第13話 天法院の食堂で

 学生寮は天法院の敷地内にある。校舎から、歩いて五分も掛からない場所だ。

 こちらも古い建物らしく、煤けた色の石の外壁と窓の少ない薄暗い廊下は、校舎と共通している。ただ、若い学生が多いせいか、こちらの方が少々騒がしい。

今は丁度試験期間中で、試験勉強のために宿舎に篭もっている学生も多いのだと、青年が教えてくれた。

「申し訳ないけど、ここ以外に空いているベッドがないんだ。相部屋という事になるけど、構わないかい?」

 相部屋。ここへくる途中の、苦い記憶が脳裏によぎる。しかしコッパーの好意を無碍むげにする訳にも行かず、勿論余分な滞在費などないレーキは「はい」と言わざるをえなかった。

「ちょっといいかい?」

 青年が軽く扉を叩くと、室内から「開いてるよー」と間延びした声が返ってきた。

 声だけでは若いのか年を食っているのか判別できないタイプだ。

 扉を開くと、寮の部屋は全ての家具が左右対称に設えられていた。二つのベッドと、二つの物入れ、それから二つの机が部屋の端それぞれに配置されている。正面の壁には明かり取りの窓が一つ。窓は西向きなのか、今は陽の光が差し込んでいて、まぶしいくらいだった。

 向かって左側の机。そこには先ほどの声の主らしき学生が、黒いローブを肩に羽織って、机にかじりついていた。人が入ってきた気配を感じているだろうに、振り向こうともしない。

「アルマン君。とりあえず、今日一晩この部屋に泊まる事になったレーキ・ヴァーミリオン君だ。……レーキ君。こちらはアガート・アルマン君」

「よろしくお願いします」

「はいはいー」

 遠慮がちに頭を下げてみる。気のない言葉を返して、アガート言う学生は相変わらず机に向かったまま、なにやら熱心に書き物を続けている。

「……ちょっと変わった奴だけど、悪い奴じゃないから……何か困った事があったら一階の監督生室まで来てください」

 やれやれ。肩をすくめた青年は、そう耳打ちして自分の部屋に引き上げていった。

「……」

 うかつに話しかけたりしては、いけないのではないか。静かな背中が無言のまま圧力をかけてきているように感じて、レーキはなるべく音を立てないように、空いているベッドの端に腰掛ける。その上には十数冊ほど分厚い本が投げ出されたままになっていて、ルームメイトがいない間、そこがアガートの物置になっていた事は一目瞭然いちもくりょうぜんだった。

 手持ち無沙汰ぶさたとしか言いようがない。アガートがペンを動かす音だけが室内に響いている。

 旅の疲れも手伝って、レーキはじきにうとうと船をこぎ始めた。

 ふっと眠り込んでしまうと思った次の瞬間。

「おりゃーっと! 終わりだこん畜生!」

 奇妙な雄たけびと共に、盛大に本を閉じる音がした。レーキは慌てて目を覚まして、辺りを見回す。

 机に向かっていたアガートが、立ち上がって大きく伸びをしている。

 文字通り、大きい。レーキとて決して小柄な方ではないのだが、アガートは彼の頭一つ分以上背が高く、伸びをしている今は、もう少しで大振りな手のひらが天井に手が届きそうな程だ。

