無の世界

 さて、何がトリガーになったものか、マリオにはわからない。


 わからないが、ひとまず狙い通りにはなった。


 自分の足が動かなくなった時点で、彼は作戦を変更していた。自分は死ぬ可能性が高いので、ヤーラだけでも生存させなければならない。


 戦闘力ということを考えるならば、ヤーラは正気を失っているときのほうが強い。


 いつもより爪を噛む癖がひどくなっていたから、彼が強いストレスを感じているのはわかっていた。そこで自分を見捨てるように促せば、その度合いが高まるのではないか――結果的に、それは成功だった。


 マリオが狂わせた少年は、彼が自分の弟だと思い込んでいるホムンクルスとともに、壁に手を当てて何か呟いている。


「……これは、どこまで続いているんでしょうか」


 いつもと同じような口調だが、いつもより抑揚がなく機械的だ。


「魔術でつくられた空間だから、広さはわからない」


 会話ができるかは未知数だったが、マリオは真面目に返答した。


「魔術、わからない……わからない? 出られないじゃないか。どうすればいいんだ……」


「その壁に穴を空ければ、通路には出られるよ」


「壁、穴、通路……」


 これは会話とは呼べないかもしれないな、とマリオは思った。今のヤーラは聴覚で受け取った情報を処理しているだけで、他人と言葉をやり取りしているという自覚はなさそうだ。



 ドゴォ、と壁が粉々に砕けた。


 マリオはてっきり錬金術で壁の形質を変えるものと思っていたが、単純にというか、ホムンクルスが殴って壁を壊した。


「ああぁ……ダメじゃないか、家を壊しちゃ……!! また父さんと母さんに叱られる。いいよ、僕が……謝っておくから……」


 時空間の認識が過去の記憶とないまぜになっているらしいヤーラは、憂鬱そうに肩を落としながら、ホムンクルスとともに壁の向こうへ行ってしまった。



 自分が認識されなかったのは幸運だったかもしれない、と取り残されたマリオは振り返る。


 敵味方の区別がついていない今のヤーラには、最悪の場合ホムンクルスの餌にされてしまう可能性が十分にあった。ここで死ぬにしても、その殺され方はまずい。仲間を殺したという事実は、あの真面目な少年の精神を蝕むだろう。


 それで彼が勇者を続けられなくなったら、結局マイナス2だ。意味がない。

 もしそんな状況になったら、自分が敵に殺されたように偽装しなければならない。



 だがそれでもリーダーには報告しておくべきだ、とマリオは右手のブレスレット状の魔道具を起動する。


「やあ、エステル」


『マリオさんですか? よかった! 連絡がないから心配してたんですよ。そっちは無事ですか? ヤーラ君は?』


 矢継ぎ早の質問で、エステルがどれだけこちらの身を案じていたかがわかる。

 わかってはいても、マリオは現状を端的に説明することしかできない。


「ごめん。ぼく、死ぬかもしれないんだ。ヤーラ君だけはなんとか助けてみるよ。それじゃあ」


『え――』


 返事を待つでもなく、すぐに通話を切る。



 人は死んだら天国に行く、とクラリスは言っていた。友達を欲しがっていたから、自分が殺した人々が天国に行って、彼女と仲良くしてくれればいいと思う。


 だが、悪いことをした人間は地獄に落ちる、というのも知っている。


 ――ぼくはきっと、二度とクラリスには会えないだろうな。



 すぐ後ろから轟音が聞こえた。ガラガラと煉瓦が崩れ落ちる。


 さっき去っていったばかりの彼――いや、彼らが、反対側から現れたのだ。


「なるほど。この道はループしているのか」


 マリオは1人で納得する。道は長く感じたが、そう広い空間ではないのかもしれない。


「――ループ? 出られないじゃないか。どうすればいいんだ……」


 そのリアクションもループしている。



「……あなたは、だれですか」


 虚ろな目がこちらを向いていて、マリオは身構える。自分の存在が彼の意識にとらえられた。


「ぼくはマリオ。君の友達さ」


 努めて明るいトーンで話してみるが、ヤーラは逆に悲しげな顔になった。


「友達……友達なんて、僕にはいちゃいけないんだ。遊んでいる暇があるなら、家の手伝いや、アーリクの世話をしなさいって、母さんが言うから……」


「君の両親は死んだよ」


 こういうときに事実や論理などが通用することは少ないとマリオは知っていたが、それ以外の対応の仕方を心得ていなかった。


「……あははははははっ!!」


 残酷な事実を突きつけられたはずの少年は、なぜか笑い出した――かと思えば、急に険しい顔になった。


「ふざけるなよ、お前。馬鹿にしてるのか? 誰が殺したって?」


 ふざけてもいないし、馬鹿にしてもいないし、殺したとも言っていない。人間とはかくも複雑で難解なものか。


 生気のない瞳に、暗い光が灯る。


 マリオの右手の甲が泡のように膨れ上がり、弾けて血や肉片が飛び散った。


 普通の人間なら悶絶するほどの痛みかもしれないが、感覚の麻痺したマリオには虫刺され程度の不快感しかない。

 それよりも、こういう攻撃をしてくることが意外だった。


「ぼくを殺さないのかい? やろうと思えば一撃で仕留められるだろう」


「……殺す? ははっ、あははははっ!! ――そちらこそ。どうして僕を殺して止めてくれないの? 殺し屋のくせに」


 それは自嘲的な笑いに見えた。ヤーラはようやくマリオのことを、どの程度かは不明ながら思い出しているようだった。


「殺し屋は前職だ。ぼくが君を殺したら、ぼくは<ゼータ>にいられなくなって、マイナス2。君はぼくを殺しても故意じゃないから、エステルたちは許すと思う。だからマイナス1」


「マイナス2よりはマイナス1のほうがいい。……でも、本当は――マイナスはゼロなのが一番いい。そうでしょう」


「その通り」


 笑って頷くと、ヤーラは先刻自分が破裂させたマリオの右手を、一瞥しただけで元通りにしてしまった。


 ――ポーションなんていらないじゃないか。彼の力は底が知れない。


 むろん飛び散った血はそのままなので、完全に回復したわけではない。しかし、見ただけで治癒できるというのは、上級のヒーラーをも凌駕するレベルの能力だ。



 強大な力を秘めた錬金術師は、再び壁に手を当てている。


 四方八方の煉瓦にヒビが入り、砕けた欠片がさらさらと落ちていったかと思うと、その欠片は次第に溶岩のような粘性の流体となった。


 無限に続く通路は崩れ去り、そこから見える外界から隔離された空間の外側は、まさに暗闇だった。



 少年は、そのまやかしの世界を創り変える。



 できあがった世界は、何と形容すればいいのか。


 混沌、無秩序、宇宙――どれも近いようで正確ではない。



「――おれみたいな術を使う奴がいたのか」


 その声の主があの通路の主であることはすぐにわかった。


 亜空間の向こうに立っている、猫背の男――魔人だ。

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