空を見上げていたため、私は〈むすびの家〉のすぐ向かいに立っていた男に、すぐには気づくことができなかった。

「はた迷惑な話だと思わんか?」

 私に話しかけてきた男は、でっぷりと太っている。歳は、私とほぼ同じ――正確には、私のほうが五つ年長だ。男の名は、いずみ嘉次郎かじろうという。この町の町内会長だ。背は私より低いが、体重はずっと重い。髪はかなり薄いがそれでも顔面は、とても古稀こきを過ぎたとは思われぬほど脂でてらてらと光っている。

 そして、この男と私とは、腐れ縁としか呼べない長い長いつきあいがあった。

「今度は殺人事件だ。俺のところにも、刑事が来た。俺がどうしてかたわ者のことなんざ、知らなきゃいけない?」

「あれは、あんたかね?」

 私は塀に貼られたチラシを指さした。

 ――むすびの家の改築は許しません!

 ――むすびの家の精神障害者受けいれ絶対反対!

「町の安全を守るのが、町内会長の当然の務めだ」

「施設の改築と町の安全が、なぜ衝突しなければならないのか、私には理解できない」

 私の言葉に、泉は鼻をすするような仕草をした。六十年も昔から、この男は変わっていなかった。

「ほう、面白い。おまえさんの口から左巻きの人権派市民団体の代表みたいな言葉が出てくるとはな。いつの間にアカに転んだ? 世も末だな」

「私は人権派でもないし、市民団体とも関係ない。共産主義者でもない」

 泉のような男が県議に当選した三十余年前、すでに「世も末」になったのだ、とは口に出さなかった。泉嘉次郎の地盤を継いで、長男が県議を三期務めたあと、昨年は参院選に出馬し、比例区で復活当選していた。

「おまえさんが施設に出入りしていることを知らないとでも思ったか? バザーだか何だか知らんが、近所迷惑な催しだ。そのときに、何度かおまえさんの姿を見ているよ。いったい何を企んでる?」

 私は泉嘉次郎を無視して歩き出した。この男は「下衆の勘繰り」という言葉を知らないようだ。背中に泉の声を聞いた。

「俺は、この町を守っている。アタマのおかしな連中にうろうろされないように、体を張って町を守っているんだ。おまえは何を狙っているんだ?」

 私は、一人の年寄りに過ぎない。世を捨てた老人に「何を狙う」との問いは不毛だ。そう自分に言い聞かせる。


 はじめて、この公園に来た。私が知っているこの街の姿は、この二十年ではるかに変わってしまった。

 新築の高層マンションと古い木造家屋が混ざり合って立ち並ぶ街。その公園のたたずまいは、所在なさそうに、頼りなさそうに見える。意外に、広かった。公園内にはフェンスで囲まれたテニス・コートもある。

 警察の規制線は見つからなかった。何の痕跡も残っていなかった。どこに伊崎いざき菜穂子なほこが倒れていたのか、それを知る手がかりはまったく見つけることができなかった。

 その公園を通り抜け、バス通りを渡った向こうに、県営住宅はあった。高度成長期に建てられたとおぼしき、鉄筋四階建てのアパートが、四棟並んでいる。コンクリートの外壁の無数の染みと罅が、時間の経過を無言で語っている。C号棟の12号室が、伊崎菜穂子の部屋だった。

 空き部屋が多い。一階の住人は、14号室に住む老夫婦だけだった。

「わたしらは、あんまり外に出ないんですよ」

 ドアを開けた老婦人は、私の質問を怪しむことなく、答えた。

「では、亡くなった伊崎さんとは交流はなかったと?」

「伊崎さんとおっしゃるんですね、12号室の方。まだお若かったんでしょう? お可哀想に。朝にゴミ出しするときに挨拶するくらいでしたわね。まさか、あんな目に遭ってしまうなんて……うちの亭主も……」

 そう言って、三橋みつはしという名の女性は表情を曇らせた。そのときだった。薄暗い屋内から声がした。「おおおおおおう」という、狼の遠吠えを思わせる、背筋を寒々とさせる、悲哀に満ちた声だった。

