第39話 宿屋にて

「はあ……はぁ……はあ……やった……っ!」

 ネリネの一撃で、『氷槍』を受けて弱っていた四頭目のトリュコスは事切れる。すんでの所で、レーキを狙った牙は空を切った。

「はあ……っ」

 呼吸を再開する。鼓動が跳ね回る馬のように暴れている。額に浮かんでいた脂汗が、つと思い出したように流れ出した。

「はぁ……なんで、こんなとこに、トリュコスがいんのよ……っ!」

 返り血で汚れた顔を拭いながら、ネリネはトリュコスの死骸を見下ろした。

「……さあな。どこかに魔獣が出入り出来るような抜け道があるのかもしれない。……『金縛りパラリーゾ』で縛ってあるヤツは? どうする?」

 つとめて冷静に声を作る。強烈な死の恐怖はまだ心臓を掴んでいる。

「あたしがトドメを刺す。ポーターさんは……えーと、なんだか『雑』だから」

「……」

 指摘されてみると、レーキが仕留めたトリュコスの死骸は、あちこちに風穴が空いていた。

 レーキは、動きの素早いトリュコスを仕留める為には面の攻撃が一番有効だと思っただけで、けして精密な天法の扱いが苦手な訳では無い。無いのだが……

宣言通り、ネリネは素早く『金縛り』をかけられ身動きがとれないトリュコスに、とどめを刺した。

 魔獣の肉は人にとっては毒が有るモノが多く、毒のないモノでも食べ続ければ魔人になってしまうと言われていて、食用とすることは出来ない。ただ毛皮や角、牙、爪、と言った素材はただの獣よりずっと頑丈で、需要は大きかった。

「うーん。こっちのトリュコスの毛皮はダメだなーどっちみちここで解体するのは無理か……ねえ、ポーターさん。一匹だけでも持って帰れ無いかな?」

 ネリネはトリュコスを検分し、一番状態の良い一頭を指差してレーキを手招きする。

「……そいつを運ぶなら別料金だ」

「やった! じゃあ決まりね!」

 ネリネはぱちんと指を鳴らして、明るく笑った。状態の良いトリュコスの毛皮や角は、高く売れるだろう。思わぬ副収入と言う奴だ。

「……でも、今回の遺跡調査はここで終わりね……護衛はクビにしちゃったし、ここに住み着いてる魔獣がコイツらだけならいいけど……まだ居るようなら討伐隊を出して貰わなきゃ。二人だけで調査するのは危険すぎるから」

 溜め息混じりに、ネリネが宣言する。

「……そうか。君が安全を取ってくれて、ほっとしている」

「勇気と無謀は別物よ。さ、血の匂いが他のヤツらを呼び寄せちゃう前にここを離れましょ」

「ああ」

 ネリネは消えかけていた焚き火を、カンテラに移してから手早く焚き火台を片付けた。彼女は手についた埃をぽんぽんと払って、ふと何かを目に留める。

「……あ、元護衛の荷物、置きっぱなしだ。うーん。慰謝料として小銭は貰っとくとして……後は残して置いてやりましょ。あたしってば慈悲深い!」

 元護衛の荷物から手早く財布を抜き取るネリネを、レーキは止めなかった。彼がしたことを考えれば、ネリネの言い分ももっともだと思ったのだ。

 ここに来るまでに、ゆうに四刻(約四時間)はかかる坑道の中。それも一本道だった訳でもない。灯りも地図もなしに飛び出した元護衛の男は、果たして無事に出口まで辿り着けるのだろうか。それはレーキの預かり知らぬ所だ。


