黒き谷の遺跡
そこは、空を両側から押し潰すように高くそびえる断崖絶壁に挟まれた、石造りの建造物。冷たく鋭い岩肌が剥き出しの切り立った崖に埋もれた人工物は、長い歴史を経てところどころが朽ち果てて崩れ落ち、険しい自然に敗北していた。
<黒き谷の遺跡>――魔界の入り口、というにはあまりにも似つかわしすぎる場所。
数多くの勇者と魔族が往来してきた、2つの世界を繋ぐ黒い架け橋。
穴だらけではあるが、その入り口となりえる部分はすべて大きな紫色のガラスのようなもので封じられている。
「これは結界ですね。勇者協会の賢者の方々が張っているもので、魔界から来る魔族たちをせき止めるための防壁です」
私より勇者歴の長いヤーラ君が説明してくれる。
「情報屋くんの話からすると――敵の魔人はその小さいゲートから牢屋に侵入して、ゼクを魔界に連れ去ったんだと思う」
「それなら<ホルダーズ>に反応がないのも頷けますね」
この不穏な雰囲気が漂う場にあって、マリオさんは変わらず淡々と推論を進める。逆に、いつもマイペースなロゼールさんは眉根をひそめたまま暗い紫の壁を見据えている。
「スレインが言ってた長髪の魔人が出てくるかもしれないわ。エステルちゃんは、そいつを見たら真っ先に逃げなさいよ」
「……はい」
「目ざとい人形男さん? この辺りに敵の気配はあるかしら」
「いや、今のところは。でも、例の小さいゲートを通ってくるなら、どこから来るかわからないから気をつけて」
それからは、異様な緊張感をはらんだ無言が続いた。鉛のように重たい沈黙。時折耳をかすめる風の音すら、恐怖心を跳ね上げた。
この黒い空気のどこかから、亡霊のように魔人が襲ってくるかもしれない。あるいは、紫の結界を突き破って、ゼクさんが帰ってきてくれるかもしれない。私は後者を願ったが、不気味な静けさが虚しい望みをかき消していく気がした。
「……?」
――最初に異変に気づいたのは、みんなと同様に周囲を警戒していたヤーラ君だった。
「どうしたの?」
「いえ……なんか、この辺りの魔力が薄くなったような――」
「っ……!」
何の前兆もなく、ロゼールさんが膝をつく。
声をかけようとした矢先、背後から現れた強烈なほどにおぞましい気配が私を縛り付けた。
「人間の勇者か」
底の見えない低い声。聞き慣れたものではなかった。硬直した身体に抗って、振り返る。
宵闇のような青い肌。先細りした耳と、2本の角。――後ろになで上げた、長い髪。
冷たく尖った漆黒の目に浮かぶ赤い瞳は、まるで私の喉元につきつけられた刃物だった。
――逃げなきゃ。頭では強く念じていることが、固まった足に伝わらない。
最初に動いたのはマリオさんだった。逃げるでも攻撃するでもなく、さも知り合いに出会ったかのように、平然と魔人に歩み寄っていく。
「やあ! 君はゼクの友達かい?」
こんな状況であんなに明るい声が出せるのは、この世界でマリオさんだけだと思う。魔人は厳めしい顔つきで、その陽気な青年をただ睨んでいる。
「今君がやったのは、魔力を奪う術だろう? いきなり攻撃してこなかったってことは、君とは話し合えるってことだと思うんだ。ぼくと友達になろう!」
ロゼールさんが急に座り込んでしまったのは、あの魔人の魔術だったようだ。茫然と青い顔で固まっている彼女はもはや戦闘不能で、戦える人間がマリオさんだけになってしまった。だから、彼は交渉に切り替えたのだろう。
果たして魔人は、静かに口を開いた。
「エステル・マスターズという女を知っているか」
どくん、と心臓が跳ねる。
どうして、私の名前を――?
