(2)長い夢

 夢を見ていた。長い夢を。

 空を眺めながら、そんなことを思い出す。

 どんな夢かは覚えていない。いつに見た夢なのかも。

 今日の朝だった気もするし、もう何年も前に忘れてしまった気もする。

 春のように暖かな、とても、とても悲しい夢。

 そんなものを、見ていた気がする。


「風間くん、またたそがれてる」

 呆れる声が肩を叩いた。頬杖を外し、椅子を引く。

「神坂さん」

 神坂恋花が苦笑を浮かべていた。愛嬌のある瞳が、人のまばらになった教室へ向いた。

「美術室、行かないの?」

「……いや、どうしようかなって」

 彼女は、スカートを押さえ、後ろの机に腰かけた。

「夏休みが明けてからずっとそんな調子だよね。部長になるとみんなやる気がなくなっちゃうのかな?」

 冗談のつもりだろう。でも素直に笑うことはできなかった。むず痒さに頬を掻く。

「まだ部長じゃないよ。文化祭が終わるまでは藤宮部長がいるんだし。それに藤宮部長は部長になる前からやる気なかったでしょ」

「で、その文化祭はどうするの? 風間次期部長」

 教室の前で三人の女子が駄弁っていた。華道部だ。どうやら彼女たちも同じ話題に花を咲かせている。参考に聞いてみたい気もするけれど、実際はそう役に立つわけではないだろう。

 広げていたノートを閉じた。

「今ある作品を飾るだけじゃないかな。目新しいことをする時間なんてないよ」

「えー、面白くなくない?」

「今から何ができるって言うの。もう一か月切ってるのに」

 神坂さんは、むうと唇を尖らせる。

「飾れるほどの数はないでしょ」

「柊先輩の油絵が何点か残ってるよ。僕たちのと合わせれば恰好は付くんじゃないかな」

「卒業生のも入れるのー? それじゃ去年と一緒じゃん」

「別に構わないでしょ。ほとんどの生徒は知らないだろうし」

「それは姿勢って言うかさあ。気分の問題だよ。お茶を濁してるって言うか」

「実際濁そうとしてるからね」

 神坂さんは、半分脱いだ上履きを足先でぱたぱたさせていた。やがて揺らし過ぎた左の靴がぱたりと床に落ちて転がる。買い換えたのだろうか。青いラインの入った上履きは僕のよりずっと白かった。彼女は「よっ」と脚を伸ばし逃げた靴を釣り上げた。 

「ぱぱーっと何枚か描けないの?」

「お茶を濁す程度のものならね。でも、今はあまり描きたくないんだよ」

 彼女は、ふうんと不服そうにする。

「夏休み前は絶好調だったのにね」

「うん?」

 顏を上げた。黒い瞳がぱちぱちと瞬いていた。

 今、何て言ったのだろう?

「そうだっけ?」

「何が?」

「絶好調って」

「自分で言ってたでしょ。描きたいものが見つかったって」

「そう、だっけ……」

 そうだ。言われてみればそうだった気がする。夏休み前は筆が乗っていた。でも描きたいものって何だろう? 何を描いていたのだろう? 思い出せないぐらいだから、大したものではないと思うけれど、でも……。

「ちょっと、風間くん、大丈夫?」

 くすりと笑って顔を覗いてくる。髪を耳にかける仕草を見て、僕は違和感を覚えた。

「神坂さん、髪留め変えた?」

「え? あ、うん。今頃?」

 照れを隠すように髪留めに触れた。中学の頃からずっとプリムラの花の髪留めを使っていたはずだ。今は、別の花に変わっている。

「良いでしょ? ガーベラにしてみたの。花言葉は希望と前進」

 白い歯を溢してから灯りを見上げた。

「前のもすごく大切にしてたけどね。何でだろ? 急にね、いつまでもこのままじゃいられないなって。そう想ったの」

 神坂さんは「どうかな?」とはにかんだ。僕は「うん」と曖昧な相槌を打つ。似合ってる、ぐらいは言っても良かったのに。

 そのとき、教室の引き戸ががらりと音を立てた。

「あれ?」

 戸の隙間で疑問符を浮かべる女性を見て、居残っていた生徒からどよめきが起きる。その女性は苦笑いを浮かべながら教室を見回した。そして、――たまたま目が合ったのだろう――神坂さんに「ねえ」と声をかけてきた。

「紗奈……南久保さん知らないかな?」

 剣道部のエース、佐々木京子だった。……いや、正確には元エースだ。彼女は八月のインターハイを区切りに剣道部を引退している。それでも有名人オーラは健在で、話しかけられた神坂さんはしどろもどろになっていた。

「へあ? あの……紗奈ちゃ、南久保さんですよね? ここに来てはおりませんですよ?」

「そうなの? おっかしーなあ。こっちだって聞いたんだけど」

 先輩は頬に指を添えて宙を見上げたあと「ま、いっか」と朗らかに笑った。にこにこと手を振りながら「ありがとー」と戸を閉める。神坂さんは、ぱたぱたと去っていく上履きの音が聞こえなくなってから「うっは~」と胸に手を当てた。

「緊張した~! 生佐々木やっばっ! 顏小っちゃ! マジやっばっ!」

「……でも佐々木先輩、雰囲気変わったよね。にこにこしてるのは相変わらずだけど」

 佐々木先輩のことは全校集会とかでしか見たことがない。でも、いつも愛想を振り撒いているという印象があった。その笑みは鷹揚で魅力的だったけれど、常に周囲を意識しているふうでもあった。今のような軽快さはなかったように思う。

 神坂さんは「まあね」と襟元を手で煽ぐ。

「肩の荷が下りたんじゃないかな。インハイも成績は振るわなかったけど、本人は結構さっぱりしてたらしいし」

「そうなの?」

 うん、と微笑ましそうに頷いた。

「強さが全てじゃない、ってさ」

 その眼差しを見てふと思った。

 吹っ切れたのは神坂さんも同じではないか?

 何をどう吹っ切ったのかは見当も付かないけれど。

「さ、あたしも頑張らなくちゃ。今からでも新入部員探そっかな~」

 神坂さんは、ううんと大きく背伸びをした。

 きっと喜ばしいことなのだろう。でも、真新しいガーベラの花飾りを眺めていると、どうしてだか少し寂しくなった。

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