忍び寄る魔の手

 支部長であるエステル不在の<勇者協会西方支部>だが、いつもと比べればそれほど忙しくない、とファースは支部の中を慌ただしく駆け回りながら感じていた。彼の基準では「身体が2つ必要だ」と思い始めてからが「忙しい」の範疇に入る。


 そんな具合だから、周りの様子を見るだけの余裕はたっぷりあって、1人の職員が体調が悪そうなのにもすぐ気がついた。


「顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」


「まあ……平気っす」


 彼は仕事終わりに揚々と遊びに行くような楽天的な人間だったと記憶している。それが青い顔でげんなりしているとなれば、嘘をついているのは明白だ。


 何かあったのか、とファースが聞いても彼は答えてくれないだろう。エステルなら話は別だったかもしれない。職員の誰もが彼女には気を許し、くだらない雑談から支部への要望までなんでも話しているようだ。支部長不在というのがこういうところで響いてくる。


「ですが……その調子では仕事もままならないでしょう。せめてソルヴェイさんに薬でも貰ってきましょう」


「あー……っす」


 体調が悪いというよりはぼーっとしているように見える彼はのろのろと立ち上がる。

 何日も寝ていないかのような覚束ない足取りで、どうにも心配なのでファースも後に続いた。



 ソルヴェイの仕事部屋は、ここ最近魔族の製作した薬品を調べる研究所のようになっていて、付き添いのアイーダはもはや助手のようにここに入り浸っている。上がってくる報告書は「わからない」とアイーダがそのまま記したであろう文言が散見され、ファースは苦笑した覚えがある。


 例に漏れず、今日も2人は机の上に乱雑に散らかされたメモのような紙きれたちとにらめっこしていた。


「おー……?」


 入ってきたファース達に、ソルヴェイはとぼけたような声で怪訝な眼差しを送る。


「お取込み中すみません。彼、体調が悪そうでして、ちょっと診ていただけたらと――」


「あー……」


 ソルヴェイはぼんやりと職員の男を一瞥すると、薬品がびっしり並んでいる棚を指差した。


「あれ」


「薬品1712番ですね。量は0.25mgでよろしいですか?」


「ん」


 指示とも呼べないごく短い指示を完璧に理解するアイーダに、ファースは目を丸めた。棚から目的の薬をぱっと取り出してすぐに飲める状態にし、職員に渡す。本当に優秀な助手のようだ。


 毎日記憶を失うという体質が信じられないほど、アイーダは有能だ。仕事の飲み込みが異様に早い。頭の出来が常人とは違うのではないかとファースは勘繰っている。


 などと感心していたそばで職員がばたんと机に突っ伏し、小さい身体が驚きで跳ねた。


「えっ!? な、何を飲ませたんですか!?」


「わかんねぇ」


「睡眠薬です」


「ああ……」


 一応納得したファースは、せっかくだからと机上を埋め尽くす紙を見回してみる。


「今、何を調べてるんですか?」


「薬品の出所ですね」


「はぁ、出所……でっ!?」


 またしてもびくっと飛び跳ねたファースは、思わず紙束を凝視した。てっきり成分や何か調べているものと思ったら、そこまで調査が進んでいたとは。


「結論から申し上げますと、魔族製の毒薬の原料は大半が原産地不明の植物のようです。おそらく、魔界から持ち込まれたものかと」


「魔界の植物、ですか……。その毒を、もし人間に盛られたら……?」


「対処法はもちろん存在しません。ソルヴェイさんが解毒剤を作ろうと試みているところです」


「な、なるほど……。ちなみにその、『Q』のほうはどうなんでしょう? 魔族はそっちが本命なんじゃないかと思うのですが」


 そこまではアイーダも把握していなかったのか、黙ってソルヴェイのほうに視線を移す。


「んー……前に貰ったサンプルは、とても人間には投与できない代物だったけど……そっから改良されてたら、まあ……わかんねぇ」


 魔族が「Q」を街中に流すつもりなら、使用者が死んでしまったのでは話にならない。死なない程度に効果を抑え、かつ中毒性の高い薬物に仕立てあげてしまえば、街は大混乱に陥るだろう。



