(2)無邪気
「おお、今日は燃えてるねえ、風間くんっ」
神坂さんがぽんと背中を叩いてきた。僕はびくりと絵筆を止めた。筆が在らぬ方向へ走ってしまった! ……ということもなく狙った位置で毛先は止まった。肩越しに見やり半目で不服を表明する。神坂さんは「あはは」と口を引き攣らせ「ごめんごめん」と両手を振った。彼女の言う燃えているところに著しく水を差されたようなものだった。
尤も本音を言えばさほど腹が立ったわけでもない。筆を休める良い機会だった。緩んだ拍子に進捗を眺めてみる。悪い気分はしなかった。
神坂さんも、僕の隣に顔を並べた。
「描きたいものが見つかった?」
僕は、うんと頷いてみせた。
「たぶん、そうなんだと思う」
神坂さんは「良かった」と白い歯を溢した。
一体何が良いのだろう?
疑問が貌に出ていたのだろう。彼女は「だってさ」と頬を掻いた。
「キャンバスの前でぼーっとしてる君を見てると、何だかあたし、哀しくなるんだよね」
やはり分からない。
神坂さんは、窓から遠くを見つめた。
「うちさ。何年か前まで猫飼ってたの。ココって名前のおばあちゃん猫。上のお姉ちゃんがその子のことすごく可愛がってて、毎日SNSに写真挙げたりして。でも、ある日急にいなくなっちゃって。みんなで必死に探したんだけど見つかんなくて……」
振り返り、困ったふうに笑った。
「君を見てるとね。そのときのお姉ちゃんを思い出すの」
僕は「そうなの?」と尋ねた。彼女は「そうなの」と返してくる。
キャンバスに向き直った。
画布の隅まで構図が決まり、色彩のイメージも掴めていた。実際は膨大な調整が必要だろうけれど、道筋は大体見えている。
空白を埋めることが絵画だとしたら、埋めるものが見つからなければ空白は埋まらない。今までの僕は、それを見つけることができなかった。モチーフを決めて描き始めても、途中で違うような気がしたり、先へ進めなくなることが何度もあった。一応は最後まで仕上げてみても満足を覚えたことは一度もない。
どこかに足りない何かがある。
そんな虚しさにずっと支配されてきた。
でも、この絵を完成させることができたなら。あるいは。もしかしたら。
「でも、かなりアバンギャルドなヤバさになっちゃったね。何描いてんのこれ? 梵字?」
「いや、違うけど……」
「違うの? サンスクリット語じゃないの?」
「人物画だから。一応」
「人物画!? これで!? モデルは!?」
「もう、いいでしょ別に」
僕は口を尖らせる。神坂さんはまた「ごめんごめん」と手を振った。
「邪魔するつもりはないの。でも、ごめんついでにもうひとつ。熱くなってるとこ悪いんだけど、ちょっとだけ君の時間を貰えないかな」
僕は、キャンバスと時計を見比べた。時刻は五時半。台に絵筆をそっと置いた。
「別に構わないよ」
神坂さんは「やった」と小さく手を握った。そしてスカートからスマホを取り出すと画面の上で指を滑らせる。耳に当て、明るい声で呼びかけた。
「もしもし? ……うん、大丈夫だって。うん。来てくれる?」
何だろう? 簡単なお使いや、荷物運びのようなものを想像していたのだけれど。
第三者の登場で一気に不安になった。僕は「何の用なの?」と問いかけたが「本人に聞いたほうが早いから」とあっけらかん。その本人が誰なのか知りたかった。
待つ時間を長く感じた。けれど実際は五分程度だったろう。程なくしてズシンと建物が揺れた。特別教室棟の無駄に重い扉が開閉された音だ。次いでパタパタと階段を叩く音が近付いてきて美術室の扉に影が写る。ガラリと控えめにドアが開き、その隙間から女生徒が顔を覗かせた。
(誰だろう?)