「そこの彼女さ」
マリオさんはあまりにも無警戒に、私のほうを指差す。
「そうか。その女をこちらに渡せ」
「え?」
魔人が私を指名する意図がわからなくて、その峻厳な顔つきをまじまじと見つめる。要求を受けたマリオさんはといえば、何でもないことのように笑った。
「いいよー」
「待ってくださいよ、マリオさん!! それじゃ、エステルさんが――」
慌てているヤーラ君に、マリオさんは左の手のひらを突き出して制止している。が、右手のほうはポケットのほうを指でトントン叩いている。
ヤーラ君は、それで何かを悟ったらしい。
「まあまあ。魔人くん。彼女を渡せば、ぼくらは見逃してくれるんだろう? 君には絶対勝てそうもないしね。みんなの身の安全が大事だよ」
話している間にも、背にぴたりと隠れた右手の3本の指が、時間をカウントするかのように1つずつ折り曲げられていく。
3、2、1――
バリン、とガラスが砕ける音。
濃い煙が爆風みたいに一気に広がって、辺りの景色を丸ごと封じ込めた。何も見えずに戸惑っていると、手首のあたりをがしっと掴まれた。
「エステルさん、こっちです!!」
「えっ?」
ヤーラ君の小さな手に引かれて、魔人がいたほうとは反対側に誘導される。
振り返ったわずかな一瞬に、合図を出したマリオさんの姿が、煙の合間に閃いた。魔人の背後から小さな刃物を突き刺そうとする、殺し屋の眼――
その姿が煙幕に包まれたとき、何かが裂ける音が響いた。
直後、私を引っ張っていた手が緩んで解ける。足を止めると同時に、煙が一気に晴れた。
「……ヤーラ君!?」
うつ伏せに倒れているその姿を見つけて、思わず叫んだ。肩をゆすってもぐったりしたまま目を開けない。意識を失っているらしい。
「――昨今の勇者とやらはなかなか厄介だな」
その低音に、はっと振り返る。
血を流していたのはマリオさんのほうで、刃物を持っていたほうの腕は手首から肘のあたりまで大きく裂けている。魔人の鋭利な爪からは返り血が滴っている。
「貴様は潰しておいたほうがよさそうだ」
「待って!!」
魔人の静かな殺意がマリオさんに向いた直後、私は反射的に声を上げていた。
「待ってください!! あの、私……一緒に行きます。だから、仲間を傷つけるのはやめてください」
振り上げられた爪はいったんは止まったが、魔人の赤い瞳にはいまだに殺気がみなぎっている。
「ダメよ」
制止したのは、ふらふらと立ち上がったロゼールさんだった。魔力を奪われた彼女の顔色は病人のように蒼白だったけれど、その碧眼には力強い意志が宿っている。
「行ったら二度とこちらには戻ってこれなくなるわ。あなたはここにいる全員を犠牲にしてでも、生き残らなきゃいけないの」
「……!」
私は唇をぎゅっと結ぶ。ロゼールさんが言っていることはわかる。わかるけれど――
「無駄だ。貴様らは逃げる刻を稼ぐ間もなく死ぬことになる。大人しくしているのが賢明だ」
魔人が手をかざすと、何もない空中に人1人通れそうなくらいの楕円形の穴ができた。あれがロキさんの言っていた、この世界と魔界を繋ぐ小さなゲートなのだろうか。
魔人は黙って私を見る。大人しくあの中に入れば、ここにいるみんなは助けてくれるかもしれない。
けれど――もう戦う力が残っていないはずのロゼールさんもマリオさんも、その瞳に宿る戦意は消えていない。意識を取り戻したヤーラ君も、必死に立ち上がろうとしている。
「早く来い」
無慈悲な声が私に選択を迫る。
拒めばみんなが死んでしまう。従えば、二度とここには――
私は動けなかった。だから、私を待っていた仲間も魔人も動かなかった。時間の流れに置き去りにされてしまったように、この静止が無限に続くような感覚がした。
その静止を破ったのは、ここにいる誰でもなかった。
空中に浮かぶ黒い楕円の渦。その中から何かが飛び出して、魔人をふっ飛ばした。
「ッ!!」
魔人は受身を取って体勢を立て直し、今しがた自分を攻撃したものを睨みつける。
「その女に手ェ出すんじゃねぇ!! ぶっ殺すぞ!!!」
聞き慣れた声。一番聞きたかった声。
その一縷の光を目で確かめようとして――抱いた希望が真っ白に上塗りされた。
「ゼク……さん?」
記憶とは違う、まるで見慣れないその容姿。
肌や目の色、耳の形、それから額に生えているもの。
――まるで、魔人そのものだった。
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