 レーキとネリネは不眠不休で、金鉱のそばの町まで戻って来た。結局、帰り道で元護衛と再会する事はなかった。

 もう夜が明けている。町の役場に駆け込んで、坑道内に魔獣が出たこと、遭難している男が居ることを説明して、証拠にトリュコスの死骸を見せた。

 町としても、坑道内に魔獣が居ることは好ましくない。近日中に調査すると応対にでた町役人は息巻いていた。

 クタクタだった二人は、その足で宿へ向かった。少しでも良い、睡眠と休息が取りたい。

 トリュコスの死骸は、宿に向かう道すがら革製品を扱う店に売却した。傷も少ない良品としてなかなかの額になった。それをネリネは半分にしてレーキにも分けてくれた。

「運搬料はこれでいい?」

「こんなに……いいのか?」

「うん。あなたが居たから取れた獲物だもん。それと……今回の依頼料は『学究の館』に戻ってからでいいかな? ここでポーターさんに降りられたら、あたし結構ピンチ」

 ふふっ。冗談めかして笑うネリネは、返り血さえ落とせばなかなか愛らしい少女だった。


 町に二軒しか無い宿の一つは、ちょうど二部屋が空いていた。二人は鍵を受け取って、早速部屋へと向かう。

「……色々とありがとね、ポーターさん……じゃ失礼かな、レーキさん」

 向かい合った部屋の扉の前で、ネリネはレーキを振り返って、心なしか沈んだ静かな声音で言った。

「ああ。……いや、俺こそ礼を言いたい。おかげで命拾いした。ポーターでもレーキでも好きなように呼べばいい」

「解った。……じゃあ、ありがと、レーキ」

 ネリネはそれだけ言って、自分用の部屋に消えていく。彼女の背中には疲労の色が濃く現れていた。

「……」

 レーキも黙って自分用の部屋に入って、重い荷物を下ろす。

 そのままベッドに倒れ込みたかった。だが、返り血こそ浴びていないものの、汗はたっぷりかいている上に、坑道内の埃でかなり薄汚れている。出来れば、水浴びか湯浴みをしたい。

 さいわいなことに、水の豊富なヴァローナの宿には風呂用の小部屋が付いていることが多い。この宿にも、浴槽の据え付けられた小部屋が用意されていた。

 宿の主人に頼んで、熱い湯で浴槽を満たして貰う。湯代は宿賃に上乗せされるが、仕方がない。


 入浴の習慣は、アスールで師匠と暮らすようになってから覚えたモノだ。

 アスールの入浴は蒸し風呂が主流だったが、師匠はたまにたっぷりとお湯を作って浴槽に入った。

 レーキは山の村に居た頃も、盗賊団に居た頃も、身体を水で拭うことなども滅多にしなかった。水は貴重なモノで、喉の渇きを潤すためのモノだった。

「ヴァローナでは毎日のように風呂に入る人もいるよ。ここはアスールだから毎日とは行かないがね。……それにしても……ああー! 良い気持ちだねえ」

 初めは水が無駄だ、恥ずかしいと抵抗したレーキだったが、風呂から聞こえる師匠の長い溜め息と鼻歌があんまり気持ち良さそうで、いつしか彼も風呂に入るようになった。

 天法院の寮には、寮生用の大きな浴場が有ったので、レーキも幾度となくお世話になった。


 早速湯に入り、汗を洗い流す。

「ああ……」

 深い息と共に。とっぷりと浴槽に沈み、温かな湯を堪能する。足を伸ばせる大きさの浴槽が有り難い。

 ゆったり心地良くなると、同時に自分がいかに疲れていたのかと思い知らされた。

 そのまま眠ってしまうかとすら思った。だが、湯が冷めてくる前に風呂から上がらなくては。身体を冷やしてしまう。

 後ろ髪を引かれながら、浴槽を出て備え付けの布で水気を拭う。濡れ羽も丁寧に拭ってそのままベッドに倒れ込む。

 目を閉じてしまうとそのまま眠り込んでしまいそうだ。どうにか起き上がり眼帯と下着と王珠おうじゆを身に付けて、レーキはベッドに戻ると、そのまま眠りこけた。夢を幾つか見たような気がするが、内容は全く覚えていない。