 高さに対して横幅はそうないので、威圧感はない。むしろ、ひょろ長く見える分いかにも肉体労働には向かなそうだ。

 肩口まで届く黒髪は、散髪したまま何ヶ月も放っておきましたと言う風情でだらしなく伸び、丸いレンズの眼鏡の下はうっすらとくまが出来かかっている。

 人懐っこそうにわずかに微笑んで見える口元には、転々と無精ひげが生えていて、何日も洗顔もしていないのではないかとレーキは思った。

「はい。お待たせ。レーキ・ヴァルミルオン?」

「……ヴァーミリオンです」

 名前の間違いを訂正しながら、レーキはついつい半分寝ぼけているような、アガートの顔を見つめてしまう。

 声と同じく、顔も若いのか年を食っているのか、一見しただけではどちらとも言えない。

「オレはアガート・アルマン。よろしくー」

「よろしくお願いします。アルマンさん」

 丁重に頭を下げたレーキを、遠慮のない視線でしげしげと眺め、アガートはがりがりと髪をかき回した。

「改まらなくていいよー。オレのことはアガートで良い。堅苦しいのは苦手だ。……今片付けるよ、それ」

 本が乗っかったままのベッドをあごでしゃくって、アガートは別段慌てた様子もなく本を拾い上げていく。

 とりあえず、ベッドの下に押し込めるだけ押し込むと、端に腰掛けるだけで精一杯だったスペースが、どうにか人一人休める程度になった。

「……ふう。これでここで眠れるだろ? リーキ……ヴァ……?」

「レーキです。俺も堅苦しいのは苦手だから。レーキと呼んでください」

 どうやらこの青年、人の名前を覚えることが苦手らしい。一応年上だろうと目星をつけて、言葉は丁重に申し出る。

「レーキ。レーキね。覚えた……多分。所で君、もう飯は食った?」

「いいえ。ついさっき天法院についたばかりなので」

「よし。それじゃあまず腹ごしらえと行こうか。オレは腹が減った」

 どこまでもマイペースな男だ。今まで自分の周りには居なかったタイプの人間に出会って、レーキは面食らってしまった。

「ほいほい。食堂まで案内するからついといでー」

 客人を置いて、さっさと部屋を出てゆくアガートを追いかけて、レーキは慌てて部屋を出る。

「もう直試験だからさ。ヤマを張ってその範囲を頭に詰め込んでたわけ」

「……えーと、話には聞いたことが有ります」

 試験。そう言われてもいまいちピンとこない。マーロン師匠のもとで勉学に励んでいた時は、いつも師匠がつきっきりで課題を出してくれて、それに応えると言うやり方だった。

「試験は……ペーパーテストとか実技とかを試験官の前で行うって聞きました」

「聞きました、かー。じゃあ君は実際の試験受けたこと無いわけだ」

「はい。今までは師匠と一対一でしたから」

「そいつは羨ましいね」

「そう、ですか?」

「だって贅沢なことじゃないか。つきっきりの授業ってのは。今どき大金持ちの子弟でも難しいぜ。まあ、だからこそこの天法院があるんだけどさ」

 そういうものなのか。改めて言われてみると、レーキはマーロン師匠の優しさと温かさに感謝の念が湧いてくる。やはり師匠と出会えたことはレーキにとって真の幸福だった。

「ん? それじゃあ君はどうして天法院に?」

「……師匠は亡くなって……ここへは師匠の遺言で」

「それは……ごめん。辛いことを聞いちゃったね」

「いえ……」

 アガートはマイペースだが、悪い人間ではないらしい。ごめんと言った、その茫洋ぼうようとした顔には、確かに人の死をいたむ色があった。

「いい師匠だったんだろー? 君、すごく悲しそうな顔したもんなあ」

「……はい。とても素晴らしい師匠でした」

 それだけは胸を張って言える。力強いレーキの言葉から師への尊敬や愛情、様々な感情を読み取る事ができる。アガートはなぜか苦笑した。

「まだ王珠おうじゅを授かってないんだろ? 修行の続きはここでするのかい?」

「……まだ、わかりません。師匠の遺言にはそう書いてあったみたいですけど、突然のことで驚いてしまって」

「ここは学ぶにはいいトコだよー教師はまあ、だいたい優秀だし、衣食住は保証されるし、いい図書館は有るしね」

 自分の母校だというのに、何処か他人事のようにアガートは笑う。

「……はい」

「さあついた。食堂だよ」

『食堂』と書かれた額の掲げられた扉をくぐると、そこは巨大な空間だった。

 生徒、教師、職員とこの天法院に集う全ての人々、数百人を一度に収容できるように作られた食堂には、今も大勢の人々が集まっていた。

 その空間には、数人のグループで座れるように作られた長机と、長椅子が何十と並んでいる。

 向かって左側には、厨房と料理を受け渡すためのカウンター。右側には中庭に面した大きな窓があり、陽が傾きかけた時間の穏やかな光が差し込んでいる。

 レーキは言葉を失った。なんて大勢の人間たち、亜人たち!

