第12話 学究の館

 途中野宿をしながら、ようやく、『学究の館』まで後半日という地点にある都市に着いた。

 城壁で囲まれた街の門をくぐったのは、既に日も暮れて、一番星と弟月が空に昇ろうかという時刻で。

 今日ここで一泊して、明日になれば『学究の館』に辿り着く。

 一日中歩き通して疲れた足を引きずって、早速いつものように安宿に泊まろうと宿を探した。

 だが、今日はちょうどこの街で催し物があるらしい。手ごろな値段の宿から、少し奮発する事になるランクの宿までどこも埋まっていた。

 ただ一室、普段なら泊まろうとは思わないほど高い値段の宿で、相部屋でよければと申し出てくれた所があった。

 此処でこの宿に泊まると帰りの路銀に少し食い込んでしまう事になる。

 だが、明日は目的地に辿たどり着けるという高揚感に財布の紐も緩んだ。

 それに疲れ果てていた。今日こそはベッドで眠りたい。レーキは宿の申し出を受ける事にした。

 早速部屋へと向かう。二階の一番奥まった部屋。ボーイに扉を開けてもらうと、そこは中々上等な部屋だった。

 部屋の壁には暖炉があった。壁紙は、萌黄色を基調にしたつる草の模様。見るからに高価そうだ。

 家具はどれもしっかりとした造りで、おまけに、ベッドのリネンは清潔で洗いたて。レーキが泊まった事のある宿の中でも、上位に位置する良い部屋だった。

 部屋の中に人の気配はない。おそらく飯でも食いに行ったのだろう。相部屋になった客は今、部屋にいない。

「お客様はこちらをお使いください」

 レーキは、メインの客室より一回り小さい部屋に通される。本来は客の伴っている従者ための部屋なのであろう。大き目の部屋より質素な印象の部屋だ。この部屋にも暖炉があり、燭台が乗っている。こちらは少々小さめのベッドと暖炉の他には、目立った家具はない。

 こちらの部屋でも十分に上等だ。レーキは早速ベッドに寝転がる。寝台は柔らかく、のりの利いたリネンはいい香りがした。

 それだけでも、少々奮発した事の後悔はなくなった。どうにかなるさ。いざとなれば、道中で金を稼ぐ事だって出来るだろう。もともと体は丈夫で、腕力にも自信がある。路銀を稼ぎ出すための仕事も、苦もなく見つかるだろう。

 軽く目を閉じる。靴、脱がないと……。でも少しだけ。どっと全身に広がる安堵感。レーキはそのまま眠り込んだ。


 ほんの一瞬目を閉じた。と思っていた。部屋の戸をノックする音で、レーキは目を覚ます。

 部屋に入った時よりも、蝋燭の長さが半分ほどに減っていた。既に二刻(約二時間)ほどが過ぎているようだった。

 眠い目をこすって扉に向かう。誰だと問うと、答えが返ってきた。若い男の声だった。

「相部屋の者だ。シアン・カーマインと言う。挨拶をしておこうかと思ってな」

 尊大な口調ではあるが、マナーはわきまえているようだ。こちらが許可するまで、扉を開けようとしない。でなければ、ドアは他人に開けてもらう物だと思っているのか。育ちがいいのかもしれない。

「どうぞ」

 レーキはドアを開けた。挨拶されたなら、挨拶を返すのが礼儀だ。

 内開きの扉の向こうに立っていたのは、グラナート風の布の多い衣装を着たレーキと同じ年頃の少年だった。

 一番に目が行ったのは、燃え盛る炎のように赤い髪。

 無造作に垂らされた赤い髪は、背中に折り畳まれている同色の羽まで届いて交じり合っていた。シナモン色の肌、オレンジがかって見える大きなひとみは驚愕にさらに大きく見開かれている。厚めの唇は笑顔を作りかけてかたまり、戸惑いの色が隠しきれない。