「あら、うちの人ったら……」

 彼女は困ったような顔をして、部屋の奥へ「今行きますよ」と呼びかけた。

「お忙しいところ、申し訳ありません」

 私は彼女にお辞儀をし、さらに屋内で横たわって介助を待っているだろう、彼女の夫に向けて一礼した。

「あの……」

 控えめに、三橋の妻は言った。

「何か?」

「今、思い出したんですが……あの方の歌を聴いたことがありますわ」

「歌、ですか?」

「ええ。ここ一週間ばかりでしょうか、外から女性の歌声が聞こえたことがあるんです。とても綺麗な声でしたよ」

「そうでしたか。ありがとうございます。どうもお邪魔しました」

 ふたたび室内から「おおおおおおう」という、淋しい老人の呼び声が聞こえた。


 何かブーンという羽虫の飛ぶような音が聞こえた。いや、虫ではない。私の携帯電話が振動しているのだった。取り上げる。「もしもし」と言うが、返答がない。そのはずだ、「メール」とやらが届いているのだった。

 ポケットから老眼鏡を取り出し、読んだ。

 ――駅まで傘持ってきて。お願い♡♡♡

 江美えみからだった。「絵文字」とやらがチカチカとして、たいへんに読みにくい。しかし、孫の頼みならば、致し方ない。部屋にいても特にすべきことがあるわけではない。

 出かけた。


 江美は、先に駅に着いていた。

「ありがとう! おじいちゃん!」

 そう言って、江美はわざわざ私が持ってきた傘には入らず、私の傘に一緒に入って、私の腕にしがみついた。

 今日のできごとを江美に告げると、彼女は不服そうな顔になった。

「なんでもっといろいろ聞き込みしてくれなかったの?」

「老い先短い年寄りなんだ。少しはいたわってもらいたいね」

「ね、おじいちゃん、行ってみようよ、公園。『どうもおばさん』が亡くなった公園に」

 江美は、誰に似たのか、言い出したら人の意見を聞かない。

 駅から公園までは、雨の中歩くには少々距離があった。ちょうど、家を挟んで反対の位置にある。そこで、駅前でタクシーを拾った。

 公園に着いたときには、やや薄暗くなっていた。私は、江美とともに公園を横断する小径こみちを進んだ。

「『どうもおばさん』もここを通って家に帰ってたんだね」

 江美の声が沈んでいる。

 同時に、私はべつの気配も感じた。

 遅かった。

 二つの黒い影――私たちの眼の前に立ちふさがった。

 短く江美が悲鳴を上げた。

 有無を言わさぬ勢いで、影の一つが突進してくる。

 動きは読めていた。

 傘を突き出した。ひるんだ相手の手首を摑む。そのまま引きつけた。体を沈める。簡単な投げ技。相手は自らの勢いに乗り、ぬかるんだ地面に仰向けに倒れ込んだ。うめき声。

「放せ、ヘンタイ!」

 江美の叫び声が耳に突き刺さった。一つの人影が江美に摑みかかり、逆に突き飛ばされていた。私は駆け出そうとした。足がもつれる。自分の歳を忘れていた。

 背後に気配――振り向きざまに正拳。顔面の真ん中に命中した。相手は声もなくうずくまった。

「その子から離れなさい。用があるのは私だろう」

 一歩、前へ踏み出した。

 影は江美に何か光るものを突きつけている――刃の光。刃渡りはさして長くはない――九寸五分くすんごぶ匕首あいくちに比べれば。

 さらに一歩前へ。影が、じりっと後ずさる。一気に踏み込んだ。左腕を伸ばす。相手の得物えものを払った。光る刃が宙を飛んだ。右手で影の左の小指と薬指を摑む。ひねり上げる。影はうめいた。そのまま地面にうずくまった。指をひねる力は緩めなかった。

「話を聞こう。私に何の用だね? 誰の使いっ走りだ?」

 さらに指をひねる。影は苦しげな息を吐いた。

「ち、近づくな……」

「ほう、何に?」

「てめえがいちばん知ってるはずだ。シンショーの家に近づくな」

「近づくと、どうなる?」

 力をさらに込める。影はまだ二十代前半の若い男のようだ。

「てめえの……可愛い孫娘が……どうなってもいいんだな」

「ご心配痛み入る。しかし、おまえさんは、自分の指を心配したほうがいい」

 一気に力を入れた。こもった鈍い音――男が裏返った叫びを上げた。確実に、二本の指が折れたはずだ。あるいは三本。

「くそっ、覚えてやがれ」

 陳腐で懐かしいほどの捨て台詞。時代を超えても変わらぬようだ。三つの人影は、ふらふらと暗がりの中へ消えていった。

「おじいちゃん!」

 蒼ざめた江美が駆け寄ってきた。震える体で、私の胸にしがみつく。

「怪我はないかね?」

「うん……でも……でも、おじいちゃんは、怪我してない?」

 江美は、さきほど勇ましく男を突き飛ばしたくせに、今にもすぐに泣き出しそうな声だった。

「しているように見えるかね?」

「全然……ねえ、おじいちゃん、あいつら誰? 知ってる人?」

「いや、まったく。しかし、見当は付く」

「びっくりした……」

「私もだよ」

「ううん、そうじゃなくて……」

 江美は私から体を離し、ためらいながら言った。

「おじいちゃん、めっちゃ強いじゃん……なんで?」

「強くはない。若い頃、少しだけ合気道をかじったことがあるだけだ。さあ、帰ろうか」

 いつの間にか雨はやみ、蟋蟀こおろぎが鳴き始めている。傘を拾い上げた。

 江美の表情が一変した。眼をつり上げ、私をにらみつけている。

「どうして? これから、行くんだよ!」

 私は孫の顔をじっと見返した。

 ほんとうに、誰に似たのか。

「強いのは、江美のほうだな」

 私は言った。江美が、ぺろっと舌を出して微笑を見せた。そのときだった。昼には気づかなかったものが視界に入った。

 赤いジャングルジム。街灯に照らされ、ぼんやりとその姿を暗闇に浮かび上がらせている。

 私は無言でそちらに向かって歩き出した。

「おじいちゃん?」

 ジャングルジムの前まで来ると、周りを見回した。案の定、十メートルほど離れたところに、恐竜の姿をかたどった滑り台らしきもの――緑色の小山――があった。

 私は江美をうながし、小道を進んだ。

 いささか覚束おぼつかなくなっている記憶力を頼りに、数分後に「その場所」らしきところに行き着いた。

「どうしたの、おじいちゃん?」

「伊崎さんは、ここからの風景を絵に描いている。つまり彼女は、まさにちょうどこの場所に立ったことがあるんだ」

「あ、そういえば、〈むすびの家〉で絵、見たことあるよ。そっか、あの絵って『どうもおばさん』が家に帰る途中の風景だったんだ」

 驚異的な記憶力に基づいて描かれた絵であるならば――

「あれっ、ノリやんじゃん!」

 唐突に、江美が声を上げた。

 少し離れた街灯の下に、一人の若い男がいた。片手には黒く細長いケースのようなものを持っている。

 男は、私たちの存在に気づいていなかったらしく、びくっと体を震わせた。

「江美ちゃん?」

 男はゆっくりと歩み寄ってきた。

 ちょうど江美と同じくらいの歳頃。痩せていて、骨張った顔立ち。黒縁の眼鏡をかけている。

「あのね、彼は『ノリやん』こと、美山みやま良則よしのり君。高校時代に同じクラスで、今は芸大に行ってるの。音楽やってるんだ。ノリやん、こっちはわたしのおじいちゃん」

「孫がお世話になってます」

 私がお辞儀をすると、ノリやん――美山良則は、しゃちほこ張ってお辞儀を返した。

「ノリやん、ここで何やってるの?」

 江美の問いに美山良則が答えるより前に、私が言った。

「美山君、というんだね。君はここで音楽の練習をしているのかな」

「は、はい、そうですけど……」

 美山は怪訝そうに答えた。さらに怪訝そうな表情の江美。

「なんでおじいちゃん、知ってるの?」

「『どうもおばさん』の絵に、楽器を持った人物が描いてあった。美山君が持っているのは、おそらく楽器のケースだろう。ここなら民家から少し離れているし、夜でも近所迷惑にならずに音楽の練習ができるだろう」

「そ、そうです。家じゃうるさいって親に言われるし、大学の練習室は九時に閉め出されるし、ちょうどここなら、文句を言われずに練習できるので……」

「ねえ、ノリやん。『どうもおばさん』知らない? あ、四十くらいのおばさんなんだけど、この辺りをよく通ってたはずなんだ」

 江美の質問に、美山はすぐに答えた。

「ふーん、あの人かなあ。ちょっと……つまり、アレ、その、何ていうか『障碍』がある女の人?」

 江美は大きくうなずいた。

「そうそう、その人だよ!」

「何度か、ここで会ってるよ。ときどき立ち止まって俺の練習も聴いたりして……ライヴでもないのに人に聴かれるの、恥ずかしいんだけどさ」

「何言ってんの、もうすぐ〈レスト〉のライヴなんでしょ。チケット五枚も買わせたくせに」

 江美が親しげに言う。

「完成してない曲は……人に聴かせたくないんだよ」

 そう言いながら、美山はケースを開いた。取り出されたのは、三分割された、細長くて黒い笛のような楽器だった。伊崎菜穂子の絵に描かれたとおりだ。

 美山は楽器を手早く組み立てた。口をあてると一音を吹いた。透き通った音だった。

「それは、クラリネットなのかな?」

 私が尋ねると、美山は笑った。

「たいていの人がクラリネットとかオーボエと間違えちゃいますけど、イングリッシュ・ホルンです。そしてみんな『ホルン』って聞いて、あんなに大きくないからびっくりするんですよ」

 そして、美山を一度眼を閉じ、静かに楽器――イングリッシュ・ホルンを奏で始めた。それは聞き覚えがあり、どこか懐かしく、切なく、湿った夜の空気をまっすぐに貫いて、夜の公園に響いた。

 演奏を終えると、江美が拍手をし、

「さっすがノリやん!」

 とはやし立てた。確かに、うつくしい曲だった。

「ドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』第二楽章です。『遠き山に日は落ちて』なんて日本語の歌にもなってる有名な曲です」

「私は『家路』という題名で知っていた」

「そうですね。宮澤賢治も詩を付けたことがあるそうです。そういえば、今日は、その『どうもおばさん』だっけ? あの人は来ないみたいだなあ」

 江美がはっと息を呑むのがわかった。

 代わりに、私が半歩前に踏み込んだ。

「伊崎さん――というのが本名なのだが――今日は、来ないよ。もう二度と来ることない」

「は? どうしてですか?」

「亡くなったんだよ。昨夜……この公園で」

 私は、新聞記事に載っていたこと、〈むすびの家〉の内田から聞いたことを、美山に告げた。

 美山は絶句した。みるみるうちに、その端正な顔から血の気が引いていく。

「そんな……どうして……」

「ノリやん……」

 江美が歩み寄ったが、美山は雨に濡れた地面に、がくり、と膝をついた。

 小雨がふたたび降り出していた。私は悲しみに暮れる若い二人に、そっと傘を差しかけた。

「君は、よくここで練習するのかね?」

「一週間に……二、三回くらいです」

 洟をすすりながら、美山は答えた。

「昨夜は?」

「昨日は、バイトでした。漫画喫茶で、夜の八時から、午前一時までです」

「君以外に、ここで一緒に練習している人はいるのかな? つまり、ここで一緒に『どうもおばさん』――伊崎さんに会ったことのある人は?」

 美山は、思案する表情になった。

「ギターのヤマイなら、何度か。それから、ピアノでヴォーカルのカナエちゃんも、一度か二度、ここで練習したことがあります。けど、その人に会ってたかどうかは……。パーカッションのコロクは、さすがに公園じゃ演奏できないので、ここに来たことはないはずです……あ、すみません。ヤマイっていうのは――」

「大丈夫、わたし、〈レスト〉のメンバーのこと知ってるから。あとでおじいちゃんにみんなのこと教えるね」

 江美が答えた。

「美山君、君自身が、ここで誰か怪しい人を見かけたことは? 例えば、伊崎さんの跡を尾けていたような人に気づいたことは?」

 美山は首を振った。

「まさか、そんな人いませんよ。こっちは練習に没頭してたし……あんなにいい感じの人が、どうして恐ろしい事件に巻き込まれなきゃいけないんですか? おかしくないですか? そんなの間違ってる!」

 私は黙っていた。若者がぶつけてきた問いかけは、私にとって、あまりにまっすぐ過ぎた。

 数々の過ちを犯し続けながらも、今まで生き長らえてきた私に、答える資格などなかった。


「よるべなきひとつの死」第3話へつづく

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