#35 哀れな人形使い
雨と血に濡れた街
今日の帝都は薄い幕が下りたように小雨に包まれている。肌にしっとりと張りつくような水滴の中を、私は抱えている書類が濡れないように駆け抜けた。この湿り気や薄暗さに、少し懐かしい感覚を覚えながら。
目的地の地下牢の入口に立つと、濡れた肌に冷たい空気が触れて、少し身震いする。外よりも暗い廊下を抜けてみんなが収容されているところに着くと――まず、さらに暗澹たるオーラをじめじめと漂わせているヤーラ君の姿が目についた。
「ど……どうしたの?」
「もう僕はダメです……殺してください……」
「ホントに何があったの!?」
私が思わず大声で問いかけると、かわりに肩をぷるぷる震わせているゼクさんが答えてくれた。
「くくっ……ガキに叱られてショゲてんだとよ」
「もしかして、マトリョーナちゃん?」
ヤーラ君はしょんぼりしたままこくりと頷く。
「……何しちゃったの?」
「体調管理のために、いろいろと検査の数値を把握しておきたかったんです。……体重とか」
ああ、マトリョーナちゃんが怒って説教している姿がありありと目に浮かぶ。
「平均体重よりマイナス3キロ程度だから、気にすることはないと思ったんですけど」
「マトリョーナちゃんのためを思ってのことだっていうのはわかるんだけどね……」
「あと、ホムンクルスになった部分との接合部を詳しく見ておきたくて」
「ごめん、それはフォローできない」
一気に鉛のごとく落ち込んでしまったヤーラ君に、ゼクさんはゲラゲラ声を上げて笑った。
「ヤーラ、君はおそらく1つのことに集中しすぎて他のことが見えなくなるタイプだな」
「うっ」
スレインさんの真っ当な指摘が少年の心に追い打ちをかけるが、反対側から微笑ましげに見守っていたロゼールさんのフォローが入る。
「大丈夫よ、女心がわからないなんて可愛いもんだわ。女どころか人の心もろくにわからない無神経の極みみたいな男だっているんだから」
「へえ、そうなんだ」
「あんたのことよ、この馬鹿人形」
他人事みたいにニコニコしているマリオさんを見て、私は本来の用事を思い出した。ここに来る前に協会に寄って、メレディスさんから新しいクエスト――つまり、レメクの言う「試練」を受け取ったのだ。
「そういえば、次のクエストがもう決まったんです。今回はマリオさんと一緒にって」
鉄格子の隙間から書類を手渡して、マリオさんにも内容を確認してもらう。
「……場所は『最果ての街』なんだね」
「ええ? あんな汚い街にエステルちゃんを向かわせようっての? そんなの納得いかないわ。あんただけで行きなさい」
「それはルール上無理なんじゃないかなぁ」
ロゼールさんは不満を申し立ててくれるけれど、あの街にはファースさんたちもいるし、事件が起こっているなら私も見過ごせない。
「『最果ての街』なら西方支部の協力も期待できるが……今度は何が起こってるんだ?」
腕を組んでいるスレインさんの眼つきが鋭さを帯びる。私は、おそらくあの街ではありふれていることを答えた。
「殺人事件です」
◇
馬車での長旅を終えて、私とマリオさんは再びこの霧雨に閉ざされた街に帰ってきた。最初に来たときは初っ端から大乱闘で街が滅びかけていたけれど、あの頃の騒々しさとは違って、街はどこか鬱屈とした雰囲気に覆われていた。
その雰囲気は、西方支部の中に入ってより色濃くなった。ロビーには支部の関係者が集まっていて、支部長であるファースさんもこちらに気づいて振り返る。
「……エステルさん」
帽子と丸眼鏡の馴染み深い姿ながら、その眼つきだけは「支部長」ではなくギャングのボスそのものだった。
「お久しぶりです」
「ええ、そちらの事情も伺っています。マリオさんだけでも来てくれてよかった」
「で、殺人事件ってどんなの?」
ピリピリした空気をものともせず、マリオさんがのんびりした調子で説明を促す。
「女性ばかりを狙った連続殺人です。凶器はおそらく刃物で、被害者は性別以外に共通点はありません。この2か月ほどで、9人が殺されています」
「9人も……」
「……ちょうど今朝、うちの職員が犠牲になりました」
「そんな」
この支部を取り巻く焼けつくような重苦しい空気はそのせいだったんだ。私も知っている人だろうか。考えるだけで、この空気が胸の中にまで侵食してくるようだった。
「でさー」
マリオさんは周りの影響を受けることなど一切なく、さっきと同じような間延びした声を出す。
「この事件が<勇者協会>に任されてるってことは、敵が魔族だっていう証拠があるんだよね?」
「そうですね、見ていただいたほうが早いかもしれません。ちょうどソルヴェイさんとアイーダさんが検死を行ってくれています。でも――」
ファースさんは冷静さを繕ったような瞳をちらりとこちらに寄越した。
「エステルさんは、無理しないほうがいいと思います。狐の奴も一目見ただけで吐いたので」
そっとロビーの隅でしゃがみこんでいる狐さんに目を移すと、全身の毛をぶわっと膨らませながら真っ青な顔でぷるぷる震えている。それほど凄惨な光景だったのだろうけれど――
「いえ、行きます。私だけ何も知らないわけにはいかないので」
「わかりました。では……」
私とマリオさんが遺体安置所のような部屋に案内されると、白衣にマスク姿のソルヴェイさんとアイーダさんが迎えてくれた。中は思ったよりも小綺麗だったが、中央の台にある布で覆われたものは嫌でも目についた。
「お久しぶりです、元支部長」
「アイーダさん、覚えていてくださったんですね」
むろん、1日ごとに記憶が消えてしまう彼女にとっては初対面なのだろうけれど、私のことはちゃんと記録に残してくれていたらしい。
「死体ってこれ?」
私の後ろからひょっこり首を伸ばしたマリオさんが空気を読まずに尋ねると、ソルヴェイさんが軽く頷いた。
「防腐処置は済んでるから、好きに調べていい」
「ありがとう」
マリオさんは遠慮なく、遺体にかけられていた布を剥がす。そうして露わになったその酸鼻をきわめる光景に、思わず私は口元を手で覆った。
針のむしろにでもされたかのような、全身にくまなく広がるおびただしい刺し傷。胸から腹にかけては、長く深く刃物で線が引かれていて、その中身が一部はみ出てしまっている。
そして何より――その顔は、私がここの支部長をしていたときに見たことがある人だった。
「……この人……いつも、廊下の掲示物を貼り替えてくれてた――」
思い出した瞬間に膝の力ががくっと抜けて、アイーダさんに背中を支えられた。
「大丈夫ですか?」
「す、すみません……」
「キツかったら出てっていいぞ。記録は全部とってある」
「いえ……ここに、います」
せっかくのソルヴェイさんの申し出だけど、目を背けちゃいけない気がして、私はここに残ることにした。アイーダさんが気を遣って椅子を用意してくれたので、ありがたく座らせてもらう。
マリオさんはニコニコと微笑んだまま、むごたらしい遺体を観察している。
「刺し傷は全部で何か所?」
「20か所です。それ以外は腹部の裂傷のみです」
アイーダさんが手帳を見ながら淡々と答える。
「死因は失血死かな。凶器は?」
「刃渡り15センチメートルほどのナイフだと思われます。現場からは見つかっていません」
「死体が見つかった時間と場所は?」
「今朝6時頃、噴水広場で発見されたそうです。死後6~7時間は経過していたものと見られます」
「なるほどねー」
マリオさんは何か納得したふうに顎を撫でつつ、遺体の傷跡をじっくり凝視している。
「この刺し傷、どれも致命傷にならないよう急所を外してる」
「どうしてそんなことを……?」
「苦しむ姿を見たかったんじゃないの?」
あっさり告げられた答えに、私はまたおぞましい気持ちがこみ上げて来て、必死で飲み下した。
「そして何より、この20か所の傷――全部、同時につけられてるね」
「え?」
人間が、一度に20か所も刃物で傷をつけられるものだろうか。いや、そんなはずはない。
「……見たところ、刺し傷は全部本物のナイフによるものだ。それだけのナイフを操る魔術があるのか、あったとしても器用に急所だけ外せるのか、わかんねぇ。トドメのでかい傷だけわざわざ自前でつけた理由もな」
ソルヴェイさんは心底不愉快そうに顔を歪める。
「人間業じゃないけど、魔族っぽくもない。……なるほどね」
一貫して陽気な笑顔を浮かべるマリオさんは、何か確信めいたように呟いた。
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