 アーラ=ペンナ鳥人に生まれるなら、こうありたいと多くの人々が望む完璧な羽色。

 こんなに間近で、同族と顔をあわせたのは久しぶりだ。レーキも、一体どんな対応をしていいのかわからなかった。

 先に我に返ったのは、シアンと名乗った少年の方だった。

 形のいい眉が不快げに歪んだ。レーキの羽を見つめていたひとみに、嫌悪の色が宿る。

 唇が引き結ばれた。シアンは黙ってきびすを返し、足早に部屋を出てゆく。

 あっけに取られて、レーキはその後ろ姿を見送った。程なく部屋の外でなにやら怒鳴り声がする。

「……の、黒……らわしいっ……!」

 はっきりとは聞き取れなかったが、自分の事を言っているのだと、レーキには判った。

 宿の者が部屋を移ってくれないかと言ってきたのは、それから間も無くの事で。

 他の部屋に空きはないが、物置に予備のベッドがあるので、そちらに移ってはもらえないかと。宿代を半分にしても良いと言うので、レーキは承知した。正直その申し出にほっとしてもいた。あんなに激しい拒否反応を示されるとは、思っていなかった。

 でも、『山の村』にいた頃はずっとそうだったのだ。嫌悪と侮蔑。それが日常だった。

 薄暗い倉庫に移って、レーキは壁を見つめる。この忌ま忌ましい黒い羽。これさえなかったら。俺の羽があいつのような美しい色であったなら。どんなにか人生は喜びに満ちていただろうかと。

 口惜しくて苦しくて。結局眠りにいたのは夜が白み始める頃だった。


 睡眠不足の眠い目をこすりながら、レーキは街の門を出た。

 いっそ乗合馬車に乗ろうかとも考えたが、朝のすがすがしい大気に身をさらしているうちに、徒歩でも構わないかという気分になってくる。

 目的地まではもう一息。長かった旅もようやく半分が終わりだ。

 昨晩の少年とは、あれきり顔を合わせずに済んだ。口惜しくもあり、哀しくもあったが、つとめて思い出さないようにした。自分をおとしめるような、そんな気分になるのは避けたかった。惨めな気分で『学究の館』を訪れなくても済むように。マーロン師匠の弟子として、品格をもって立派に勤めを果たしてきたと、胸を張って村のみんなに言えるように。


『学究の館』。『館』という言葉の響きからすると、建物が一つ二つぽつんと建っているような印象を受けるかもしれない。だが、言葉とは裏腹に『学究の館』は一つの大きな都市だ。

 研究機関である『館』を中心に放射線状に作られたこの都市には、国外からの留学生を受け入れる寮や、学生のための雑貨屋、本屋、寮に入らない学生のための下宿屋、勉強の息抜きにはもってこいの盛り場、等々、学生と研究者のための様々な施設がある。

 一番賑やかな都市の中心部から十分ほど離れると、ヴァローナ国立天法院を初めとする、各専門院が点在する。国内、いや、大陸最大級の蔵書数を誇る図書館、『探求の館』もこの都市にあった。

 学びを求める者に、広く開かれた国際学園都市、それが『学究の館』だった。


 正午を少し過ぎた頃、レーキは『学究の館』に到着した。

 こんな大都市を訪れたのは、初めてのことで。往来にある様々な物や店。レーキにとっては何もかもが珍しく、好奇心をそそるものばかりで。

 黒い服を着た人々と大勢すれ違った。形は少しずつ違う。だが基調になっている色は決まって黒だった。

 黒は学問の色なのだと、マーロン師匠が言っていたことを思い出した。ヴァローナで学問にたずさわる人々はみな黒を着ると。

 街の中心は、ぐるりと壁で取り囲まれている。いくつかの門があり、そこに門番がいるのが見えて、レーキはとりあえず道を聞いてみるために声をかけた。

「あの、すみません。天法院と言うのはどこですか?」

 門番が教えてくれた目印を頼りに、大通りを抜け、大きな建物を左に見ながら曲がった。途中で少し迷ったかとうろたえながら、半刻(約三十分)。

 レーキはとうとう、天法院の前に立っていた。

 天法院の建物自体は石造りで、広い敷地を囲う壁には、レーキの背丈の倍以上もある、大きな門が付いている。その門には『ヴァローナ国立天法院』の文字が書かれたプレートがかかっていた。

