04
後藤は大きく首を振った。
そんな莫迦な話がある筈が無い。
厭、あってはならない。
後藤は、何十年も、大久保の傍にいたのだ。
もし大久保が、野蛮な蠱物であるならば…
想像に耐え兼ねる。
何十年と言ったが、抑、今は本当に2020年なのだろうか。
ここが異界であるなら、月日は曖昧模糊としたものであるかもしれない。
然し、何故今が2020年というのが出てくるのだ。
あの落書きをしいていた日誌を付ける際に…
『おい大久保。今年って何年だった?』
問う後藤に、
『今年は2020年ですよ。もう後藤さん、しっかりしてくださいよ』
何気ない会話だったのだ。
よく考えると、妙だ。大久保が、異界に誘い込まれてしまっているのならば、何故そんな事を確信を持って言えるのだ。幾ら利発な頭の持ち主であっても、立場は後藤と変わらない筈だ。
ー大久保に、全て操られていたのではないかー
1972年の勤務日誌。原稿用紙。カセットテープ。少女のノート。怪異が徐々に強まっているのは、既に見出した。
最初は交番前の道路から動く事さえ出来なかった男が、異界に誘い込み、交番に近づく事が出来る様になった。
そして更に強大化していった怪異は、遂に始めから”中に”いるようになった。
最早これは、邪推などと呑気に嘲っている場合では無い。後藤が導き出したのは紛れも無い”真実”だ。
早く逃げなければ…
後藤は後目に大久保を確認する。
大久保はまだ戸棚に向かっていた。
今のうちだ。
さっさと逃げよう。
後藤はゆっくりと背後に下がる。
厭、逃げる、って…どこに…?
自問が飛ぶ。
ここは異界だ。
どこに逃げればいい?
交番の外か?外に逃げ道などあるのか?
とはいえ、中は論外だ。大久保、厭、化け物はこの交番のみが異界では無いと言っていたが、中にそんな異物がいるのなら、ここも異界と変わりない。
まずは外に出るしかない。
敢えて何も気付いていない振りをするのも有りかもしれない。
だが、大久保はここまで種明かしをしたのだ。となると、後藤が”真実”を見抜くまで、泳がされていたとも考えられる。ここまでのアクションがあって、何も起こらない訳が…
「あれ?後藤さん、どうかしましたか?」
不意に、大久保が背後を振り返った。
後藤は動揺し、言葉を返せ無かった。
すると大久保は、表情を変えた。
「…やっとか…」
一瞬だが、”あの顔”が見えた気がした。
驚くと同時に、交番内の明かりが消えた。
「うわっ…!」
遂に、始まったのだ。恐怖の時間が。これでは関西弁の巡査の二の舞だ。
ガタガタガタガタという音。
近い。惘している場合では無い。
グオオオと咆哮の様な音。
何も見えない。
よく考えろ。戸棚から後退りしていたんだ。という事は、その後ろには…
裏口があるではないか!
兎も角、ここから脱出する他ない。
交番が何故か生温い空気感に変わっている。ねちゃりとした音。
今度はぐちょっという音。
上か!真上にいるのか!
ガンガンガンと窓を激しく叩く音。ドスンと地面を割るような音。
得体の知れない音が、交番中に響き渡る。
何なんだ、これは。
後藤は大きく首を震わせた。
惑わされてはいけない。
このまま後ろにいけば、裏口に当たる筈だ。
一歩、また、一歩、と後ろへ足を這わせる。
前向きで向かった方が早いのは勿論分かる。だが大久保は、明かりが消えた時、自分の方を向いていた。
だが、隠れる素振りも無いのに、あの至近距離で後藤を捉えられないのはどうしてだ。
確か関西弁の巡査の時は、暗闇で声を出していた。”記録”をする為に。
少女のノートでは、ノートに”記録”する音が響いた。
だが、後藤は、”記録”をしていない。音を出していない。
もしかすると奴は、耳は良いが目は悪いのか?
なら何故電気を消す?
よく分からないが、案外弱点はあるのかもしれない。
ゆっくりと、後ろへ足を滑らせる。
バタン!と扉が閉まる音。
わっと声を上げそうになったが、これも悲鳴を上げさせる作戦なのかもしれない。
右足が、何かに当たる。
ドアだ。裏口に来たのだ。
パリパリという音。
後藤は体を反転させた。
さあ逃げるぞ、悪夢の交番から。
冷たいドアノブに手を掛ける。
ガチャガチャ、という音。
まさか、そんな…開かない。
もう一度ドアノブを回す。
駄目だ。
後藤は裏口など、殆ど使用した事が無かった。
よく考えれば、あの関西弁の巡査が言っていたではないか。この扉は、鍵が必要だと。
そして、目を離せば直ぐにでも近づいてきそうだ、とも。
後藤は今、部屋に背を向ける格好で扉の前に立っている。
後藤は、ドアノブを回す音を出した。何度も。
肩に冷たい感覚を覚える。
掌のような感触。
だが、ねっとりとしている。
後ろから、冷たい風が吹く。
「うわああああああ!」
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