(8)ふたり。ひとり。

 ごわごわとした分厚い風船のようなものを顔面に押し付けられている。それが最初の感覚だった。自分の体勢も分からないまま枕より大きなそれを掴んだ。ぐっと腕に力を込めると風船はあっさりと引き剥がせた。視界一杯に広がる白い……やはり風船のようなもの。何だろうとぼんやり眺め、自分が車に乗っていたことを思い出した。

 エアバッグだ。これは。

「かざ、ま……くん」

 擦れた声が耳に届く。はっとして運転席へ視線を向け、息を呑んだ。

「先生!」

 秀玄さんがサイドガラスに寄りかかっていた。同じように膨らんだエアバッグと、右のこめかみに散った赤いもの。フロントガラスには一杯の土壁が迫っている。

 事故を起こしたのだ。人影に気を取られて。

 橋を渡った先がカーブになっていた。

「大丈夫ですか、先生」

 手を伸ばそうとして躊躇した。下手に動かして良いものか。

 彼は、苦悶に顏を歪めた。

「右肩が痺れて……感覚がない。折れているかどうかは、わからんな……君は?」

「僕は……」

 全身を見下ろした。両手両足はちゃんと動かせる。バックミラーを覗いても怪我らしい怪我は負っていない。少しばかりふらつきを感じるが、痛みがあるわけではなかった。

 秀玄さんは、口の端に安堵を浮かべた。

「そうか……よかった」

 そして、また「ぐっ」と顔を顰めた。

「救急車を呼びましょう、先生」

 スマホを取り出し、画面を立ち上げた。幸い電波は入っている。通話アプリを立ち上げ番号を押そうと指を伸ばした、そのときだ。筐体ごと手を掴まれた。

「俺のことは、良い……。自分でどうにかする。それより早く、白亜の元へ……」

「でも、先生……」

「たのむ」

 握る手に、力が込められるのが分かった。

 血の滲んだ唇が、にっと笑みを浮かべた。

「動けるようになったら……すぐに、追いかける。どうか、あの娘を……」

 彼と、彼の手を見比べる。そして強く握り返した。

 このひとが安心できるように。

「必ず、彼女を止めてみせます」


 走った。曲がりくねった坂道を、ひたすらに前を見据えて。

 鬼哭岩まではまだ距離がある。直線ならまだしも、道の折り返しを考えたら数キロはあるかも知れない。でも見えた。確かに見えたのだ。彼女は生きている。

「姫神さん……っ」

 姫神さん。そうだ。きっと僕は、彼女のことをそう呼んでいた。

 それが一番しっくりくる。それが一番懐かしくなる。

 都合よく記憶なんて戻らない。それは最早失われてしまった。僕の中から永遠に失われてしまったのだ。でも、そこにできた空白が……彼女の形をした空白が、それを埋めることを求めていた。

「姫神さん、姫神さん……姫神さん!」

 汗が噴き出る。息が上がる。鼓動は乱れ、肺は必死になっている。太腿は熱を帯び、今にも肉が引き裂けそうだ。痛い。苦しい。倒れたい。でも景色は全然変わらない。山。山。山。どこまで走っても山の中だ。橋から見えたあの場所はそんなにも遠くにあっただろうか? 延々と同じ場所を走っている気さえする。

 焦りを胸にカーブミラーを見上げたときだ。情けなくも足がもつれた。

「あっ」

 疲労と勢いのせいだろう。ろくに受け身も取れなかった。衝撃が頭蓋を突き抜け、打ち付けた頬に痛みが刺さった。無様に地べたに這い蹲って、瞼を潰して激痛に耐える。

 惨めで、みっともなくて、涙が出そうだった。

(……だったら何だ?)

 何だって言うんだ。

 奥歯を噛み締めコンクリートに爪を立てた。体を起こし、口内の砂利を吐き捨てる。頭痛と目眩で足元が揺れたが、脚を動かしているうちにそれも忘れた。

 こんなの全然大したことない。

 痛みも。

 苦しみも。

 傷付いた数も。

 彼女の背負ってきたものの万分の一にも及ばない。

 だから走れ、風間想太。

 弱音も、最悪の未来も捨てて行け。

 今は心を空っぽにして、彼女の元へただ走れ。

「走れよ、風間想太ッ!」

 そう吠えた直後だった。残響と重なるように微かな音が聞こえた。滝の音だ。鬼哭岩に近付いている。悲鳴を上げる腿の肉を、地面を蹴って黙らせた。次の角を折り返すと瀑声は一層大きくなった。道の左手に拓けた場所がある。あそこだ。

「姫神さん!」

 道路沿いに無舗装の駐車場が広がっていた。敷地の奧に木柵があり、真横から見える滝が轟音を響かせていた。火照った肌に、ひやりとした風が吹き付ける。滝の傍らには丸みを帯びた大岩が鎮座していて、あれが鬼哭岩だと悠さんから教わった。彼女は、岩を見上げながら、その肌に触れていた。

 開かれた瞳が、こちらを捉える。

「想太くん……?」

 瞬間、全てが完成した。

 姫神白亜。人の想いを食べる少女。

 彼女の姿は覚えていない。透き通った白い髪も、雪のような肌も、全く記憶の中にない。

 でも、完成した。

 完成したのだ。

 その想いだけが真ん中に在った。

 袖で目元を拭った。鮮明な視界に驚いた彼女の貌が映る。けれど一瞬で状況を察したのか、動揺はすぐに薄れて消えた。後ろ手を組んで、頬を緩めた。

「とても綺麗なところね。どうしてあまり知られてないのかしら?」

「帰ろう、姫神さん」

「死ぬ前に来られてよかった」

 姫神さんは、敷地の奥の端……崖の際に立っている。距離は約十メートル。危なげな道具は持っていない。けれど木柵を越えていた。一歩後ろへ下がるだけで彼女の目的は達せられるだろう。僕は、足を踏み出した。

「帰ろう」

 その一歩が彼女を揺らしてしまわないよう、慎重に。

 呼吸を止めて同じ動作を繰り返す。二歩。三歩。四歩……。地雷原を歩く心地だった。いつ何を踏み抜くのか分からない。無事に彼女の元へ辿り着ける保証はない。それは彼女の所作で裏付けられた。静かに翳された手によって、僕の両脚は縫い止められた。

 記憶を喰らうという、陰喰の手。

「想太くん、鬼の伝承は覚えてるんだよね?」

 首を傾げて尋ねてくる。すうと胸が膨らんだ。

「もう生きてはいけません。私は誰も愛せません。どうかこのまま死なせてください」

 穏やかに詠ってから、力なく笑った。

「もう終わりにしたいの」

 まるで涙を堪えるように。

「頭がね、ずっと痛いの。痛くて、痛くて……耐えられないの」

 吹き付ける飛沫のせいだろうか。擦り剝けた頬が不意に疼いた。姫神さんは一瞬怯み、左手を下した。目を逸らし、声を震わせる。

「想太くんは覚えていないだろうけれど……君は私にこう言ったよね。忘れてはいけないことがあるって」

 握られた手がスカートに大きな皺を作った。

「そうよ。忘れてはいけないことがある。忘れてはならないことがある。私はずっと忘れられない。……忘れられるわけがない。上羽のことも。お母さんのことも。君の……お父さんとお母さんのことも。だから……」

 戦慄く手の甲に雫が光っていた。滝の飛沫に見えるけれど、違う。確かに伏せられた顔から落ちた。

 拭い取ってあげたかった。

 姫神さんは、両手で顔を覆うと、心を鎮めるように息を吐いた。

 次に双眸を露わにしたとき、また微笑を取り繕っていた。

「ありがとう想太くん。君と一緒にいられて本当に嬉しかった。でも、それもおしまい。楽になりたいの。お願いだから死なせてください」

 滝の音が聞こえる。哀しい音が聞こえる。

 昔のひとはきっとこの音を聞いて感じたのだ。まるで鬼が哭いているようだと。

 堪らず、もう一歩だけ距離を詰めた。

「だったら、僕が背負う」

 息を呑む彼女に、手を伸ばして告げた。

「その痛みは僕が背負う。君が今まで背負ってくれた分を、ほんの少しでも僕が背負う」

 姫神さんは、ぱちぱちと目を瞬かせ、差し出された手を見下ろしていた。そして一度瞼を閉ざしてから、困ったふうに首を振った。

「……これは私が背負うべきものよ」

「一人で背負うには重すぎるよ」

 声を張った。滝の音に負けないように。

「人には忘れてはいけないことがある。だからって全てを一人で抱えられるほど人間は強くないんだ。苦しいことは分かち合えば良い。だから僕が背負う」

「想太くん……」

 斜めから射し込んだ陽の光が、彼女の貌を照らしていた。

 僕は、大きく頷いた。

「楽しい想い出をたくさん作ろう。君にはそれを食べて欲しい。たとえ僕がそれを忘れてしまっても、君から僕に話して欲しい。そうやって毎日を分かち合えば、それはいつか二人の想い出になる。苦しいことも、悲しいことも、二人で分け合って生きて行こう。だから……」

 だから。

「帰ろう。姫神さん」

 無言で見つめ合った。長く……本当に長く感じたけれど、ほんのひとときだったのかも知れない。彼女は小さく手を振った。

「ありがとう、想太くん」

 そして、後ろへ傾いた。

 僕は、叫び、腕を伸ばした。

 後は一枚一枚写真を捲るような、断片的な記憶しかない。掴んだ彼女の手。その冷たさ。ふわりと浮く身体。回転する視界。岩。空。滝。白い髪。内臓が浮く感覚。不思議と音は聞こえなかった。けれど見えるはずのない木々の葉脈まで見えたことは鮮明に記憶している。

 繋いだ手の感触を辿ると彼女の貌があった。

 僕の心配より、自分の心配をして欲しい。

 そして数秒にも満たない一瞬の間に奇妙なものが見えた。姫神さんの姿に、悠さんの姿が重なった。神坂さんの姿が重なった。博貴さんに……秀玄さんに見えた。時に佐々木先輩に変わり、黒木上羽に変化した。父さんと母さんにも。

(……おかしいな)

 覚えているはずないのに。上羽のことも。父さんと母さんのことも。

 不可解な記憶は泡のように途切れなく浮かんだ。上羽と過ごした夏の日々。神社のお祭り。初めて穏山で泊まった夜。都会での暮らし。幼い頃に遊んだ公園。母の腕に抱かれた記憶。昏く……穏やかな、みずのなか。そして。

 僕たちは、水面に叩きつけられた。

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