 歴史の重みを感じさせる、古い建物。ところどころ蔦の絡まった校舎はどこか陰気で、年老いて気難しい爺さんのような印象を見る者に与える。ある意味でそれは正しいのだ。

 ヴァローナ天法院の出口は狭き門だ。入るは易く、出るは難い。

 毎年百人前後の新入生を迎えて、立派に天法士となって卒業できるものはその半分もいまい。

 歴代のヴァローナ国王が、院長を兼任するこの天法院は、世界でも屈指の天法士養成機関だ。

 教師の大半が三ツ組以上、つまり高位の天法士で、一流の天法士を数多く排出してきた。

「……」

 長年風雪に耐えてきたと思われる門の威厳に打たれ、レーキは固唾をのんだ。

「ここが、天法院……」

 マーロン師匠も此処で学んだ。いや、多くの偉大な法士たちが此処で学び、世に巣立って行ったのだ。

 この石畳を師匠も踏んだのだろうか。

 門番に来意を告げて、入り口へと続くいささか磨り減った石畳をたどり、レーキは感慨にふける。

 まだ少女であった頃の師匠が、この石畳を駆けてゆく。幻影の後ろ姿を追うように、レーキは校舎へ入って行った。

 入り口近くに学生らしき青年が立っている。黒いローブを着て、胸には古い書物を抱えていた。

「あの……ストラト・コッパー様にお会いしたいのです。手紙をお渡しするように言い付かってきました」

 青年は小首をかしげ、ようやくその名前に心当たったようで、うなずいてくれる。

「こちらへどうぞ? 案内します」

 青年は先にたって歩き出した。その柔和そうな顔に幾許かの安心を感じながら、レーキは後に続いた。ようやく師匠の遺言を果たせる。その安堵感も手伝って、不思議と緊張はしなかった。

 窓が少ないせいで、昼だというのに薄暗い室内を、上へ向かって上ってゆく。一階、二階。

 五階分階段を上って。途中で何人か、黒いローブ姿の人物とすれ違った。大抵はレーキより年上のようで、知性的な目をして、穏やかな表情をしていた。

 最上階の一室の前で、青年は足を止めた。鈍い光を放つ、金でレリーフが施された両開きの扉をノックして、青年は来客を告げる。

「あの、ここは……」

 通りがけに見かけた扉と比べると、ずいぶん立派な扉を前にして、レーキは戸惑う。

 コッパーという人は一体どんな人なんだろう。天法院にいるというのだから、教師か研究者であるとは思っていたのだが、どうやらただの教師などではないようだ。

「入りたまえ」

 年老いて枯れてはいるが、深い包容力を感じさせる声が室内から聞こえてきた。

「失礼します」

 軽く一礼しながら、青年が戸を開ける。そこには大きな物書き机があり、その向こうには老人が一人座っていた。豊かな白髯はくぜんを蓄えたその老人は、にっこりと目を細めて立ち上がる。

 少し曲がり気味の背中。分厚いレンズの小さな眼鏡をかけて、足が悪いのか杖にすがって片足を引きずりながらこちらへやってくる。

「ようこそヴァローナ国立天法院へ。儂が院長代理ストラト・コッパーじゃ。何の御用かね?」

「院長代理……」

 ヴァローナ国立天法院の院長はヴァローナ国王本人。これは名誉称号のような物で、国王は実務にたずさわわらない。したがって、今レーキの目の前にいる人物こそが、国立天法院を取りまとめる責任者。最も権威ある者。

「……ッ! はじめましてっ……あの、俺、レーキ・ヴァーミリオンと言います。マーロン師匠……アカンサス・マーロン師の手紙を届けに参りました!」

 ストラト院長代理を前にして、レーキは今更ながら上がってしまった。掌にじっとりと汗がにじむ。

 院長代理の眼差しは優しい。でも、どこかに教育者として、人の上に立つ者としての威厳が感じられる。

 マーロン師匠が時折見せた、天法士としての一面に似ている気がする。

 だが彼の場合は、何十人、否、何百人もの天法士の頂点付近に立っていると言う事実が、彼を非凡なる者にしているようだった。

「ほほほっ。まあまあ、そう固くならんで。もっと楽にしなさい」

「はっはいっ……」

 気分は簡単に切り替えられない。まずは使命を果たしてしまおう。レーキは慌てて背嚢はいのうから、油紙を二重に巻いたマーロン師匠の手紙を取り出した。それをうやうやしく差し出す。