 ファースが悪い想像をしているところで、聞き慣れた慌ただしい足音が近づき、ドアが開いて予想通りの顔が出てきた。


「大変だぁぁ―――っ!!」


「……そんなに似てるかなぁ、こいつに」


「へ?」


 もはや名物となっている狐の大騒ぎだが、呆れてもいられない。この男が持ってくる情報は、本当に大騒ぎするだけの重大性を持っていることが多いからだ。


「旦那、やべぇっすよ!! 青犬から聞いたんですが、ついに出ました!!」


「何が」


「例のヤクっす……『Q』の中毒者っすよ!!」


 ガタッ、と椅子が倒れる。その音の主は狐の知らせを聞いて驚きに目を見開いた3人のうち、誰でもなかった。


 急に立ち上がって異様な雰囲気を発し始めたのは、体調が優れないとここに連れられた職員の男だった。


 衝撃の最中にいたファースは状況が飲み込めず、男がふらふら歩くのをただ目で追っていた。睡眠薬を投与されたはずの彼は、ギラギラした目つきでなぜかソルヴェイの前に立ち止まる。

 嫌な予感が過ったファースが声をかけようとしたが、遅かった。


 何を思ったか、男はソルヴェイの顔面を思いきり殴りつけたのだ。


 女性としては身長の高いその身体は容易に吹っ飛び、後ろの棚にぶつかって中の本や紙束をどさどさと吐き出させる。その中に埋まったソルヴェイの胸倉を掴み、男はさらに追撃をかけようとする。


「何をしてるんだ!!」


 ファースは思わず大声を出す。が、男は周りへの意識を一切遮断しているようで、血走った眼で拳を握りしめている。


「お、お、おま、おまえが……!!」


 男は完全に正気を失っているらしい。ファースは咄嗟にこの場で彼を止められそうな人間に目配せした。

 身体が固まっていた狐はその視線にハッとして、ファースの顔と殴られそうなソルヴェイを交互に見る。


「うっ……うおおおおおおおっ!!!」


 狐は自分を鼓舞するように叫びながら、男に向かっていって脇から体当たりをかました。2人は一緒になって倒れ込み、床に叩きつけられる音が響く。


 喧嘩嫌いの臆病者とはいえ、やはり獣人の男のタックルはかなり強力だったらしく、職員はすっかり伸びてしまった。一方の狐は額に痣ができた顔でよろよろと上体を起こし、どこかに吹っ飛んでいったサングラスを探している。


 いつの間に立っていたソルヴェイが、割れてひしゃげたサングラスを一瞬で修復し、わたわたしている狐の前に差し出した。


「……やっぱ、強えーじゃん」


「え? あー……ども」


 危機が去って緊張から解かれたファースは、大急ぎでソルヴェイの元に駆け寄る。


「ソルヴェイさん、大丈夫ですか!? 怪我は!?」


「治した」


「はあ……」


 見れば、腫れていた頬は綺麗になっていて何事もなかったかのように平然としている。彼女ほどの腕前があれば、ちょっと殴られるくらい蚊に刺されるようなものなのかもしれない。


「彼の処遇はいかがしますか?」


 白目を剥いている男を覗き込みながら、アイーダは至極冷淡な調子で尋ねる。彼がなぜ突然暴走したのかわからない現状では、ファースも少し悩んでしまう。


 アイーダの隣に屈みこんだソルヴェイは、自分を殴った男をなんとなく眺めて――ぽつりと呟く。


「……『Q』だ」


 ファースと狐は一斉に青ざめる。


「それは、つまり……彼も、『Q』を服用しているという……?」


「完全に中毒だな」


 遅かった。すでに魔族は街に例の危険薬物を流し、その魔の手が<勇者協会>の職員にまで及んでいる。街中に広がるのも時間の問題だ。


「ウ、ウウゥ……」


 おぼろげながら意識が戻ったらしい職員の男が呻き声を漏らす。立ち上がる気力はないようで、ファースは慎重に近づいた。


「あなたはどこで『Q』を手に入れたんですか? それとも誰かに盛られた覚えが?」


「く、くく、くい……ん……」


「……『クイーン』?」


 男は顔を起こし、震える手である人物を指差した。


「あ、あ、あ、あいつ……だ」


 3人は一斉に、わずかに険しい表情を浮かべた白衣のエルフに視線を集めた。

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