継続

 皆が勝手な物語に溝口君を填めていく。でも、私もまた怒ることなんて出来ない。

 私が訪れた病室では溝口君が眠っていて、溝口君の他には誰もいない。もう、眠っている時間の方が長いと聞く。冷たく、静かな部屋が溝口君が安定していることを伝えてくれる。

「溝口君、来たよ」

 溝口君は眠ったままで答えない。でも、それはわかって私はそう言ったので気にしない。

 カーテンと窓を開ける。一日に一度くらいは日の光を入れて、空気を入れ替えないと部屋が澱んでしまう気がした。

 花瓶に入った水を取り替えて、持ってきた溝口君の着替えをベッドの脇の引き出しに仕舞う。

「良い天気だね」

 溝口君に話しかける。溝口君は答えない。

「あら、おはようございます。今日もいらっしゃってたんですね」

 看護師さんが私にそう声をかけて病室に入ってくる。

「はい、良い天気でよかったです」

「そうですねぇ。こういう日は気分もいいでしょうし。ここのところ毎日いい陽気ですね、本当」

「そうですね、本当に」

 溝口君の状態の確認をいくつかして看護師さんも部屋を出ていく。何を確認したというのだろう? こんな状態の溝口君からわかることなんてないだろうに。

 溝口君は目覚めない。

「本当、変わらない」

 そう、私は言う。

 こうして溝口君のお見舞いをするようになったのはいつからだったろう。

 溝口君の命が残り少なくなって、私は溝口君と話して残りの時間を悲しむわけでも諦めるわけでもなく、ただ一日一日を生きていくことを決める。生きることを諦めるわけでも、終わりに対しての生きるか死ぬかの勝ち負けとして日々を捉えるわけでもなくて、ただその時間を幸福に生きようとする道だってあるはずだ。そう、思った。

 でも、訪れる人々にはそうは思われない。多くの人が私と二人になると余命を知りたがるし、私たちが終わりに対しての勝ち負けの戦いをしているように捉える。争い事が溝口君は嫌いだったのに、終わりが近づくと必ず戦わないといけないのだろうか? でも、私たちも死を受け入れているわけでも、諦めているわけでもない。

 運命との戦いとして日々を使うのではなくて、他のことに時間を使おうと思っただけなのに。人は見たいようにしか、世界を見ることが出来なくて、私も溝口君もその例外ではない。私と溝口君は《終わり直前の二人》として見られている。

「でも、私も皆と同じだったかもね」

 そう。私もまた同じなのだ。

 小さい頃のことだ。私の家で飼っていた猫が死んだ。とても可愛い猫で、私はその子が大好きだったから、私はそれが嫌で認められなくて祈った。奪わないでください、殺さないでください、お願いします、お願いです、私を置いていかないでください。

 そんな風に、無我夢中で祈った。

「にゃー」

 さっきまで冷たかった猫が鳴く。私に暖かな体を押し付ける。

 私が祈ると、終わりを否定出来る。私の祈りが強いほど、私が何かを大切だと、愛おしいと思うほどにその祈りは届く。猫は生きていく、以前と違う瞳の色になって。

 死を否定するということはその存在の運命を否定するということらしい。だからこそ、私の祈りが届くと死の運命に捉えられないようにその存在の何かが変わる。姿形、嗜好、その存在を構成する何かが。私以外の、誰にも気づかれないように。私以外に違和感なんて与えないように、変わる。

 結局、猫は数年して寿命で亡くなる。私はその子を可愛がったけど他の人が気づかない、瞳の色が変わったことを私だけはずっとわかっていた。その時は、祈らなかった。

 勝手な祈りを押し付けたらいけないと、私はわかっていたから。

 わかっていたはずなのに。もうしないと決めたはずなのに。

「ごめんね、溝口君」

 私の目の前で眠る溝口君は、もう私が初めて出会った時の溝口君とは姿形が異なっている。

 最後の瞬間、あんなに溝口君と話して決めたはずのことを私は裏切ってしまう。溝口君を失うことを拒んでしまう。祈ってしまう。溝口君が消えないように、このまま残り続けてくれるように。

 でも、溝口君を捉える終わりの運命はとても強いから、私はその度に祈りを捧げる。

 もう、どれだけ祈りを先延ばしにしたのかわからない。

 初めのうちは目覚めていた溝口君はみるみるうちに性格も変わってしまった。穏やかな溝口君が、時に粗野な振る舞いをして、時にヒステリックに泣いて、時に何も語らず黙り込んでしまう。

 そして目の前の溝口君はもう、人の姿をしていない。鉱物と化した体が部屋に張り付いていて、この部屋はもう溝口君以外生活なんて出来やしない。この病院に根を張って、溝口君はもう人でもなく、この建物と一体化をしつつある。

 もしかしたら、もう私が大切に思った溝口君は存在しなくなっているのかもしれない。目の前にいるのはもう、私の好きだった溝口君とはかけ離れた誰か、何かでしかないのかもしれない。

「ねぇ、溝口君」

 わかっている。わかっているのだ。

 でも、だけど、どうしても。

「こんなに変わっちゃっても、まだ変わらず、失くしたくないっておかしいのかな」

 私は眠り続ける溝口君にそう声をかける。

 祈りを終えられる気は、まだ、しない。〈了〉

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