 院長代理は手紙を取り出して、封を切った。

「……アカンサス殿……懐かしい名だ。君はあの方の弟子なのかね? あの方は息災かね?」

「はい。俺がマーロン師匠の最後の弟子です。……残念ながら師匠は先日亡くなりました。一ヶ月ほど前の事です」

「なんと……」

 コッパーはあえいで、杖にすがった。強いショックに、顔面から血の気が引いているのが解る。レーキは老人がくず折れないように、手を差し出して支えた。

 老人特有のしみが浮いた細い指が、レーキの腕にすがる。枯れ木のように細く骨ばってはいたが、優雅だったマーロン師匠の指先を思い出して、レーキは軽く唇を噛んだ。

「……すまんの」

 そう呟いた声もうつろだった。コッパーは崩れ落ちるように椅子に腰掛けた。老いても威厳を湛えていたひとみが、微かに濡れて見える。

 コッパーは眼鏡をはずして、目頭を揉み解すように滲んだ涙をぬぐった。

「わしとアカンサス殿は学生だった頃からの知り合いでの。一時は一緒に旅をしていた事もある。……そうか、亡くなられた、か……」

 コッパーは深く息を吐き出して、目を閉じた。レーキにとっても、マーロン師匠の死は大きな痛手であったけれども。年若い頃から彼女を知っていたこの老人にとって、それはどんな意味を持つのだろう。

 なんにせよ、大きな悲しみを含んでいる事は確かだった。

 レーキは何を言って良いのか判らずに、机の傍らに立ち尽くす。慰めの言葉が心に届かない時もあると、先日身をもって知ったばかりだ。

 コッパーは大きなため息とともに、まぶたを持ち上げる。その奥に垣間見える淡いブルーの瞳は、思わぬ衝撃に濁って見えた。

「……よく知らせてくれたのう」

「師匠の遺言でした。その手紙をコッパー様にお届けするようにと」

 思わず力が入ってしまったのだろう。コッパーはわずかにしわのよった手紙を見下ろして、深く息を継いだ。わずかな躊躇ためらいの後に意を決して、紙面を開く。レンズ越しに、見覚えのある筆跡。

 かつて、この学び舎で共に過ごした日々の中、交換し合ったノートで、共謀して遊びに出かけようと誘うメモで、何度も見かけた細く流麗な筆跡。

 視線が文字を追ってゆくにつれ、コッパーは嗚咽おえつをこらえるように何度も咳払いする。

 二度読み返して、彼は訃報ふほうを運んできた親友の弟子を見上げた。

「……レーキ君。君は天法士になりたいのかね?」

 突然の質問にレーキは戸惑い、隻眼が瞬いた。直ぐに唇がまっすぐに結ばれる。彼の表情が真摯しんしな色合いを帯びて、「はい」と、一言だけ正直に告げた。

「では、君がヴァローナ天法院への入学試験を受けることを正式に許可しよう」

「え……?」

 唐突な宣言にあっけに取られる他ない。院長代理は正式にと言った。冗談であるはずがない。

「それがマーロン殿の遺言だ。『最後の弟子を頼む』と」

 差し出されたマーロン師匠の手紙を見れば、そこにはただ三行だけ。


 さようなら。

 最後の弟子をよろしく頼むわ。


 アカンサス・マーロン


 死んでまであの人らしい。コッパーは力なく笑った。


「まずは旅の疲れを癒やすといい。全てはそれからじゃ」

 あっけにとられて混乱するレーキに、コッパーは優しく言ってくれる。学生用の寮に泊まれる様に便宜を図ってもらって、レーキは半ば呆然としたまま、案内役の青年に付いて行った。

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