第82話 スタンピード
いつもと変わらない朝だったと思う。
宿泊客やセシリーたちに朝食を食べさせてから送り出し、俺はのんびりとコーヒーを飲んでいた。
ゴクウたちに後片付けを任せ、雨音を聞いていたんだ。
娯楽の少ない世界ではこんなことさえ楽しみの一つになる。
不思議なことに雨の奏でる旋律を聞いていると、かつて地球で聞いた様々な音楽がはっきりと頭の中に浮かび上がってくる気がした。
ソファーに身をもたげて目を閉じる。
急ぎの用事がないとは何と贅沢なことなのだろう。
頭の中の音楽を途切れさせたくなくて、俺はひたすら雨音に注意を傾け続けた。
♢
セシリーたちは迷宮の奥を目指していた。
彼女たちの主戦場は第五層だ。
入り口からそこへいたる道順は完璧に頭に入っており、トラップ等の解除も主要道路ではほとんど完了ずみで一時間も歩けば目的のフロアに到達できるはずだった。
三人は迷路のように細かく分岐した道を淀みなく歩いていた。
「ん~、なんか変っすよね」
ミーナのつぶやきの意味はセシリーやルージュも理解していた。
今日はいつもよりもダンジョンの中がざわついているような気がしてならない。
「モンスターもいつもと雰囲気が違うようだね。どうも嫌な予感がするよ」
通路には他にもたくさんの冒険者がいたが、皆が一様に普段とは違う空気を感じ取っているようだった。
やがて、三人は第三層へ至る扉に到着した。
フロアを仕切る扉は非常に大きくて高さは7m以上、幅も5mを下回るものはない。
ただこうした扉には必ず脇か内側に小さな扉が付いていて、基本的に冒険者はその部分を使って出入りするのが常だ。
いちいち大門を開閉するのは面倒だからだ。
だから朝のこの時間は奥へ行こうとする冒険者たちで扉の前が混み合うこともある。
特にここの扉は小さいので、今朝も3メートルほどの短い列ができていた。
毎日のルーティンなのでセシリーたちも黙々と列に加わる。
「ど、どいてくれっ!」
列の前方で騒ぎが起こったようだ。
どうやら引き返そうとしている冒険者がいるらしく、言い争う声がしている。
朝のこの時間は一方通行みたいなもので、外から内へ入るものが優先されるというのが暗黙の了解となっていた。
「おい、どけよ! こっちが優先だろうが!」
「そ、それどころじゃないんだ! 千人オーガの群れが迫ってきているんだ!」
引き返そうとしている女の声は切羽詰まっている。
「どこかのバカが失敗しやがったんだよ。千人オーガが分裂を繰り返しながらこちらに迫っている!」
「おい……」
「早く引き返せ! わかんねーのかよ、スタンピードだ! ダンジョンが溢れたんだよ!」
いつの間にやら、静かに、少しずつ大きく、地響きが門に迫っていた。
それは先行する冒険者たちを殺し、門を突破してきたモンスターの軍勢が迫る音だった。
「やばい……」
「全員引き返せ! 後ろの奴に伝えろ! とにかく戻るんだ!」
狂乱と恐怖が人々の心に侵食していく。
そしてかつてフロアボスのいた広い空間に鬼たちの軍勢が姿を現した。
雄叫び、怒号、悲鳴、悪態、敵味方の関係なく不快な音がダンジョンの中にこだまする。
「§ΛΖΛΦΓΔΧ¶ΣΓΔζ」
突如、轟音が響き渡り通路の一角がモンスターを吹き飛ばしながら崩れた。
冷静に事態を観察していたセシリーがモンスターたちのやってくる道を爆裂魔法で吹き飛ばしたのだ。
「ミーナ、大至急マスター・エルザにこのことを報せるんだ!」
「わかったっす! でも、セシリーさんは?」
「限界までここで奴らの足止めをする。それから」
「はい?」
「シローにこのことを伝えて島を脱出するように言うんだ。ルージュも行け!」
現在のところ、島に船はマダム・ダマスの商船が一隻停泊しているだけだ。
後はシローの小型船しかない。万が一モンスターがダンジョンから溢れた場合、冒険者全員が船で脱出することは不可能だった。
♢
誰かに揺り動かされて目が覚めた。
「男将さん! 男将さん、起きるっす!」
突然のことに驚いてしまったが、俺を無理やり起こしたのはミーナだった。
もう探索は終わったのか?
ひょっとして夕方まで眠ってしまったのだろうか?
「えっ? 今何時? えっと……」
頭がぼんやりしていて思考がはっきりとしない。
ただでさえ雨の日は調子が悪くなる。
「寝ぼけてないで、しっかりしてください。スタンピードっす!」
「スタンピード?」
「ダンジョンからモンスターが溢れだしてきたんすよ! 千人オーガだけじゃない、他のモンスターもわんさかとです」
「わんさか……」
「逃げるっすよ! マスター・エルザが向かったけど封じ込めに失敗したら島中にモンスターが溢れるっす!」
ようやく事態が飲み込めてきた。
「わ、わかった。とりあえず西島に避難しようか。みんなも一緒に行こう。セシリーたちは?」
もう、小型船のところで出港の準備をしているのだろうか?
だけど、ミーナは悲しそうに首を振った。
「ルージュさんはマスター・エルザと一緒です。封鎖作戦に参加しています。セシリーさんは時間を稼ぐために一人でダンジョンの中に残りました」
「ダンジョンの中に……」
「狭い通路を破壊しながら撤退戦をしているんです。やらなくていいのに自分が殿(しんがり)になって……」
じゃあ、セシリーは今頃……。
想像もしたくない光景が脳裏に浮かび震えが止まらなくなる。
「セシリーが……」
「セシリーさんは皆を、というより男将さんを守りたかったんだと思います……」
頭を鈍器で殴られたような気分だった。
「男将さん、とにかく逃げてください。自分は男将さんを見送ったら封鎖作戦に戻らないと」
「ミ、ミ、ミ、ミーナ……」
体だけじゃなくて声まで震えてうまく言葉を話すことができない。
「どうしたんすか?」
「ミ、ミーナはめ、迷宮のな、な、中のことは詳しいよね?」
「そうですが、どうしたんです? そんなことより早く脱出を」
「あ、案内してほしいんだ」
ミーナは怪訝そうな顔で俺を見つめた。
「セ、セ、セシリーを助けたい……」
情けないことだけど、ここで怖くて涙が溢れてしまった。
しょうがないじゃん、俺、ヘタレだし。
「男将さん、何を言って……」
「ちょっと待ってて。ポッポー、島にいるワンダーとハリーを全員集めるんだ!」
命令を下して、すぐに寝室に駆け込んだ。
そしてベッドの下からラメセーヌの杖を取り出す。
エマンスロックがどの程度通用するかはわからないけど、やってみるしかないだろう。
ワンダー32体、ハリー24体、そして魔装甲エマンスロックが俺の持てる全戦力だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます