(6)死にたいあの娘は泣かない
記憶を喰べる力を持った一族の末裔。
秀玄さんから聞かされたのは、そんな少女の話だった。
僕の幼馴染だった上羽という女の子の妹で、両親が死んだ火事にも関わっているという。僕は、今年の春に彼女と親しくなり、夏休みに記憶を消されてしまったらしい。それは偏に彼女が僕の身を案じたがゆえの決断だった。
俄かに信じがたい。そう言ってしまいたいところだけれど、信じられないとは露も思わなかった。むしろ欠けていたピースがぴたりと当て嵌まる心地良さがあった。震えるほどの感動が毛の先まで広がった。笑みと涙が堪え切れなくて、叫び出したいほどだった。
彼女の名を噛み締め、忘れないように何度も反芻した。何度も。何度も。
姫神白亜。
「あの娘が、君と、君の友人の記憶を喰べたのが一月ほど前だ」
秀玄さんは、赤信号を睨みながら続きを口にした。ハンドルを小刻みに指で叩いている。
「相当な負荷がかかったのだろう。意識を失い、三日間眠ったままだった」
次に目を覚ましたとき、彼女は、憑き物が落ちたように穏やかになっていたという。以前よりも笑顔を見せるようになり、心なしか言動も柔らかくなった。最初は記憶の混濁を疑ったが、どうもそうではないらしい。彼女の中で何か区切りがついたのだ。秀玄さんはそう解釈した。
長く意識を失っていたから休み明けの登校は見送った。本人もそれで構わないと頷いた。数日を診療所で過ごし、落ち着いてから自宅へ戻った。家に帰ってからも特段変わった様子はなかったという。昼夕に様子を見に行くと彼女は縁側に腰かけてゆったりと団扇を揺らしていた。
――兄さん、もう夏が終わるわね。
何かを懐かしむように、夕空を眺めていたそうだ。
「しかし今日」
秀玄さんはドリンクホルダーに突っ込んでいた封筒を乱暴に寄越してきた。
「昼に様子を見に行ったらテーブルにこれが置かれてあった」
蓋を開けて中身を広げると、手書きの文字が書き連ねられていた。
冒頭の言葉を凝視する。
――『想太くん』
――『こんな私に優しくしてくれてありがとう』
便箋を掴む手が強張った。
「これは……」
「君へのメッセージだ。そして」
秀玄さんが思い切りアクセルを踏み込んだ。勢い体が揺さぶられたけれど僕の眼が手紙に釘付けにされていた。文章はさっと目を通せるほど短い。短く……別れの言葉が綴られていた。
これは、
「遺書だ」
秀玄さんは、呻くように声を絞り出し「くそ」と怒鳴った。
「あの娘はずっと死にたがっていた。あの日……姫神家の庭で出会ったときから、ずっと。最近はそんな様子が見られなかったから大丈夫だろうとタカをくくっていた。いや、そう信じたかった。目を逸らしていたんだ!」
自死に至るには、いくつかの要因があるという。
孤立。罪悪感。そして死への抵抗感の減衰。
彼女の場合それら全てが陰喰の力によってもたらされていた。
無意識に他者の記憶を奪い取ってしまう恐怖が孤立を。能力で親しいひとを喪ってしまった過去が罪の意識を生み出した。そして他者の苦しみを追体験するという自傷行為が死への抵抗感を失わせていったのだと、秀玄さんは語った。
最近の晴れ晴れとした態度は、自死を決意したことで、自らを苛むものから解放されることを喜んでいたのだろう、と。
「数年前だ。彼女の食事を止めさせようとしたことがある。あまりにも痛々しくて見ていられなかったからだ。そんな私に彼女は怒り狂った。赤の他人のお前には私の気持ちなど理解できないと。以来、私は彼女に何も言えなくなった。……嫌われたくなかったんだ」
こちらの視線に気付き、彼は自嘲を浮かべた。
「……ああ、そうだ。俺は彼女を愛していた。十も離れた年端も行かぬ少女に、頭から爪の先まで支配されていたのだ! だが、彼女が俺のことを男としても……兄としても認めていないことは分かっていた。俺は、幼い少女に向ける自らの想いを知られたくなった。だからあの娘の傍から離れた」
ハンドルがぎしりと音を立てた。スピードはさらに加速する。
「高校に進学した頃から彼女の雰囲気が変わった。自死と自傷以外の何かに興味を抱いている節があった。私が尋ねるとあの娘は答えた。君が……風間想太くんがいる、と」
崩れそうな貌で、声を震わせた。
「私では、無理なんだよ……」
フロントガラスに標識が映った。景色が隣町のものへと変わる。
「この車はどこへ?」
「穏山だ。自宅以外に彼女が向かう先などそこ以外に知らん。一応うちのスタッフに市内を探させてはいるが穏山にいる可能性が高いと見ている。だが私はあの村の地理に詳しくない。何か心当たりは?」
僕は、もう一度手紙に目を落とした。読み返す必要があったわけじゃない。最初から気になっていた箇所があった。
「ここに鬼という単語が使われています」
「鬼?」
頷き、穏山に伝わる伝説について簡単に説明した。秀玄さんは成る程と呟いた。
「
「正解かは分かりません。でも確信があります。白亜さんはそこにいる」
間違っていたら取り返しがつかない。頭の中の冷静な部分がそう訴えかけてくる。けれど、それを退けることに躊躇は覚えなかった。
秀玄さんは歯噛みした。
「……君の記憶などさっさと消してしまえば良かったのだ。そうすればこんなことにはならなかった。今だって君と彼女を会わせたくなどない。だが……それ以上に私は彼女の幸せを願っているし、言うまでもなく命を絶って欲しくはない。これは事実だ」
「……ええ、同感です」
穏山の集落まで一時間半。
車は陽が沈むほうへ走っていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます