夢の隔たり

 私が小さい頃から見ている夢があって、その夢では教室で一人の男の子が泣いている。それを私は見ていることしか出来なくて、それは何故かというと私がまだ赤ちゃんだったからだ。男の子も赤ちゃんだ。私は生まれた時に初めて見た夢はその男の子ことで、自分も赤ちゃんで毎日泣きっぱなしだというのにその男の子が泣いていることがとても気になってしまう。

 その夢はたびたび私の人生に現れて、私が幼稚園に通っていて昼寝の時間になっても見るようになる。

 夢の中の男の子は私と同じ年頃になっているけれど暗い顔をしている。私は駆け寄ってその子に声をかけようとするけれどガラスのようなものが私とその子の間にあって隔てられている。やっぱり暗い顔をしている。

 くよくよするな! と言いたくなるけれど、その感情は私が目の前の男の子が泣いている現状に不満を思っているからそれから目を背けたいからで多分私のストレスでしかない。これは夢なのだ。夢ということは現実ではないけれど、だからこそ目の前の男の子は現実ではありえないような不安に苛まれているはずなのだ。

 助けなくては! と私の中に沸き起こる何かがあるけれどまだ私の体は小さい。考えて何か閃きを得られるわけでもない。でも、その状況を目に焼き付けることは出来る。

 不安そうな男の子の机には名札が置いてあってそこに『みぞぐち』と書かれている。

「みぞぐちくん!」

 私は大きな声で叫ぶけどその少年には届かない。叫んだ声で夢から目覚めている。盛大な寝言になっている。

 私の両親は幼稚園の友達か何かかと思って笑っているけれど私は『みぞぐち』という名前を繰り返し唱える。忘れてはいけない。夢はすぐに霞んで消えてしまうから。

 それから私は小学校に上がる。私はたびたび夢で『みぞぐち』くんを見続ける。

 漢字を学ぶ。漢字の存在を知って私は自分で調べる。『溝口』という漢字を充てることに気づく。

「溝口君」

 そうして声に出した瞬間、何かがカチリと噛み合う感じがする。夢の中のあやふやな溝口君がそれまでよりもずっと鮮明に理解出来た気がした。

 夢を見る。やっぱり溝口君は暗い顔をしている。学校の教室だというのに他には誰もいない様子だ。

 私と溝口君を隔てたガラスのようなものを叩くけど、それは一向に敗れる気配がない。

 中学校に進学する。相変わらず見る夢の中で私は溝口君に辿り着こうとするけど、そこに至れる気配がない。

 大きな声で叫んでも聞こえない。いくら近づこうとしても近づけない。

 でも諦めない。何かが私の中で絶えないまま残っていて、私はその感情や衝動に従ってただ日常を生きていく。漢字を知った時みたいに何かが私に影響を与えて、それで溝口君に近づくことだってあるかもしれないのだ。

 考える。考え続ける。夢の中のあやふやな記憶を可能な限り起きた瞬間に書き出して日中にはそれについて考える。

 そこで気づく。私と同じく中学生になった溝口君の制服は私の学校のものだ。

 ずっと見ていたのに、夢の中の私はそんなことにも気づけなかった。

 でも、夢の中の溝口君の教室は私の普段通っている教室と少し違う。

 夢の中で私は更に観察を続ける。考え続ける。教室の構造、窓から見えるもの、そこから想定出来る教室の位置。

 お昼休み、私は席を勢いよく立ち上がって教室を飛び出る。

 三階の空き教室に向けて駆けていく。

 段ボールで窓が塞がれた教室で、その前ではケラケラ笑っている生徒たちがいる。

「ねえ、そこで何やってるの」

「え、なんでもないよ。ここで喋ってちゃいけないのかよ」

「その教室に誰かいるの」

「は? 何言ってんだよ」

 私が質問した生徒が明らかに動揺する。私はそれを見逃さない。

「いいからどっか行けよ。なんだよ気持ち悪いな」

「そう」

 私は引き返す。教室に戻る。自分の席の椅子を手に取って走り出す。

 私は知っている。その教室は溝口君のいる教室だ。

 私は知っている。その教室の中で暗い顔をしている誰かのことを。

 私は知っている。学校で見て見ぬふりをされていた誰かがそこにいることを。

 強い憤りと、気づかなかった自分の愚かさと、それでも何かに向けた興奮が私を突き動かしていく。

 空き教室の前で会話していた生徒たちが狼狽えながら私を止めるけど、私は止まらない。

 教室の窓ガラスへ向けて椅子を放り投げる。

 もしかしたら、全部夢で勘違いかもしれない。ガラスの割れる音とともに、私はそんなことを考える。

 でもいい。それでも良いと思う。

 夢見て盛大に失敗してしまうことだって、私の青春にはあるはずだ。

 割れたガラスの向こうを、私は見る。〈了〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る