03
1987年の勤務日誌。それを著したのは、後藤。
後藤という名は珍しくは無いし、偶然の可能性もある。
然し、後藤の脳に眠っていた記憶は、遂に覚醒を始めた。
ー俺は、ここで、勤務していたんだー
村上という同僚の存在。1987年に職を辞した事。辞した理由は…身の毛もよだつ怪異の為。
忘れもしない。あの日に見た、悍ましい顔。
そして、書置きの様に戸棚に残していった、原稿用紙。
あの原稿用紙を書いたのは、他の誰でもない、後藤だったのだ。
職業への思い入れの無さは、今ともさほど変わっていない。
自らが職を辞したのが、1987年。その後、自分はどこで何をしていたのだろうか。
1997年、交番内にて少女が倒れているのを発見。責任を問われた警察官二人は辞職した。
これを鮮明に覚えているという事は、後藤は恐らくこの事件の後に、もう一度この交番に配属された、という筋書きが妥当だろう。
ーそうか、あの時、俺は警察官を辞めたんじゃなかったー
異動したのだ。当時は、深刻な警官不足が社会問題になっており、後藤は異動を餌に引き留められたのだ。
でも何故、厭がってここを辞めたのに、もう一度配属されるだなんて話になったんだ?
そんな莫迦な話、引き受ける筈が…
そうだ、嘗ての上司だった、頭の逝かれた男じゃないか。
あの男は後藤に言い放ったのだ。
『お前が辞めたこの10年で、あの交番は二人も死者が出てるんだ。お前が、この責任を負え!』
関西弁の陽気な刑事に、幼い少女。これらを、全て後藤に押し付けた。
当然最初は断った。そんなのは巫山戯ている、莫迦げている、と必死に交渉をした記憶も、残っている。
だが最後は押し切られ、恨めしくも交番に戻って来てしまったのだ。
そこには、淡い期待もあった。10年経てば、もう大丈夫だろう、と。
ー不審死が、二件もあったのにー
後藤はハッとする。
『本質的に、交番から”逃げ”られた事には、ならないんじゃないでしょうか』
大久保の言葉。交番から脱して、それで終わりなら良い。
ともすれば、後藤が辞職”出来なかった”のも、あのおかしな上司に”戻らされた”のも。
全ては、この交番の呪いに憑かれてしまっていたのではなかろうか。
『あの原稿用紙には、続きがあるのかもしれませんね』
後藤は10年振りに交番に復帰し、記録の続きを書かされた。
四項のうち、唯一”完結”していない、あの黄ばんだ原稿用紙の、続きを。
だから、机に置かれていたのは、”黄ばんだ”原稿用紙だったのだ。
ー俺は、逃げられなかったのかー
忌まわしき交番から、逃れる事は出来ないのか。こんな交番で、死ぬ訳にはいかない。
そういえば、と後藤は思い返す。
後藤はここでの勤務が改めて始まってから数日、何度もあの日の事をフラッシュバックさせ、恐怖に身を竦めていたのだった。今すぐにでも辞めてやろうか、という程までに。
然し、そんな事はすっかり忘れ、気が付いたら平然とここで仕事を熟す日々になっていた。
つまり、その数日後というのが、異界に誘い込まれてしまった時分だ。
後藤に残されていたる記憶は、ここでありもしない仕事を熟していた記憶のみ。
最初の記憶ーまるで物心がついた時のようだがーを、後藤はありありと覚えている。
『新たにここに配属された大久保と申します。まだまだ未熟者ですが、宜しくお願い致します』
1972年に、交番前にて巡査が惨殺された事件を受けて、二人が勤務する形を原則にした。
それに則って、大久保が配属された。挨拶を受けた時の、あの目は忘れられない。まさに、本物の目だった。活気に溢れた、あの表情。
記憶の分岐点には、大久保がいた。
即ち、大久保がここに来たその日から、異界に誘い込まれ、記憶を失った。
ー起点は、大久保の来訪ー
後藤は自然と、隣で未だ戸棚を探る大久保を見た。
「どうかされましたか?」
後藤は首を横に振った。
記憶が無くなった起点は、大久保の来訪。
あの原稿用紙を見つけてきたのは、大久保。
少女のノートを見つけたのも、大久保。
ノートといっても、最後に1ページや2ページしか書かれていない内容を。
勤務日誌を見つけたのは後藤だが、その時既にテープを発見していたのは、大久保。
恰も探偵の様にこの記録に、鋭い推理を述べ始めたのも、大久保。
いみじくも、彼の推理は見事に的中している。
異常な現状に気付いたのも、大久保だ。
彼はこの呪いの根本とも言える部分を、あっさりと見抜いた。
関西弁の巡査の、道路云々の一言だけで。
後藤が何十年かかっても、気付かなかった”事実”に。
まるで、大久保に全て誘導されているかの様だ。
一体、これらの事象は…
抑、後藤は大久保について、殆ど知らなかった。よく考えてみれば、身の上話など聞いた事が無かった。
まさか…
”交番の前”に、男が”いない”のは…
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