第127話 ミセス・エバンズの観察
マグノリア・エバンズ伯爵未亡人は、淑女の鏡と謳われる女性だ。
嫁いだエバンズ伯爵家は高位貴族の末席に過ぎないが、牧畜に優れ、加工品で名を馳せる裕福な領地を治めている。
特に一抱えもある巨大なチーズは、貨幣と同じ価値で財産となった。
実家は小麦の生産地で、グランズ侯爵家の分家にあたる。こちらも、国内最大の穀倉地帯を有する貴族家だ。
恵まれた環境で育ったマグノリアは、あらゆる教育を施されたが、運悪く王家に同年齢の男子が居らず、王妃の資格がありながらも輿入れは望めなかった。
礼儀作法はもちろんの事、手芸に絵画、楽器は天才的で、算学に秀でる事から、婚家の財務管理や領地経営まで熟す才媛ぶりを発揮した。
卓越した彼女の能力にあやかろうと、息女に教えを乞う貴族家は後を絶たなかった。
理解ある
高位貴族の息女たち。王家に繋がる公女方。輿入れして来た隣国の王女殿下に対し、厳しく行った王妃教育。
気づけば夫を見送って十年。教鞭を取って、三十数年が経っていた。
引退を決心した時点で、最後にあとひとりだけと、達っての願いで請われた王太子妃教育も、この冬に無事終わり、表舞台から降りるには程よい時期だと思う、今日この頃。
平民から養女にと迎えた少女に、礼儀作法を教授してほしいと、強く依頼があった。
王太子妃教育を施した最後の
息子が治める領地へと、帰る支度も終えたのだが、平民から貴族の子女になった者に、教鞭を取るのは初めての事例で、教師魂に火が付いた。
貴族よりも貴族らしい淑女に、育てられないものか。と。。
「身分など関係なく、最高の淑女が誕生すれば、それは素晴らしい事ね」
シンプソン伯爵家の学習室で、生涯最後の教え子を待つマグノリア。
この冬まで、王宮の一室で王太子妃教育を行っていたのを思い出す。
「ルイーゼ様は、王太子妃に相応しくあろうと、研鑽を積まれたのです。筆舌に尽くし難い努力を、ぽっと出の
教え導き、巣立って行った令嬢たちは、マグノリアの誉であり、宝物のような完成品だ。
己の生涯を、綺羅星の如く輝かせる、美しい思い出たち。。
その星のひとつに加えようと、なかなかの熱の入れようだった。
「貴方が、コマキィ・シンプソン伯爵家令嬢ですね。わたくしはマグノリア・エバンズ。ミセス・エバンズと、お呼びなさい」
開いた扉の向こうで、不安げな表情を浮かべる少女に、ミセス・エバンズはおっとりと話しかけた。
「はい……ミセス・エバンズ? 」
直立不動で小首を傾げる小真希に、
******
ミンツが開け放った扉の向こうで、凛とした老婦人が立っていた。
立ち襟の首元には、古めかしい
細身のベストと上着は、上質な黒の絹。
やや膨らみを持たせたスカートは、艶を抑えた
全身で未亡人だと主張する、シックな
「後ろのメイドは、あなたの専属と聞いています。授業が終わるまで、部屋の隅で控えさせなさい」
「はい。スーザン、ミンツの 」
指示を出せと言ったミセス・エバンズが、片手を上げて小真希の言葉を制した。
「淑女は、貴族は、使用人に声をかけて命じてはいけません。指先ひとつ、視線の移動のみで行うのが、正しい所作です」
「…はい」
「これからは、生活のすべてが作法の訓練ですよ。心なさい」
「……はい 」
「『はい、ミセス・エバンズ』と、おしゃってくださいな」
「………はい、ミセス・エバンズ……」
「結構」
小真希への返事を一言で済ませたミセス・エバンズは、チラとミンツへ視線を向ける。
使用人の綺麗な礼をして、ミンツは扉の横へ移動した。よく分かっていないスーザンに、小真希は二回ほどミンンツの方へ顔を向ける。
「ぁ 」
何か言いかけたスーザンは、慌ててミンツの横へ小走った。
「……まぁ、今日は良しと致しましょう」
いつの間に広げたのか、扇子の陰でミセス・エバンズは吐息した。
モヤモヤしながらも緊張していた小真希だが、頭の片隅がピキリと音を立てる。
「初歩にもなりませんが、歩き方の練習から始めた方が、良いでしょう」
「はい……ミセス・エバンズ 」
またもや、ピキピキと、何かの尾が切れてゆく。
歩き方とか、掴まり立ちした子供なの⁉︎ と、
何もかも
上等だわ、おばさん。
緊張してシクシクしていた胃が熱くなって、心の中にメラッと反骨の狼煙が上がった。
「まずは歩く姿勢から。 顔をあげ、顎を引き、胸を張り、お腹は引く。右足を軽く上げ、つま先から前へ……膝は 」
『習得
どこかプンスカしている取り説のアナウンスが、頭の中で聞こえた。
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