 とんとんとん……

 ドアを叩く音で目が覚めた。宿に着いたのは昼前だったというのに、目覚めるとすっかり日が暮れていた。明かりのない室内はひどく暗い。レーキは王珠の光を頼りに、戸口を探して部屋を横切った。

「……何か、用か?」

 そこに立っていたのは、返り血を落とし服を着替えたネリネだった。彼女も風呂に入ったのか、さっぱりとした顔でにっと笑った。

「ご飯よ、レーキ。ご・は・ん。今食べっぱぐれると明日の朝まで飯抜きよ」

「ああ、飯か。ありがとう」

 言われてみれば、腹が減っている。レーキはむき出しの腹に手をやった。

「……ふうん。天法士だって言うのはホントなのね」

 レーキが首から提げていた王珠を目ざとく見つけて、ネリネは納得したようだ。

「ああ」

「ん? しかも王珠五つ? ……って最高位じゃない?!」

「……一応、な」

「やっぱりワケわかんない……! ……後、その、……服ぐらい着てよね!」

「あ……すまない」

 王珠を見ていたネリネの顔色が、急に赤くなった。

 まさか、年頃の少女が部屋に訪ねてくるとは思っても見なかったのだ。レーキは慌てて扉を閉めると、肌着を着て一張羅の上着を纏った。

 その色は天法院で着慣れた黒だった。


 二人は揃って、階下の食堂に下りて行った。食堂は賑やかで、明らかに宿泊客で無い近所の常連も混じっている。

「おー。やってるわね!」

 ネリネは、騒がしい食堂が気に入ったらしい。にっと笑うと、さっさと空席を見つけて腰掛ける。レーキもその向かいの席に座った。

「おいちゃん、麦エール! ジョッキで! 後ツマミになりそうなもの二、三皿と……今日のおすすめは?」

「あいよ! ジョッキ一丁ね! 今日は鶏の半身焼きだね!」

「じゃ、それちょうだい! レーキは?」

「俺は酒は止めておく。……君も、酒は止めておいた方が良いんじゃないか?」

「え? なんで?」

 早速差し出されたジョッキに口をつけ、口元にエールの泡を付けながらネリネはきょとんとレーキを見る。

「君は、未成年だろう?」

「……え、やだぁ! そんなに童顔に見える? あたしこれでも『学究院』出てるのよ?」

 通例であれば『学究院』やその他、専門院に入学する生徒は十五歳を超えている。それから三年間、高等教育を受け、成人年齢である十八歳を迎える頃には卒業するのだ。

 ……と言うことは。ネリネはとっくに成人と言うことになる。

「……そ、そうか……すまない。俺はてっきり……!」

「ま、良いけどね! まだまだ若いのはホントだもーん」

 上機嫌のネリネは、笑って自分の頬を指差しながらジョッキをあおった。

「んく……ぷはーっ!! ……かーっ!! 美味いっ!!」

「お! ねえちゃん良い飲みっぷりだねー!!」

 隣の席で、やはりジョッキを傾けていた常連客がネリネをはやし立てる。ネリネは口元の泡を手の甲で拭いながら、にぃっと歯を見せて笑った。

「まあね! ……おいちゃん、麦エールおかわり!」

 ネリネが二杯目のジョッキを空ける間に、レーキはこの街の名物料理だと言う、豚の香草焼きとウバの果実水を頼む。

「……おい。そんな調子で呑んで大丈夫なのか?」

 運ばれてくるツマミをつつきながら、既に三杯目のジョッキに取りかかったネリネに、レーキは一応声をかけた。

「ん? ああ、この位よゆーよ! よゆー! いえーい!!」

 ネリネの顔色は変わっていなかったが、口調は常以上に明るくなっている。このまま呑ませるのはマズイ。クランたちとの宴会からレーキは学んでいた。

「……少し速度を落とせ」

 麦エール酒の代わりに果実水を押し付けて、ネリネの手からジョッキを奪い取る。

「えー!! ホントによゆーなんだってば! レーキのイジワル!!」

「……そんな事を言う奴ほど酒癖が悪いんだ」

「んー。なんか実感こもってる感じ? ……解ったよぉーだっ!! ご飯も食べるよーっと!」

 ふくれっ面をしたネリネの興味は、酒から食事に移っていった。彼女は鶏の半身焼きを豪快に手掴みで口に運び、かぶりつく。脂で汚れた口元を手の甲で拭い、果実水を喉を鳴らして流し込む。その所作はやはり、元気の良い少年のようだ。と、レーキは思う。

