(3)浅はかな者たち
突然のことだったらしい。佐々木京子が惨敗を喫したのは。
「日曜に
合同練習を兼ねた、何てことのない練習試合だったそうだ。相手の大矢作高校もさほど強いチームではない。うちの剣道部が胸を貸す形になっていたのは間違いなかった。緊張感が欠けていたわけではないけれど特別に気負う必要がなかったのも確かだった。スケジュール通りに稽古をこなせば何事もなく一日を終えられる。そのはずだった。
「でも、最後の練習試合で、佐々木先輩は二本負けした」
南久保さんは、力なくうなだれた。
「手も、足も出てなかった」
掴んだスカートに皺が刻まれた。
居心地の悪さに舌の置き場が分からなくなる。
「……強い相手だったの?」
「ううん、今まで何度も対戦してきたひとで……もちろん、私とは比べ物にならないくらい強いひとだけど、先輩に敵うかと言えば、とても」
実際、今まで一度として負けたことはなかったらしい。接戦だったことすらない。今回だって相手が格段に上達していたとか、そんな様子は見られなかった。でも佐々木先輩は負けた。誰もが目を疑う光景だった。勝った相手選手すらも。
「調子が悪かった、ってことだよね?」
神坂さんが覗き込む。南久保さんは瞳を閉ざした。
「それで済ませて良いことなのか。それが分からないの」
佐々木先輩は悔しがらなかったらしい。つまらない行事がひとつ終わったみたいに無言で自陣に戻り、無言で防具を脱いだ。誰も話しかけるな、という硬質な空気を纏いながら。そして、そんな鎧は週が明けても解けてはいなかった。部活には顔を出す。けれど気持ちが入っていない。チームメイトが話しかけても「ええ」とか「うん」とか空返事があるばかり。一昨日は部活に顔すら見せず、
「昨日はとうとう、剣道を辞めるとまで言い出して……」
神坂さんが「え!?」と目を剥いた。そこまでは知らなかったらしい。大袈裟な反応かと言えばそうでもない。我が校を代表する、文字通り全国に名を轟かせている人間が一線を退こうとしているのだから。本来なら教師レベルで対応しなければならない事態のはずだ。
「顧問は、合田先生だよね? 何か聞いてないの?」
「分からない。二人で話はしてたみたいだけど。教えてくれない。副部長は、何も訊けてないんじゃないかって……」
スカートの皺がさらに大きくなる。彼女は声を絞り出した。
「言ってくれないと、わからないのに……」
窓の外でボールの跳ねる音が聞こえた。何か指示を出すような声も。ふと小西くんは無事に帰ることができたのだろうかと、そんなことを考えた。もう二日前のことだ。その思念が伝わったわけではないだろうが、南久保さんは、遠くを見やった。
「私、佐々木先輩に憧れて剣道を始めたの」
その瞳がゆらりと波打った。
「竹刀を構えた先輩は、本当に綺麗で、真っ直ぐで、格好良くて。胸を貫かれたみたいに感じた。このひとの傍にいたいって、そう思った」
次第に揺らぎが大きくなっていく。
「剣道部に入って、近くで見た先輩は、やっぱり綺麗で。真っ直ぐで。格好良くて。偉そうなところが全然なくて。私みんなの足を引っ張ってばかりなのに、いつも気にかけてくれて……。大丈夫だから、紗奈のことちゃんと見てるからって。……私、あんなひと会ったことがない。本当に尊敬できる、神さまみたいなひとなの。なのに私……先輩が苦しんでいるのに、先輩のために何もしてあげられない……」
くしゃりとした貌を、小さな手が覆い隠した。それでも抑え切れなかった感情が嗚咽となって漏れ聞こえてくる。揺れるその両肩を神坂さんがそっと抱き締めた。そんな彼女が向けてくる視線に、僕は大いに戸惑った。
「事情はよく分かったよ。でも、それで、その」
僕にどうしろって言うんだ?
そう口にしなかったのは答えが知りたくなかったからだ。けれど神坂さんはきちんと退路を断ってくれた。
「風間くん、紗奈ちゃんの力になってあげて」
予想通りの、一番聞きたくない答えだった。
愚痴を聞く。その程度のことならしてあげられる。でも問題の解決まで求められているとなれば俄然話が変わってくる。
「難しいよ。力になるってどうやって? 先生も、同じ部活のひとたちでも話を聞き出せなかったんでしょ? 部外者の、ましてや佐々木先輩とは面識のない僕じゃあ……」
無理だと断言しなかったのは、やはり南久保さんへの配慮に過ぎない。
この娘も、どうして僕にそんな無茶を求めてくるのだろう?
疑問を喉で留めたのもまた、訊かなくても答えが分かったからだ。
必死なのだ。尊敬する先輩の力になりたくて……あるいは自分の無力に耐えられなくて、藁にもすがりたい気分なのだ。ならば神坂さんは?
彼女は、確信をもって頷いた。
「風間くんならきっと力になってあげられるよ」
「どうして」
「あのときだって、助けてくれたじゃん。あたしのこと」
あのとき……?
声には出さず繰り返した。あのとき。あのとき。あのとき。
そして、ふと彼女が付けた髪留めが目に留まり、ようやく「ああ」と思い出した。
「話が全然違うよ。それに、あのときだって結局僕は何もできなかった」
「でも、君はあきらめなかったでしょ?」
口ごもってしまった。神坂さんは、糸を緩めたような貌をした。
「風間くん、君は分かってないんだよ。あのとき、あたしがどれだけ救われたのか」
そう言われると何も言い返せない。救われたとか、救われていないだとか。そんなことは本人が決めることだからだ。
きっと神坂さんはこう言いたいのだろう。たとえ満足のいく結果が得られずとも力を尽くしたという事実だけで幾ばくかの悔いを拭い去ることができるのだと。
遠回しにそう伝えたら、
「それは違うよ」
やんわりと否定された。彼女の鼻先には描きかけのキャンバスがあった。
「言ったでしょ? 君は簡単にあきらめない。あきらめないから今も自分と向き合い続けてる。それに……君は普通のひととは見えているものが違うもの。何か、あたしたちでは及びもつかない方法で問題を解決してしまうかも知れない」
そして神坂さんはにっと笑った。買い被りだと否定したかった。けれど祈るように手を組み合わせる南久保さんを前にすると、口を結ぶしかなかった。
「お願いします。風間くん。力を貸して」
潤んだ瞳が、迫ってくる。
「先輩を助けて」
溜息を吐くしかなかった。
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