(3)レテ河のほとりで

「じゃあね、風間くん。ワークショップのこと考えといてね」

「うん、神坂さんも。また来週」

 軽く手を振って別れを告げた。小走りで去っていく背を見送ってから正門へ向き直る。白壁造りの本校舎。美術室のある特別教室棟はその向こう側だ。ここからでは手前にあるグラウンドも見えない。しばらく記憶を手繰ってみたけれど、玄関から二人の女子が出てきたので、それも止めた。

 並木道を歩み始める。

 文化祭や美術部の今後を話していたら結局五時半を過ぎてしまった。まだ薄暗いという程ではないけれど日は確実に短くなってきている。雲一つない九月の空は、ぽっかりと空いた穴のようで、春の記憶も、夏の記憶も、全部吸い込まれてしまったみたいだった。

 あんなにも綺麗だった桜の姿も、今はもう思い出せない。艶めいていた青葉には茶色い濁りが混ざり始めている。春の花の美しさを想うと、とても……。

(とても……?)

 既視感は目眩に似ていた。以前にも桜を眺めながら同じことを考えた気がする。

 疲れているのだろうか? 最近は似たような感覚に戸惑うことが多い。朝に見た夢を思い出せないような。去年観た映画を思い出せないような。

 ずっと僕を苛んできたもの……現実を不確かに感じるのとはまた違う。むしろ確かだったものが欠落してしまったように感じるのだ。

 一体、何が欠けてしまったのだろう?

 ふと足が止まった。傍にある建物の看板を見上げる。そこに掲げられた『ガーデンクリニック』の文字。夏休みの終わり、熱中症で倒れた僕は、このクリニックに運び込まれた。症状はさほどでもなかったけれど気を失う直前の記憶がなくなっていた。だから墓参りに出かけていたはずの僕が、なぜ市内にいたのかもよく分からない。

 でも、その日からだ。違和感に悩まされるようになったのは。

 たとえば朝の電車のなかで……たとえば枯れ始めた桜を眺めて、無性にやるせなくなってしまう。

 今だってそうだ。情緒も欠片もない無機質な診療所に意識を奪われてしまっている。磨かれた硝子戸に映る貌は、何とも情けなく歪んでいた。

 頭を振り、先へ進む。

 オフィス街の雑居ビル。どこにでもあるファストフード店。覗くことすら躊躇ってしまうような暗い裏路地。瞳に映り込む街の景色が、何を訴えているのか分からない。次第に進路は駅から離れ、心寂しい場所に辿り着いた。堤防だ。川に架かる鉄橋も、対岸に佇むビルの群れも、緩慢に夜へ沈もうとしている。秋の風が頬を撫で、さあっと木の葉がさざめき立った。

 ここには僕以外誰もいない。

 けれど景色を独り占めしたって意味がない。

 伸びる木の影を踏みながらゆらゆらと天端を歩く。鉄橋の傍らに立ち、川を望んだ。茜色に染まる水面は、まるで燃えているようだった。

「……まただ」

 額に手を当て、嘆息する。

 また無意識に記憶を探ろうとしている。何かが足りないと感じている。

 僕にとって、大切だった何か……。

 いっそ頭の中身を掻き出したくなる。ぐしゃぐしゃと髪を乱した、そのときだ。

「よお」

 どこからか呼びかけられた。びくりとして視線を巡らせると堤防の下に人影があった。気安そうに片手を上げてくる、その顏には見覚えがあった。

「お前、C組の風間だろ」

 うちの高校の男子生徒だ。

「君は確か、サッカー部の……」

「小西だ。あんまり話したことはなかったよな」

 あんまりどころか、多分一度も話したことはない。だから彼のなかで僕の顔と名前が一致していることに驚いた。本来であれば挨拶をするような間柄ではないし、ましてや挨拶以上の会話をする必要もない。どうして階段を下りようと思ったのか、自分でも判然としなかった。

「何してるの? こんなところで」

 尋ねると、彼は目を瞬かせた。

 そんなことを訊かれるとは思わなかった。

 そう顏に書いてある。話しかけてきたのはそっちなのに。

「いや、特に何もしてねえんだけど」

 照れ臭そうに鼻を擦った。

「川を眺めてる」

「川を?」

 不思議な一致を感じたが、普通に考えれば別の理由だろう。

 先走る共感を抑え、彼と同じ景色を望んだ。

「どうして、また?」

 小西くんは、ポケットに手を仕舞い込んだ。

 躊躇うような沈黙を挟んでから、彼は口を開いた。

「去年の末にな、おふくろが事故で死んじまったんだよ」

 はっとして顔を向ける。彼は、気まずそうに目を逸らした。

「俺も大怪我しちまって、一時期ものすごく塞いでたらしいんだ。親父とか弟に、俺のせいだ、俺が悪いんだって、泣き喚いて……。もう死にたいって、そんなことまで言ってたんだってよ」

 反応に窮する話題だった。下手に相槌を打つこともできない。けれど、それ以上に気になったのは、彼の言い回しだ。

 こちらの疑問を予期していたのだろう。先回りして答えをくれた。

「覚えてないんだよ。ある日突然、記憶がなくなってた」

「記憶が?」

 小西くんは「ああ」と髪を掻き上げた。

「おふくろが死んだことは覚えてたし、寂しいって気持ちはあるんだけど、事故の瞬間とか、塞いでた頃の記憶とか。急に思い出せなくなっちまってた。俺は、それが……」

 もどかしそうに顔を顰めた。

「それが、誰かが俺の苦しみを肩代わりしてくれた気がしてならないんだ」

 ――誰か。

 唐突な言葉を反芻してから、ふと気付いた。胸元で手を握ってしまっていることに。

 詰め寄りたくなる気持ちをぐっと堪えた。

「誰か、って……?」

「分からない。だからこうして川を眺めてる」

「川を眺めていれば、思い出すの?」

 さあなと溜息交じりの声が返ってくる。

「でも、俺はここで気を失って、目覚めたら記憶がなくなってた。だから川を眺めてりゃ思い出すんじゃないかって」

 小西くんの話は要領を得なかった。ある日突然記憶がなくなる。不思議な話ではあるけれど彼は事故で怪我を負っている。僕と同様、何らかの後遺症である可能性はなくはない。しかし何故そこで「誰か」という他者の存在が出てくるのか? 気のせいだと笑い飛ばすのは簡単だった。けれど……。

 水の流れは、何かを隠すように昏い色に染まっていた。

「……レテ」

「うん?」

「どうして、僕にこんな話を?」

 小西くんは「どうしてだろうな」と薄紫色の空を仰いだ。しばらくは思案する素振りを見せていたけれど、答えるのが恥ずかしかっただけではないだろうか? 表情を隠し通せるほど景色はまだ暗くなかった。

 彼は、はにかんで頬を掻いた。

「お前も川を眺めてたから。同じなんじゃないかって、そう思っただけだよ」

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