「うん! これも美味い! おすすめなだけのこと有るじゃない!」

 ネリネはパチンと指を鳴らして、半身焼きを賞賛する。

「……にしても果実水ジユースか……こう言う時はやっぱり果実酒ワインでしょ。おいちゃん、ワインー!」

「……おい」

「いいの、いいの! このお料理には絶対ワインが合うから!」

 ……もう、何を言っても無駄だ。諦め気味のレーキの肩を、あははっと笑いながら痛みを感じる勢いでネリネが叩く。

「……さ、レーキも呑もう! おいちゃん、じゃんじゃん持ってきて! 今日はとことん呑むわよぉー!」

 高らかに宣言するネリネの横で、レーキは大きな溜め息をついた。


「……んー。もう一杯……っ!」

「……水なら飲んでいい」

 散々に飲み食いし、酔いつぶれたネリネを背負って、レーキは宿の階段を上る。

 ネリネは本当に酒が強いようで、その細身のどこにそんな量が入るのかと疑問になるほどの酒を飲み干していた。

「……やだぁー! お酒がいいよぉー!」

「駄目だ。今夜は飲みすぎだ」

「やだぁー! やだぁー!」

 全く困った『荷物』だ。子供のように暴れるネリネをどうにか運んで、彼女用の部屋に到着する。

「ほら、着いたぞ」

「……やだぁー! だって、お酒呑んでなきゃ……怖くて、怖くて……眠れ、ない……っ」

 気がつけば、ネリネはレーキの背に顔を埋めてぐすぐすと泣いていた。

「……」

「……あンの、クソ野郎……っ! 依頼人に手ぇ出そうなんて……ワケ、わかんない……っ」

 何も無かったように気丈に振る舞っていたが、やはり年若い女性にとっては坑道で起こったことは恐ろしい出来事だったのだ。

 背に負ったネリネの身体は、とても軽くて。乱暴に扱えば、簡単に壊れてしまいそうで。

 未遂とはいえ、改めて横暴な元護衛への怒りが湧いてくる。

「……部屋、入るぞ」

 レーキは一言断ってからネリネ用の部屋に入り、ぐずって背中からなかなか離れようとしない彼女をベッドに座らせた。

 備え付けの水差しから木製コップに水を汲み、「これを飲め」と差し出す。

 ネリネは黙って、差し出されたコップを受け取って口元に運ぶ。

「……俺には君の痛みは解らない。解ったと言うつもりもない。それがどんな苦しみなのか解るのは君だけだ。だから、君に呑みすぎるなと言うこと以外に、俺に出来ることが有れば……教えて欲しい」

「……」

 踏みにじられた者の痛みが解るのは、同じように踏みにじられた者だけだ。

 だから。レーキに出来ることは少ない。彼が思いついたのは、ただ彼女に寄り添うことだけだった。

 レーキの言葉に。ネリネは苦しげにふにゃりと顔を歪ませた。レーキの服の裾を掴み、彼を見上げると、眼鏡の奥、藍色の眸がじわりと涙に滲み出した。

「……何にもない……何もしなくて、いい……! でも、そこに、居て……っ!」

「……ああ」

「……うっ……ぁ……あーっ! あーっ! 怖かった……すごく、怖かったのよぉ……っ!!」

 ぎゅっとコップを握りしめて、ネリネは堰を切ったように泣き出した。

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