第五部

#33 新しい英雄たち

汚濁の中

 「勇者」とはこの人のためにある言葉なのだと、少年だったアルフレートは信じていた。ただライセンスを獲得しただけのそれとは違う、強さと優しさを完璧に兼ね備えた本物の勇者。兄が連れてきたその男に、少年アルフレートは純粋な憧れを抱いた。


 最後に彼を見たのは、魔界に出陣する日のパレードの中。大勢の民衆に声援を送られながら、笑顔で手を振る姿。途中で号泣する幼い妹をあやしてやる場面もあったが、その背中は民衆たちに希望を湧き起こさせるものだった。世界を救うという希望を。


 そして、いまだに「勇者」は帰還することなく――アルフレートは彼と同じ場所に立つことになった。


 ゆるやかに流れる濁り水に浸かる釣り糸を、アルフレートはただぼんやりと見下ろしている。早朝、人もまばらな帝都の川べり。糸が何かを見つけることはなく、無為に過ぎ去る時間に身を委ねていた。


 ――エリックさんにできなかったことが、俺にできるのか?


 心の奥にずっとへばりついている疑問に、まだ答えを出せないでいる。「最強勇者」の兜を被れば、そんな弱音を吐露することも許されない。


 <ゼータ>がいればよかった。戦闘力の高さは申し分ないし、ゼクが魔族だったというなら、いっそともに魔界に来てくれればこれほど頼もしいことはない。

 なにより、こんな最強勇者らしからぬ思いもエステルになら話せるような気がした。


 ふいに、糸がピンと張り詰める。何かが掛かった。さらわれていく糸を急いで巻き取ると、釣り針には小さな魚が引っ掛かっていた。


「稚魚かぁ」


 ピチピチと尾を振る姿に頬を緩めて、アルフレートはその魚を川に放してやった。大きくなれよ、と心の中で一声かけて、濁った水の中をすーっと泳いで消えていくのを見送った。



  ◆



「おっしゃっている意味がわかりません」


 オーランド・ドナートは思わず不服を申し立てるような物言いになってしまったことに、言った後で気がついた。眼前の男――ウィルフレッド・ウェッバーはそんなことを気にする手合いではない。むしろ、その反応を予期していたかのように会長室のソファに背を預けた。


「協会内に魔族が潜んでいるという話、君も聞いていただろう。それは私かもしれんし、君かもしれんが――いちいち疑っていては、内部分裂に陥ってしまう」


「それは理解できますが……」


「<ゼータ>の担当から外されたのが気に入らないのかね」


 ドナートは口をつぐんだ。違うと答えれば嘘になるが、気にしているのはそこではない。会長は構わず続ける。


「スヴェトキン君から進言があったのだ。魔族が誰かわからない以上、『もし魔族だった場合により厄介な人間から警戒すべきである』とな。そして厄介なのは、内部や勇者たちの事情をよく知る者だ」


 理にはかなっている、ように聞こえる。だが。


「それで……なぜ、<ゼータ>の監視をメレディスに一任するんですか」


 協会に貢献していたとはいえ、<ゼータ>は魔族のいるパーティだと周知された以上、協会の監視下でのみ活動を認められている。その監視役がメレディス1人だということに、ドナートは納得がいかない。


「彼はこちらに来て日が浅く、先ほど言った『内情を知る者』に該当しない。闘技場襲撃のときも潔白が証明されている」


「ですが!」


「数少ない信用のおける職員だ。どの道、<ゼータ>と関わりの深かった君は外さねばならん。これ以上は、君への疑惑を強める結果になってしまうぞ」


 会長の警告を受け、ドナートはもはや反論の余地を失った。



 オフィスに戻ってからも、心の靄が晴れることはなかった。それがそのまま顔に出ていたのか、調子のいい同僚が目ざとく食いついてくる。


「よお、オーランド。会長に叱られでもしたかぁ?」


 レミーはあえてからかうような調子で、淀んだ空気に涼しい風を送り込もうとする。彼はそういう男だ。協会内が疑心暗鬼にまみれていても、どこ吹く風を貫こうとする。


「エステルちゃんと引き剥がされたのは辛いだろうけどな、あんま気にすんなよ。なんだったら~、仕事以外でお近づきしちゃえばいいじゃないの~。ええ~?」


「……お前のアホ面を見て、少し気が楽になった」


「流れるように俺のダンディフェイスをディスるんじゃねーよ」


「冗談だ」


 なんてこともないように席に着いたが、ドナートはいまだ違和感を拭えないでいる。魔族疑惑が持ち上がってから、何かがおかしくなった。職員たちがお互いに不信の目を向け合っている――それは理解できる。しかし、どうしても解せないことがある。