 皆が思い思いに何かを話しているせいで、ここに立っていると、大きな蜂の巣をつついたみたいにうるさい音がする。

 天法院は大きな建物だと思っていたが、廊下を歩いている人影はまばらだった。だから、こんなにも大勢の人間が、天法院にいるとは思っても見なかった。

 試験期間中、午後の講義は中止になる。それを利用して生徒達はある者は食堂、ある者は図書館、自室、研究室とそれぞれに試験勉強に入っていたのだった。

 中でも、自由にお喋りができる食堂は人気の自習場所だった。

 あっけに取られて固まっているレーキに、アガートは悪戯っぽく笑いかける。

「どうしたー? こんなにやかましい所は初めてかい?」

「……あ、はい……!」

 ここに来る道中でも人の多さに驚いたが、かしましさはこの場所の方がずっと上だ。

「……君の故郷は何処だい?」

「……え?」

「飯の話! 五大国風の料理はいつでも用意されてるから。君の故郷の味に近いものもあるかもしれないよー」

 それだけ言うと、アガートはさっさと食事を受け取るためのカウンターに向かってしまう。レーキは慌てて後を追った。

「ああ、忘れてた。これ使って」

 急に振り向いたアガートにすんでの所でぶつからずに済んだレーキは、目の前に差し出された丸いコイン状の何かを受け取った。

「飯用のトークンだ。それ一つで一つのメニューと交換できる。今日のおすすめはグラナート風煮込み定食」

「……あ、ありがとうございます!」

「そのうち返してくれればいいから。人におごれるほど余裕はないんだ。ごめん」

 片目をつぶって笑うと、アガートは本格的にカウンターに並んでしまう。レーキはあたりをキョロキョロと見回した。

 カウンターの上には、手書きの共通語コモンで『グラナート風煮込み定食』やら、『ヴァローナ風鶏肉のソテー定食』だの、様々なメニューが並んでいる。

──これは……困ったな……

 一人ぽつんと取り残され、レーキは戸惑った。

 無難に『アスール風野菜スープ定食』の列に並ぶと、すぐに威勢の良い食堂の職員が対応してくれる。

「はい! 野菜スープ定食ね!」

 レーキより少し年上に見えるその女性は、頭には布をかぶり、口元を布で覆った獣人だった。柔らかな毛に覆われた耳、キラキラとしたひとみ。彼女を見ていると、不意にラエティアのことを思い出す。その瞬間胸の奥がちりりと甘く傷んだ。

 礼もそこそこに定食を受け取って、レーキはカウンターを離れた。

 空いている長机を探して、端の席に腰掛ける。食堂の喧騒にも、少し耳が慣れてきた。

 溜め息を一つ吐くと、気持ちも落ち着いてきた。緊張の連続で忘れていたが、腹が減っている。レーキはさっそく定食を食べ始めた。

 スープは、何処がアスール風なのだろうと首を傾げたくなる味付けだったが、美味かった。

 一緒についてきたパンはヴァローナ流の柔らかさで、スープに浸さなくても口の中で解けて旨味を残して消えていく。

 アスールのパンは、もっと硬くて日持ちがするように作られている。気候風土が違えばパンまでも違ってくる。旅を通してレーキは様々なことを学んでいた。

「……ああ、なんだ。こんな端っこにいたのか」

 不意に降ってきた声に顔を上げると、アガートが食べかけの定食が乗ったトレイを手にして立っていた。

「……あ……」

「ごめんごめん。君一人じゃ部屋まで帰れないだろ?」

「……あ、その……誰かに聞けばわかるかと、思って……でも、わざわざありがとうございます」

「いやいや、腹が減ってたからそっち優先しちゃったけど……思い返すとしまったなあって思ってさー」

 そう言いながら、レーキの真向かいに座ったアガートは、そう薄情な奴でもないらしい。

「君はまだここに入学するか決めてないんだろ? なら、お客さんだ。お客さんをほっぽりだして迷わせたなんて酷い話、教師に知られたら大目玉だ」

 冗談めかしてくすくすと笑うアガートは、人懐っこい優しげな男に見えた。初対面の人間にこんな話をしたいいものか。だけれど誰かに聞いてもらわずにはいられない。レーキは少し戸惑いながら切り出した。

「……俺、どうしていいのか、迷ってるんです」

「うん?」

 スプーンを口元に運びかけたアガートが、その手を止めた。

「……ここで修行を続けようか、師匠と一緒だった家に帰ろうかって……」

「なぜ?」

「……え?」

「なぜ迷っているのか?って」

 小首を傾げて尋ねてくるアガートは、好奇心を含んだ表情でレーキを見つめてくる。

「……えっとその……すぐ帰るって約束したんです。村の人たちと」

「うーん。約束は大事だよね。……でも君、天法士になりたいんだろ?」

「なりたいです! ……いや、ならなきゃいけないんです……!」

「なら君の選べる道はひとつだ」

 手にしたスプーンをレーキに突きつけて、アガートはきっぱりと言い切った。

「君の師匠がご健在だったとしても、天法士の証しである王珠を授けて貰うには結局何処か天法院に行かなけりゃならないからね。いずれは村、だっけ? 故郷をでなきゃならないと思うよ? 一応、ここは五大国で一番と言われてる天法院だ。不足はないと思うけどね」

「……そう、ですか……」

 考えるまでもない。路銀はわずかで、一度村に帰ったら、再びこの『学究の館』に来るためにはただ暮らしてゆく以上の努力が必要だ。師匠は自分が死んだ後の事を考えて、手紙を自分に託した。ならなにも迷うことはないじゃないか。

 僅かな沈黙の後、レーキは顔を上げた。

「……手紙を書きます。村の皆に。『しばらく帰れそうにない』って」

「そっか。じゃあ君は今日からオレの後輩だ。よろしくねー」

 アガートは、改めてというように両手を差し出した。その手と握手しようとすると、アガートは「違う違う」と笑った。

「これはね、ヴァローナ風の挨拶。空の両手を見せ合って、『あなたに敵意はありませんよ』って示すんだ」

「なるほど。こう、ですか?」

 レーキはアガートに両掌を見せた。そうして挨拶を交わすと、なんだか気持ちがすっきり整理されたような気がする。

「……んー。やっぱりトークン返さなくていいや。今日は先輩のおごりだ。味わって食べろよー?」

 茫洋とだが、嬉しそうに笑って、アガートは片目をつぶってみせた。

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