神坂さんが手で招いた。
「やっほー、
遠慮せずに入ってきて、と促されると、紗奈と呼ばれた女生徒は静かに工作台を回り込んできた。小柄な、大人しそうな女の子だった。けれど、その瞳には見るからに暗い色が宿っている。見知らぬ男子を前にして緊張している……と言うより、緊張すら放棄している貌だった。
こんな娘が僕に何の用があるのだろう?
紹介を待ったがその気配はない。神坂さんは、空いた丸椅子に彼女を座らせると、自身も腰かけ「実はね」と深刻な貌を作った。
「最近ね? 紗奈ちゃんの先輩、調子が良くないんだって。あたしも凄いひとだって評判しか知らないから驚いちゃって。紗奈ちゃんとっても心配しててね。どうすれば良いのか悩んでるの。力になってあげたいんだけど、どうしたら良いのか分からないのはあたしも同じで……。もしかしたら風間くんなら力になってくれるかもって」
「いや、待って」
「え? 何?」
神坂さんは目をぱちくりさせた。
僕は眉間を押さえた。心なしか頭が痛くなってきた気がする。辛うじて冷静さを保ちながら、自分が間違っていないかを確認した。
うん、僕は間違っていない。
「あのね、神坂さん」
「なに、風間くん」
「まずはその……紗奈さん? の紹介から始めてくれると助かるんだけど」
神坂さんは「え!?」と大袈裟に声を上げた。
「風間くん、紗奈ちゃんのこと知らないの!?」
知らないよ。
「面識あったっけ?」
神坂さんに尋ねる。でも本人が反応してくれることを当てにしていた。その期待通り紗奈さんは呆れを浮かべた。幼い子どもを前にしたみたいだった。
「恋花ちゃん。風間くん、私のこと知らないと思うよ。話したことないし」
気落ちした調子はあるけれど、飾り気のない、素朴な声だった。
神坂さんは「あれ?」と首を捻る。
「そうだっけ? 会ったことあるよね?」
「あるけど……会ったって言うのかな? 風間くんと恋花ちゃんが話してる横で立ってただけなんだけど」
「そーだっけ?」
腕を組んでむむむと唸る。紗奈さんは、またひとつ苦笑を浮かべた。
本当はもっと明るい娘なのだろう。神坂さんの無邪気な態度が、普段の彼女を引き出している。
紗奈さんは、腿の上で手を重ねると、僕に向かってお辞儀をした。
「初めまして……じゃないんだけど、ほとんど初めてだね風間くん。A組の
「ほら? 年末に街で風間くんと会ったことあるでしょ? あのとき紗奈ちゃんも一緒にいたんだけど、覚えてない?」
それで覚えろというのも無理な話だ。でも言われてみれば一緒にいるところを何度か見かけた気もする。言われてみれば、という程度の記憶だけれど。
神坂恋花には少しばかりこういうところがある。
「それで……何の相談なの? 先輩の調子が悪いって」
乗り気ではない、という態度が言外に滲み出ていたと思う。けれど神坂さんに気付いた様子はなかった。「あのね」と顔を寄せてくる。
「紗奈ちゃん剣道部なの」
「剣道部?」
南久保さんを見た。彼女は控えめに頷いた。剣道部の女子、と言われて具体的なイメージがあるわけではない。でも少なくとも南久保さんの印象とは離れている。この娘は、どちらかと言えば手芸武や料理部という雰囲気だ。彼女自身も視線で察したのだろう。照れ臭そうに前髪を撫でつけた。
「控えだけどね? 始めたのは高校からだから。全然ついてけなくて」
「そんなことないよー。紗奈ちゃんいっぱい頑張ってるもん」
「……ありがと恋花ちゃん」
南久保さんは、曖昧なフォローに頬を染める。実際は彼女の自己評価が正しいのだろう。霧代校は強豪校だ。高校から始めて戦力になるのは厳しいはずだ。そして、そんな剣道部にあって部外まで評判が聞こえてくる先輩となれば一人しかいない。
神坂さんが、声をひそめた。
「佐々木先輩のことなの。相談したいっていうのは」
佐々木京子。インターハイ二連覇を成し遂げた、剣道部の絶対的エースだ。
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