幸福申請、あるいは道のりの話

 どうして同じ言葉なのに、他の人と溝口君の言葉でこんなにも心への響き方が違うのだろう。どうして、涙が出そうになるのだろう。

「あんた、まだ申請しないの?」

 実家に帰った時にお母さんがそう私に言う。タブレットの申請ページには『幸福申請書』と書かれていて、丁寧に私の分のIDまで用意していたらしい。

「いい。そういう気分じゃないの」

 お母さんに言うと呆れたような顔をされる。

「こういうのは私とかお父さんが反対するものだけど、頭硬いのねぇ。まぁいいけどさ。あんたが幸せになってくれると私も嬉しいんだけどねぇ」

 そう言いながらお母さんが申請書を片付けて戸棚に戻しに机から離れる。お母さんの首には一つの小さな穴が空いていて、それは私にも他の人々にも皆に空いている穴だ。幸福を感じさせるために人間に人工的に付け加えた穴。

 人の幸福の追求は脳科学の観点からも行われて、セロトニンやオキシトシンといった神経伝達物質、ホルモンをどのように効率的に発生させることが出来るかというアプローチに至った。最終的に、人間にはそれぞれ個人差があるから自らそれを発生させるというアプローチに限界があるという結音に至る。幸福には個人差がある。

 その事実は多くの人に絶望を与える。幸福ですら才能の世界になってしまう。

 だからこそ、私たちが人工的に幸福を生み出すための物質を取り入れる手段として穴がつけられる。

 申請した結果配布されるハイジェッターの先を首の穴に挿入、ワンプッシュで投入完了だ。これでもうすっかりOK。完璧。ちゃんと幸せになれる。

 その取り組みに対して人によっては自分の幸福観と違う、だとか非人道的だとか、色々な意見があって反対する人も多くいた。単純にこれまでの幸福の手に入れ方と違うから、という理由が一番多かった。

 お母さんは私もまた、そうだと思っているのだろう。

 そうかもしれない。でも、私には私の理由がある。

 実家から家に帰る。私の《同居人》である溝口君がいる。

「ただいま、溝口君」

 そう言って私は部屋で座っている溝口君の首元のスイッチを押す。人々が幸福へ向けたアプローチは一つじゃなかった。

 人型幸福追求ロボット。NDR115と呼ばれたそれは使用者に応じた幸福を提供するために『成長』するロボットだった。初めはマネキン人形のように顔もなければ服も着ていないし、外見上の性別もわからない。それが使用者と関わっていくうちに徐々に外見と性格が形成されていく。

 私の家にやってきたロボットはやがて溝口と自らを名乗った。

 私は起動したけれど、私がコントロールしてこうしたわけではない。

『ロボットが貴方を真に理解した時、それは幸福の瞬間なのです』説明書に書かれていた文言が浮かんでくる。

「おかえり」

 私は溝口君のそんな言葉を聞くと安らぐ気がする。

 お茶をしながら溝口君と話すことにする。お茶を淹れてもらうために溝口君に一緒にいてもらうわけじゃないから私が淹れる。

 起動した溝口君と実家でのこととか、思ったこと、感じたことを話す。

「お母さんもなぁ、私の幸せぐらい自分で決めさせてほしいんだけどなぁ」

「まぁまぁ。それは仕方ないんじゃない? 心配ってことかもよ」

「そうだけどさぁ」

 溝口君は私の幸福を刺激するには気が利かないなぁと思う。私が求めていたのは同意であったり、自分で幸福を決めたいという私のロジックの強化のための言葉で、お母さんについて別の視座を与える言葉ではない。どうやらピッタリのダイアローグはまだ遠い。でも、こんなことはしょっちゅうだ。

『ロボットが貴方を真に理解した時、それは幸福の瞬間なのです』説明書の言葉を思い出すけど、私は自分自身のこともちゃんとわかっていない。どうして幸福申請に乗れないのかも本当のところうまく言葉に出来ていない。人の意見を聞けば、そうかも、と思うけど次の瞬間には違う気がしている。

 自分でわからない自分のことを、溝口君が理解するのもまた難しいんじゃない?

「でも、そうでなくても君が幸せになってくれると僕は嬉しいよ」

 溝口君が言う。

 どうして同じ言葉なのにこんなにも心に響いて、涙が出そうになるのだろう。

 こんなことも私はわからない。

 だけど、そんな道のりが今は楽しい。幸福に向けて歩けているという感覚。

 もしかしたら幸福という結果は同じかもしれないけれど、今の私にはそんな道のりが何より大切なのだ。〈了〉

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