(7)ローレライ
集落に着く頃には四時を過ぎていた。山へ入り、鬼哭岩に辿り着くまでは更に半時間はかかる。秀玄さんも急ごうとはしているけれど、穏山は道幅が狭く、歩道のない場所も珍しくない。陽が傾いて散歩するひとも目立ち始めていた。思うように速度が出せていない。
「彼女がいなくなったのは、何時頃ですか」
シートベルトを掴み尋ねる。彼は乱暴にハンドルを切り返した。
「正確には分からん。近所の婦人からは昼前まで家に人がいる気配があったとは聞いている。私が様子を見に行ったのが一時前で、そのときはもう、もぬけの殻だった」
つまり、どう甘く見積もっても三時間は経過していることになる。市内から穏山までは電車を使って一時間と少し。駅でタクシーを拾っても半時間。到着してすぐに事に及んでいたとしたら、とてもではないが間に合わない。しかし決断に躊躇している可能性は充分にある、と焦る心に言い聞かせた。そう考えなければ持たなかった。
「鬼哭岩とやらは景勝地なのだろう? 休日は観光客がいるかも知れない。あの娘も、人前でそんな真似はしないはずだ」
ええ、と首肯しながら心中では彼の願望を否定する自分がいた。景勝地と言っても鬼哭岩は無名に近い。いくら休日でも途切れることなく観光客が訪れるなんてことはないはずだ。けれど今は気休めに縋るしかない。
秀玄さんも同じだ。あえて余裕を演出したかったのだろう。不意にこんなことを訊いてきた。
「折角だ。……鬼の伝説? 鬼哭岩の由縁をもう少し詳しく聞かせて貰えないか」
「構いませんが、僕だって一通りのことしか知りませんよ」
鬼哭岩へ続く山道に入った。脇に立てられた案内板の前を通り過ぎる。ここからは車一台がようやく走れる程度の山道が続く。歪んだガードレールの向こうは深い谷川で、もしものことは考えたくない。身の強張りを感じながら知っていることを語って聞かせた。この村にはかつて人喰い鬼がいたこと。美しい歌声で旅人を誘って喰らっていたこと。けれど本当は人など喰べたくはなかったこと。鬼の流した涙が穏山を流れる名亡川になったこと。
秀玄さんは黙って耳を傾けていた。話し終わったあとも「成る程」と呟いただけだった。そのまま会話が途切れ、エンジンが坂道に抗う音だけが響く。けれど、しばらく経ってからぽつりと溢した。
「あの娘が自分を重ねたのも分かる気がする」
はいとも、いいえとも言えなかった。彼は「ただ」と細い顎を指で撫でた。
「類話と言うのかな。ドイツの伝承に似たようなものがあったのを思い出したよ」
「ドイツ、ですか?」
「有名なのはハインリヒ・ハイネの詩だな。聞いたことはないかね? 岩山に佇むセイレーンが、美しい歌声で漁師を誘惑するという――」
彼がそう口にしかけたとき車が橋に差しかかった。渓谷に架かる橋からは上流の景色を見上げることができた。切り立った山肌に滝が流れていて、傍らに丸みを帯びた岩がある。
(鬼哭岩だ)
逸る鼓動を抑え、じっと目を凝らす。大岩のすぐ下に崖のような出っ張りが見えた。
思わず「あっ」と声を上げていた。
「人だ……。人が立ってる!」
秀玄さんは「なに!?」と叫んだ。身を乗り出して助手席の窓から覗こうとする。
「白亜か!? そうなのか!?」
「分かりません! でも女のひとです! 髪が、真っ白な……」
瞬間、衝撃が全身を襲った。
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