 すべてが、あの男に都合のいいように動いている。


 経歴が浅くリスクが低い。潔白が証明されている。それらしい理屈だけで、不自然なほど信用が置かれている。そのことに異を唱える者は誰もいない。


「レミー」


「おん? 俺なんかミスった?」


 鼻歌まじりに書類業務に取り掛かっていたレミーに、ドナートは静かに切り込んだ。


「いや……。お前、闘技場襲撃のときにメレディスと一緒にいたんだよな」


「ああ。それが?」


「本当に、ずっと一緒にいたのか?」


 ドナートの真摯な顔つきに気圧されたのか、レミーのとぼけた顔が少しこわばった。


「……そう……だったと思うけど」


「『思う』じゃだめだ。確かなのか」


「や、あんときゃみんなパニクってたし、そんなにちゃんと覚えてねぇよ。てか、お前――」


 この鈍感な男も、さすがに質問の意図を察したらしかった。


「あいつの潔白を裏付けているのは、お前の証言だけだ。もしそこに綻びがあれば、どうなる」


 徐々にレミーの顔が青ざめていく。自分が敵に利用されているという最悪の可能性に思い至ったのにちがいなかった。


「よく思い出せ。お前は本当に――」


「ドナート課長!」


 爽やかな声が、2人のやり取りを両断した。ドナートはまさに今話題に出していた声の主にじっと目を寄せる。


「<ゼータ>の資料をいただきたいのですが……お取込み中でしたか?」


「いや……」


 言われた通り、引継ぎ資料を次の担当者となるメレディスに手渡す。


「ありがとうございます」


 短い礼だけを述べて、彼はすぐにオフィスを後にした。

 遮られた話を再開しようと、ドナートはもう一度レミーのほうに向きなおる。


「それで? どうだ、思い出したか」


「へ?」


「『へ?』じゃない。襲撃のとき、本当にメレディスといたのか?」


 いつの間にとぼけ面に戻っていたレミーは、先ほどの会話などなかったかのように、けろっとした顔で答えた。


「ああ、ずっと一緒にいたぜ。なんだよお前、あいつを疑ってんのか? 気持ちはわかるけどよ、誰かを怪しむのは今はよくねぇんじゃねーの?」


「……!?」


 ドナートの違和感が膨らんだのは言うまでもない。レミーは確かに軽々しい男だが、真剣な話をなかったことにするようなことはしない。


「おい?」


 考えるより先に立ち上がっていた。そのまま友の制止も振り切って、ドナートはオフィスを出ていった。

 廊下にまだ残っている後ろ姿に、噛みつくように叫ぶ。


「待て!」


 足を止めたメレディスは、薄明かりに表情をぼかしたままゆっくりと振り返る。


「……どうなさいました? そんなに慌てて」


「とぼけるな。どういうつもりだ……!」


 無機質な眼鏡の反射に瞳を隠して、口元に作り物のような微笑みをたたえる。


「俺は、<ゼータ>や……勇者の方々が、大好きなんです」


 唐突な話に、ドナートは意図が読めずいぶかるような目つきを返す。


「本心ですよ。勇者たちを支えるために汗水垂らして働く、あなたたち職員も尊敬しています」


「何が言いたい」


 ガラスの奥の瞳が、赤い煌めきを放つ。


「俺が、<勇者協会>をあるべき姿に戻す。どんな手を使っても」


「そのために<ゼータ>を利用するのか」


「逆です。<ゼータ>のために<勇者協会>を利用するんです」


「何を――」


 突如、ドナートの目の前にいた男がひどく恐ろしい何かに変貌した。メレディスの外見は何一つ変わっていないのに、その存在の恐ろしさだけが急に肥大化して、ドナートの心臓を鷲掴みにする。


「これは、世界のためなんだ」


「……っ」


 喉を締め付けられるような感覚に阻まれながらも、ドナートはどうにか声を絞り出す。


「あいつらを舐めるなよ……俺の選んだパーティだ」


「舐めてなどいませんよ。あなたは本当に、素晴らしい仕事をなさった」


 メレディスは純粋な尊敬の瞳を送って、余裕たっぷりに自らの上司に背を向けた。

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